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ep.18 この物語が終わる前に

 ZINEが完成したのは、六月の終わりだった。


 “君がいなかった世界で見た、光のかたち”


 それが、僕とユカリが作った小冊子のタイトルだった。


 表紙は、ユカリが湖のほとりで撮った一枚の写真。

 朝靄のなか、無人の桟橋が水面に向かって静かに伸びている。

 そこには誰も写っていない。けれど、まるで「誰かを待っている」ような光の滲みがあった。


 ページをめくると、ユカリの写真と僕の短い文章が交互に並んでいる。

 誰かの名前は出てこない。ただ、空想の中で誰かを探し続ける“僕”と、光を撮る“君”の往復書簡のような形になっていた。


 ——ユカリと一緒に作ったのに、完成した冊子を前にして僕は、ほんの少しだけ怖くなった。

 それは、かつて僕が一人でエリを描いていたときには感じなかった種類の感情だった。


「ねえ陽人くん」


 印刷所から届いたばかりのZINEをカフェで確認していたとき、ユカリがふいに言った。


「これさ、エリちゃんに渡せたらいいのにね」


 コーヒーを口に含みかけて、手が止まった。


「……それ、どういう意味?」


「ううん、深い意味はないよ。ただ……この物語を始めたのは、たぶん彼女だったから」


 ユカリは、完成したZINEを愛おしそうに両手で撫でた。


「でも、終わらせるのは、きっと私たちなんだよね」


 その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。


 そう——僕はずっと、「終わらせること」から逃げてきたのかもしれない。

 エリという存在は、僕の中で“消えたままの空想”だった。

 まだそこにいるような気がして、でももう触れられなくて、それでもずっと後ろを振り返ってしまっていた。


 ユカリと出会って、創作を通して前を向けるようになった。

 だけど、本当の意味で“あの日”に区切りをつけられていたかと言えば、きっと違う。


 僕はようやく気づいた。

 エリは、いなくなったんじゃない。

 “手放せなかった”のだ。


 その夜、部屋に帰った僕は、古いノートを取り出した。

 エリの名前を、初めて書いた、あのページ。

 滲んだボールペンの線。

 「菰野エリ」という名前の横に、何度も書き直されたセリフ。


 「——好き、でした。」


 過去形で、何度も何度も。


 僕は、ページの下に、震える手で一言書き足した。


 >ありがとう。君がいなかったら、僕は誰とも話せなかった。


 言葉にすることで、ようやくその空白が埋まった気がした。

 もう、エリは消えてしまってもいい。

 僕のなかに、彼女の“痕跡”だけが残ればいい。


 それが、僕にとっての“空想の終わり方”だった。



 翌日、僕はユカリに言った。


「ZINE、母校の図書室に寄贈してもいい?」


 彼女は一瞬驚いたあと、すぐに笑った。


「もちろん。……なんか、いいね。最初に君が“空想”を生んだ場所に戻すの」


「うん。あの図書室で、誰にも見せなかったノートに、エリを書いてたから」


 そして、あの図書室で——彼女はいなくなったのだ。


 “終わり”は、いつも“始まり”の場所に還っていく。

 それが、ひとつの循環なんだと、今の僕は思える。



 母校の図書室は、少しも変わっていなかった。

 壁の掲示板も、木製の椅子も、書棚の並びも。

 午後の日差しが、静かに本棚を照らしていた。


 受付の先生に話し、ZINEを一冊だけ寄贈する。

 新刊紹介コーナーの棚に、僕とユカリの作った本がそっと置かれる。


 何の飾り気もない、白い背表紙。


 けれど、その一冊に、僕のすべての“空想”が詰まっていた。


 帰ろうとしたとき、不意に後ろから声がした。


「——それ、君が書いたの?」


 振り返ると、そこには制服姿の女子生徒が立っていた。

 黒髪を肩まで垂らし、少し緊張したような表情。


「うん。……よくわかったね」


「見たことある気がしたから。あの展示会……ちょっとだけ行ったの。

 “空想のエリ”、っていう名前に、どうしてだか惹かれて」


 その言葉に、僕は胸の奥で何かが波打つのを感じた。


 “空想”は、確かに“誰か”へ届いている。

 エリのことも、僕のことも、もう知らない世代にさえ。


 僕は言った。


「……読んでくれて、ありがとう」


 彼女は小さく笑ったあと、ぽつりとつぶやいた。


「空想って、ひとりのものじゃないんだね。

 誰かに届いたら、もうそれって、ちょっと“現実”だもんね」


 そう、そのとおりだ。


 もう、僕は空想に溺れない。

 でも、空想を捨てたりもしない。

 エリがくれた空想は、いま誰かの心にも、確かに残っている。


 この物語は、もうすぐ終わる。

 けれど、その先で、また新しい誰かの物語が始まっていく。


 その女子生徒と別れたあと、僕は少しだけ図書室に残って、本棚を見回った。

 あの頃、僕が座っていた奥の席は、今は別の誰かが静かに本を読んでいた。

 時間が過ぎ、場所が同じでも、人は変わっていく。だけど——空想だけは、時を越えて、そっと残っているのかもしれない。


 図書室を出ると、夕方の光が校舎を金色に染めていた。

 グラウンドからは部活の声が聞こえる。

 思えば、この学校のすべての風景に、どこかに“エリ”がいた。


 でも今は、そこに“ユカリ”の声も混ざっている。

 写真のフレームに収まるように、言葉と光の中に生きている誰か。


 駅までの帰り道、僕はポケットの中のスマホを取り出し、ユカリにメッセージを送った。


 > 寄贈、無事に終わったよ。

 > 君の写真、図書室に静かに置かれてる。

 > ありがとう、ユカリ。


 すぐに返事が返ってきた。


 > おつかれさま。

 > その場所に“空想”が戻れて、よかったね。

 > こっちこそ、ありがとう。

 > ……ところで、次の作品、もう構想ある?


 その一文を見て、自然と笑みがこぼれた。


 ユカリはもう、“次”を見ている。

 僕も、そろそろ振り返るだけじゃなく、前へ進まなきゃいけない。


 > うん。まだぼんやりだけど。

 > 今度は、名前のない“君”じゃなくて……

 > 名前のある“あなた”を描こうと思う。


 メッセージを送った直後、すぐに既読がついた。

 画面の向こう、どこかでユカリが小さく笑ってくれている気がした。



 その夜、僕は机にノートを広げた。

 何も書かれていないページを、一枚、ゆっくりと開く。


 あの頃は、誰かに見せるつもりのなかったノート。

 でも今は違う。

 言葉は誰かに届くものとして、ここに書き留める。


 > 彼女は、雨の中からやってきた。

 > そして今、僕の記憶の奥で、静かに微笑んでいる。

 > 君の名前は、もう消えかけているけど。

 > でも、それでいい。

 > 忘れてしまっても、君がいたという“事実”は、物語になった。

 > それが、僕が空想を始めた理由。


 ペンを置くと、胸の中にぽつりと、暖かい灯りがともった気がした。

 言葉にすることで、ようやく形になっていく——そんな感覚。


 そしてその形は、ひとりきりでは描けなかったものだ。


 ユカリ。

 君が隣にいてくれたから、僕はようやく、過去に手を振って前を向ける。


 ZINEの背表紙を撫でながら、僕はそっとつぶやいた。


 「エリ。君がいたから、僕はちゃんと“誰か”を好きになれたよ」


 ——この物語は、もうすぐ終わる。

 けれどその終わりは、“はじまり”でもある。


 光の射す方へ。

 今度は、現実の名前を持った君と一緒に——物語を歩いていくんだ。


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