ep.3 消えることを知らない君へ
放課後。
教室の窓から差し込む西陽が、床を朱に染めていた。
誰もいなくなった教室で、僕は一人机に突っ伏していた。
……疲れた。精神的に。
まさか空想の彼女が現実になり、しかも転校生として僕の隣に座り、昼休みにお弁当まで分け合い、さらにはクラスで
「陽人くんって呼んでもいい?」
とか言ってくるなんて……!
ありえない。けど、起きてる。
信じたくないけど、何度も目をこすっても夢じゃなかった。
「……これ、どう考えても人生の重大バグだよな」
そんな独り言が口をついて出る。
だけど、誰にも聞かれていないと思っていたその言葉に、ふと、優しい声が重なった。
「ううん。これはきっと、陽人の世界が、ちゃんと動き出したってことだよ」
ドキリとして顔を上げると、窓際にエリが立っていた。
逆光の中で、彼女の髪が金色に染まっているように見えた。まるでアニメのワンシーンみたいな瞬間だ。
「……盗み聞きしてたの?」
「たまたま。陽人が疲れた顔してたから、気になっちゃって」
エリはにこりと笑って、僕の隣の席に腰を下ろす。
カバンの中から、小さなペットボトルを取り出して、無言で僕に差し出した。
ピーチ味のミネラルウォーター。
僕が昔、ノートに「エリの好きな飲み物」として設定したやつだった。
「……本当に、全部覚えてるんだな」
「だって、私にとってそれがすべてだから」
エリは無邪気に、でもどこか寂しそうに言う。
「私は、陽人が作ってくれた“存在”。陽人が書いてくれたことしか、私は知らない。……だから、もっと知りたいな。陽人が知らない陽人のこと」
「……なんだよ、それ」
「ふふ。ちょっと詩的だった?」
「ちょっとどころじゃない」
でも、そんな会話すら、心地よかった。
まるで長年連れ添った恋人のように、言葉のリズムが噛み合う。エリは僕の言葉のテンポを理解している。……当たり前だ。だって僕が、彼女のベースを作ったんだから。
だけど。
ここから先は、彼女の知らない世界だ。
僕が描かなかった、現実の不確かさ、不器用さ、そして——残酷さ。
「ねぇ、エリ。……これから先のこと、考えたことある?」
「うん。陽人と一緒に、卒業して、その先もずっと一緒にいたいなって」
「……簡単に言うなよ」
「簡単じゃないよ。本気だもん」
にこりと笑うエリ。
その笑顔が、僕の胸にチクリと刺さる。
僕は、あの時のノートに、彼女の“未来”を描いていない。
設定があるのは、性格、趣味、口癖、好きな服。
でも、「その先」は——何も、描いていない。
つまりエリは、“その先の人生”を持っていない可能性がある。
僕が描いていない限り。
存在できる根拠が、ない。
だから、怖い。
彼女が、ある日突然“消える”んじゃないかって。
——そんな不安を抱えている僕に、エリは優しく言った。
「私ね、消えないよ」
「……なんで、そう言い切れる?」
「だって、私はもう、陽人の中にだけじゃなくて——この世界にいるから」
彼女は机をとんとんと叩いた。
「現実」を音で示すように。
「ほら、手もあるし、ちゃんと校舎もあるし、あれだよ、保健室で体温測ったら36.8℃だったし」
「それ普通に風邪ひく一歩手前……」
「人間っぽいでしょ?」
「人間“っぽい”のかよ……」
笑いながらも、僕は少しホッとした。
彼女がこんなふうに笑ってくれている限り、この世界に、ちゃんと存在しているって思えるから。
だけど。
同時に、ひとつの疑問が芽生えていた。
——なぜ、今になってエリが現実に現れたのか?
あのノートを書いたのは、3年前。
何度も引き出しの奥に仕舞い込み、存在すら忘れていたはずだ。
それが、どうして今?
疑問をぶつけようとしたとき、エリが不意に口を開いた。
「陽人。……私がどうしてここに来れたのか、知りたい?」
「え?」
「ううん、まだ言っちゃダメかも。ごめんね、今のナシ!」
笑顔で誤魔化すエリ。だけど、目が笑っていなかった。
そのとき僕ははっきりと感じた。——彼女は、何かを隠している。
その何かは、おそらく僕たちの“時間”に関わること。
エリの存在が、この世界にどれだけ許されているのかということに。
……やっぱり、僕は彼女の未来を、描いてやらなきゃいけない。
彼女がこの世界にいる理由を、存在の意味を、僕自身の手で見つけなきゃいけない。
「……なあ、エリ」
「なぁに?」
「夏になったら、海行こうぜ。お祭りとかも。花火も。青春っぽいこと、全部やろう」
「えっ、なにそれ、フラグ!? 死亡フラグ!? 消滅フラグ!?」
「違うよ、バカ。……思い出、作ろうって話だよ」
「ふふ、陽人がバカって言った〜。ちょっと照れてる〜」
「照れてないし!」
わざとらしく指さしてくるエリに、思わず笑ってしまう。
この笑顔を、絶対に忘れたくない。
この時間が、永遠じゃないなら——全力で刻んでやる。
僕はエリの方を向き直り、真っ直ぐに言った。
「なあエリ。……消えないって、約束してくれるか?」
「うん。……でも、陽人も約束して」
「なにを?」
「私が、消えるとしても——私を、ちゃんと覚えてて」
言葉の温度が、一瞬で下がった。
だけどエリは、あくまでも優しい声だった。
まるで、最初から知っていたように。最初からそれが“運命”であるかのように。
僕は何も言えず、ただうなずいた。
そのとき、教室のチャイムが鳴った。
下校時間を告げる、日常の音。
でも、僕たちの世界は、少しずつ非日常に向かっていた。