ep.5 空想と現実の境界線
彼女が消えてから、二週間が経った。
秋の風が吹き始めた街は、夏の残り香を急速に消し去ろうとしていた。蝉の声は遠ざかり、代わりに鈴虫の音が窓の外から届く。季節が変わるたび、僕の中にあった“あの夏”が、現実だったのかどうか、わからなくなる。
でも、ひとつだけはっきりしていることがある。
エリは確かに、存在していた。
誰も覚えていない。先生も、クラスメイトも。
彼女と撮った写真はスマホから消えていたし、LINEの履歴すら消失していた。机の隣にあったはずの席には、最初から誰もいなかったように、何も残っていなかった。
——なのに。
僕の記憶だけは、鮮明だった。
彼女が初めて現れた雨の日。
夏祭りで見た花火。
手をつないで歩いた海辺の小道。
すべて、僕の中で光っている。消えようとしない。
消えてたまるかと、心のどこかが叫んでいる。
だから、僕は毎晩ノートに書き続けていた。
忘れないために。
エリを、この現実に、もう一度繋ぎ止めるために。
でも、僕はまだ知らなかった。
その先に、もうひとつの“空想”が待っていたことを。
*
ある日、放課後。
僕は図書室の奥、誰もいない閲覧席でノートを広げていた。
そのノートには、もう何十ページにも渡って、エリのことが書かれている。日記のようでいて、創作のようでもある。僕が経験した出来事と、僕が願った未来とが、混じり合った世界。
すると——ふいに、誰かが話しかけてきた。
「それ、エリちゃんのこと?」
――心臓が跳ねた。
振り返ると、見知らぬ女の子が立っていた。
黒髪のセミロングに、大人びた目元。制服のリボンが少し歪んでいて、整える気もなさそうな無頓着さが逆に印象的だった。
「……誰?」
「ごめん、驚かせたよね。私、篠森ユカリ。一年下の後輩。……でも、実はエリちゃんのこと、ちょっとだけ知ってる」
「……え?」
誰も覚えていないはずのエリの名前を、彼女は自然に口にした。
その瞬間、背筋がぞくりとした。
「……どうして、君が……」
「正確には“感じた”って言った方がいいのかもしれない。エリちゃんがこの世界に“来ていた”っていう痕跡みたいなものを、時々感じるの。空気の揺らぎとか、音のズレとか」
「……そんなオカルトみたいな……」
「信じなくてもいい。でも、私も似たような存在だったから、わかるの」
その言葉に、僕の思考が一瞬止まった。
「……“だった”? 君も……」
「うん。私は……“消えなかった空想”だった」
そう言ってユカリは、僕の目をまっすぐに見た。
「陽人くん、エリちゃんを“創った”とき、祈ったでしょ。『誰か、自分を理解してくれる存在がいてほしい』って。そういう願いって、強く積み重なると、形になることがあるの。ごく稀に、だけど」
彼女は席に腰を下ろし、僕のノートを覗き込んだ。
「この記録、すごく“定着してる”。彼女の存在を、君の言葉がこの世界に縫いつけてるみたいに」
僕は混乱していた。
理解できない単語ばかりが並んでいる。でも、彼女が語る言葉には、不思議と説得力があった。嘘ではない——そんな感覚だけが、胸に残っていた。
「でも、彼女は……消えた」
「うん。おそらくは、“創られた限界”を超えられなかった」
そうか、と僕は思った。
つまりエリは、僕の空想だった。
でも、僕が彼女に未来を与えなかった。
だから、彼女は現実に“とどまる場所”を持てなかった。
「……だったら、どうすればいい。僕は、何をすれば……」
「君が、彼女に“もう一度存在する理由”を与えられたら——彼女は戻ってくるかもしれない」
「理由……?」
「空想の存在は、“想い”でできてるの。だけど、それだけじゃ足りない。現実に根を下ろすには、想像じゃなくて、記憶と選択が必要」
ユカリは、静かに続けた。
「誰かに“生きていてほしい”と願うこと。それは、空想を現実に引き戻すための唯一の鍵なのかもしれない。私がこの世界にとどまれたのも——ある人が、私を“忘れない”って決めてくれたから」
「……」
僕は拳を握った。
そうだ。忘れたくなかった。エリを。彼女のすべてを。
「じゃあ、僕はもう一度、エリを思い出す。……違う。もう一度、“創る”。今度は、未来ごと」
「それができるなら——きっと、彼女は応える」
ユカリは立ち上がって、微笑んだ。
「私の役目は終わり。……がんばってね、“空想主”くん」
*
その晩、僕は机に向かい、ノートを開いた。
そして、白紙のページに書きはじめる。
《エリは、九月一日、駅前の喫茶店で、僕を待っていた——》
止まっていた物語が、再び動き出す。
僕がエリに贈る、もう一度の“初恋”だ。
*
そして、九月一日。
僕は、駅前の古びた喫茶店「エトワール」の扉を開けた。
そこに、白いワンピースを着た少女が座っていた。
窓辺に座って、紅茶のカップを手にしている。
夕陽が彼女の髪を柔らかく照らしていた。
「……エリ」
彼女は、僕の名を呼んで、笑った。
あの夏と、同じ笑顔で。
「おかえり、陽人くん」