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ep.5 空想と現実の境界線

 彼女が消えてから、二週間が経った。


 秋の風が吹き始めた街は、夏の残り香を急速に消し去ろうとしていた。蝉の声は遠ざかり、代わりに鈴虫の音が窓の外から届く。季節が変わるたび、僕の中にあった“あの夏”が、現実だったのかどうか、わからなくなる。


 でも、ひとつだけはっきりしていることがある。

 エリは確かに、存在していた。


 誰も覚えていない。先生も、クラスメイトも。

 彼女と撮った写真はスマホから消えていたし、LINEの履歴すら消失していた。机の隣にあったはずの席には、最初から誰もいなかったように、何も残っていなかった。


 ——なのに。


 僕の記憶だけは、鮮明だった。


 彼女が初めて現れた雨の日。

 夏祭りで見た花火。

 手をつないで歩いた海辺の小道。


 すべて、僕の中で光っている。消えようとしない。

 消えてたまるかと、心のどこかが叫んでいる。


 だから、僕は毎晩ノートに書き続けていた。

 忘れないために。

 エリを、この現実に、もう一度繋ぎ止めるために。


 でも、僕はまだ知らなかった。

 その先に、もうひとつの“空想”が待っていたことを。



 ある日、放課後。

 僕は図書室の奥、誰もいない閲覧席でノートを広げていた。


 そのノートには、もう何十ページにも渡って、エリのことが書かれている。日記のようでいて、創作のようでもある。僕が経験した出来事と、僕が願った未来とが、混じり合った世界。


 すると——ふいに、誰かが話しかけてきた。


「それ、エリちゃんのこと?」


 ――心臓が跳ねた。


 振り返ると、見知らぬ女の子が立っていた。

 黒髪のセミロングに、大人びた目元。制服のリボンが少し歪んでいて、整える気もなさそうな無頓着さが逆に印象的だった。


「……誰?」


「ごめん、驚かせたよね。私、篠森しのもりユカリ。一年下の後輩。……でも、実はエリちゃんのこと、ちょっとだけ知ってる」


「……え?」


 誰も覚えていないはずのエリの名前を、彼女は自然に口にした。

 その瞬間、背筋がぞくりとした。


「……どうして、君が……」


「正確には“感じた”って言った方がいいのかもしれない。エリちゃんがこの世界に“来ていた”っていう痕跡みたいなものを、時々感じるの。空気の揺らぎとか、音のズレとか」


「……そんなオカルトみたいな……」


「信じなくてもいい。でも、私も似たような存在だったから、わかるの」


 その言葉に、僕の思考が一瞬止まった。


「……“だった”? 君も……」


「うん。私は……“消えなかった空想”だった」


 そう言ってユカリは、僕の目をまっすぐに見た。


「陽人くん、エリちゃんを“創った”とき、祈ったでしょ。『誰か、自分を理解してくれる存在がいてほしい』って。そういう願いって、強く積み重なると、形になることがあるの。ごく稀に、だけど」


 彼女は席に腰を下ろし、僕のノートを覗き込んだ。


「この記録、すごく“定着してる”。彼女の存在を、君の言葉がこの世界に縫いつけてるみたいに」


 僕は混乱していた。

 理解できない単語ばかりが並んでいる。でも、彼女が語る言葉には、不思議と説得力があった。嘘ではない——そんな感覚だけが、胸に残っていた。


「でも、彼女は……消えた」


「うん。おそらくは、“創られた限界”を超えられなかった」


 そうか、と僕は思った。


 つまりエリは、僕の空想だった。

 でも、僕が彼女に未来を与えなかった。

 だから、彼女は現実に“とどまる場所”を持てなかった。


「……だったら、どうすればいい。僕は、何をすれば……」


「君が、彼女に“もう一度存在する理由”を与えられたら——彼女は戻ってくるかもしれない」


「理由……?」


「空想の存在は、“想い”でできてるの。だけど、それだけじゃ足りない。現実に根を下ろすには、想像じゃなくて、記憶と選択が必要」


 ユカリは、静かに続けた。


「誰かに“生きていてほしい”と願うこと。それは、空想を現実に引き戻すための唯一の鍵なのかもしれない。私がこの世界にとどまれたのも——ある人が、私を“忘れない”って決めてくれたから」


「……」


 僕は拳を握った。

 そうだ。忘れたくなかった。エリを。彼女のすべてを。


「じゃあ、僕はもう一度、エリを思い出す。……違う。もう一度、“創る”。今度は、未来ごと」


「それができるなら——きっと、彼女は応える」


 ユカリは立ち上がって、微笑んだ。


「私の役目は終わり。……がんばってね、“空想主”くん」



 その晩、僕は机に向かい、ノートを開いた。

 そして、白紙のページに書きはじめる。


 《エリは、九月一日、駅前の喫茶店で、僕を待っていた——》


 止まっていた物語が、再び動き出す。

 僕がエリに贈る、もう一度の“初恋”だ。



 そして、九月一日。


 僕は、駅前の古びた喫茶店「エトワール」の扉を開けた。

 そこに、白いワンピースを着た少女が座っていた。


 窓辺に座って、紅茶のカップを手にしている。

 夕陽が彼女の髪を柔らかく照らしていた。


「……エリ」


 彼女は、僕の名を呼んで、笑った。

 あの夏と、同じ笑顔で。


「おかえり、陽人くん」


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