ep.4 夏を盗む君の手
七月の空は、まるでフィルムカメラで撮ったみたいな青だった。
蝉の声が耳に張りつくように響いていて、でもその喧しさすら心地よいと思えるほど、僕は今、何もかもが特別に感じていた。
エリが隣にいるだけで、世界の温度が少し上がる。
そんな感覚を知ったのは、この夏がはじめてだった。
高校生活最後の夏休み。
いつもなら部屋にこもってゲームして、アイス食べて、スマホをだらだら眺めて、気づいたら8月が終わってる——そんな予定だった。
だけど、今年は違う。
僕の隣には、菰野エリがいる。
空想じゃない。本当に、いるんだ。
*
「陽人くん、こっちこっちー!」
海だ。
青春イベントの定番中の定番。
僕たちは、クラスの有志グループで海水浴に来ていた。
なんかもう、すごく漫画っぽい展開だなって自分でも思う。
だって、あのクラスでいっつもぼっちだった僕が、まさか海で水着の女の子たちとキャッキャしてるなんて……信じられない。
……いや、正確には「女の子たち」じゃない。「エリ」だけだ。
他の女子は完全にグループで固まってて、僕はあくまで“エリの付き添い”として連れてこられた扱いだった。むしろ、気まずいレベルで。
それでも、彼女は僕だけを見て笑ってくれる。
「見て見て! 陽人くん! カニがいる!」
「お、おう。……すごいな、ちっちゃいけど……」
「カニって、なんで横に歩くんだろ。照れ屋さんなのかなぁ」
「その発想はなかったな」
エリは真剣な顔でカニを見つめていた。
その横顔が、光を跳ね返してやけに綺麗で、僕はなぜか直視できなかった。
まるで、今この瞬間をずっと見つめてしまったら、それが終わりを迎えてしまうような——そんな気がして。
「陽人くん」
「ん?」
「いつか……この夏、思い出してくれる?」
「なんだよ、いきなり」
「ううん、なんでもない。……ただ、ちゃんと覚えててほしいなって」
エリの声が、波の音にかき消されそうだった。
でも、ちゃんと届いた。胸の奥に、ぎゅっと刺さるように。
「覚えてるよ。全部。ぜんぶ、忘れない」
そう言った僕の声も、どこか震えていた。
*
それから数日後。
僕たちは、地元の夏祭りに行った。
屋台の焼きそば、射的、金魚すくい、りんご飴。
何もかもが、定番すぎて笑えるくらい“ザ・夏”って感じだったけど、エリは全部を初めてみたいに楽しんでいた。
「わあ……! 見て見て、綿あめって本当にふわふわなんだね!」
「……初めて食べたの?」
「うん。夢の中じゃ味がしなかったから」
「……そっか」
エリは、やっぱり現実じゃないのかもしれない。
でも、こうして一緒に歩いて、一緒に笑って、手が触れて、ドキドキして——それが、確かに“現実”だった。
僕は、エリの手をそっと握った。
「えっ……」
「こっち、迷わないように。人混みだし」
誤魔化すように言ったけど、僕の顔はたぶん真っ赤だった。
エリも驚いたように目を見開いて、でもすぐに笑った。
「……うん。ありがとう、陽人くん」
手のひらの中で、彼女の指がきゅっと絡んでくる。
そのぬくもりが、なんとも言えないほど愛しかった。
夜空に、花火が咲いた。
ドン、と音がして、鮮やかな色が空に広がる。
僕たちは見上げたまま、何も言わなかった。
でも、心は確かに、同じものを見ていた。
このまま、時が止まってくれたらいいのに。
本気でそう思った。
*
八月の終わりが近づくと、エリの様子が少しずつ変わっていった。
元気がないわけじゃない。笑っているし、変わらず僕に話しかけてくれる。
でも、どこか、深く考え込む時間が増えた。
ある日の放課後、僕たちは人気のない図書室の隅に座っていた。
「ねぇ、陽人くん。もし、私がいなくなったら、どうする?」
「……またそれか」
「ごめん。でも、聞かせてほしい」
「……」
僕は、しばらく黙った。
言葉を選びたかった。でも、何を言っても嘘になる気がした。
「……嫌だよ。エリがいなくなるなんて。そんなの、考えたくない」
「ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しい」
「でも、どうしてそんなこと言うんだよ。……まさか、本当に——」
「……もうすぐ、帰らなきゃいけないの」
「え?」
「私の“存在期限”が近づいてる。陽人が描かなかった未来に、私は立ち入れない。だから、夏が終わるとき、私は——」
——消える。
その言葉を聞く前に、僕は立ち上がっていた。
「嘘だろ……だって、あんなに……一緒に……!」
「陽人」
エリは、そっと僕の手を取った。
夏祭りのときと同じ手。あったかくて、柔らかくて、僕の好きな手。
「私はね、消えることを悲しく思ってないよ。だって、陽人と出会えたから」
「それでも、僕は——」
「でも、陽人が私を忘れたとき、本当に私は消えてしまうの」
エリの瞳は、涙を湛えていた。
でも、その涙をこぼすことはなかった。
「だから、最後のお願い。……私との思い出を、ちゃんと覚えてて」
僕は、強くうなずいた。
何があっても、この夏のすべてを忘れないと、誓った。
*
八月三十一日。
夏休み最終日。
僕たちは、丘の上の公園にいた。風が涼しくなり始めていた。
エリは、白いワンピースを着ていた。
ノートの中で、僕が一番好きな服装として描いたもの。
「今日で、終わりなんだね」
「……終わらせないよ」
「ふふ、強がりだ」
「強がりでもいい。……エリ、僕は、君が好きだ」
その言葉に、エリは驚いた顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「私も、陽人が大好き。ずっと、ずっと」
そして、彼女はそっと目を閉じた。
「さよなら、陽人くん」
風が吹いた。
その瞬間、彼女の姿は、淡く光って——
……僕の腕の中から、消えた。
*
九月。
新学期が始まっても、誰も“菰野エリ”のことを覚えていなかった。
先生も、クラスメイトも、学校の記録にも名前はなかった。
でも——僕だけは、覚えている。
あの夏の光。
彼女の笑い声。
繋いだ手のぬくもり。
見上げた花火の空。
全部が、僕の中にある。
そして今、僕は、もう一度ノートを開く。
そこに、新しい一文を書き加える。
「エリは、僕の心の中で生き続ける」