ep.17 名前を持たない君へ
その人は、懐かしい音楽のように、静かに戻ってきた。
大学の中庭。昼休みのざわめきの中、僕はふと、向こう側のベンチに座っている彼女の姿を見つけた。
白いイヤホン、ゆるい灰色のカーディガン、膝の上にはスケッチブック。
——間違いない。菊名さんだった。
彼女があの展示会で残してくれた、短い手書きの言葉。
>「空想の先に、また会えますように。」
あの紙切れは、今も僕のノートの奥にしまってある。
少し迷ってから、僕は近づいた。
「……こんにちは」
顔を上げた彼女は、少し驚いたあと、ふわりと笑った。
「あ、陽人くん。やっぱり、見覚えあると思った」
「久しぶりですね。あれから……何ヶ月ぶりだろう」
「展示会以来、かな」
彼女の口調はゆっくりで、どこか浮遊感がある。でもその奥には、確かに芯があった。
それは、初めて出会ったときと同じだった。
「何を描いてるんですか?」と聞くと、彼女はスケッチブックを開いて見せてくれた。
そこには、顔のない人物がいた。
輪郭だけで、表情も目もない。けれど、何かを“語っている”ような気配があった。
「……名前、まだ決まってないの。この子。
でも、描いてるときだけは、なんとなく“彼女”って感じがする」
「……僕も、かつて“名前のない誰か”を描いてました。
自分のためだけに、誰にも見せずに」
「エリちゃん、でしょ?」と、彼女は静かに言った。
驚く僕に、菊名さんは笑いながら言葉を継いだ。
「この前の展示の物語、私、三回も読み返したんだよ。……なんていうか、私が描いてた誰かと、重なるような気がして」
「……エリと?」
「うん。私の“空想の誰か”も、雨の中で立ってた。名前もなくて、ずっと笑ってるだけで……。
でも、心のどこかで、その子はきっと“誰かの空想と繋がりたい”って、思ってた気がするの」
その言葉は、どこかで聞いたことがあるような、でもはじめて胸に届いた音だった。
——誰かの空想は、誰かと繋がるためにある。
それは、逃げ場所ではなく、“架け橋”だ。
彼女のスケッチの中の“名前のない誰か”は、確かに僕がかつて描いたエリに似ていた。
でも同時に、どこかユカリにも、今の自分にも似ている気がした。
僕は、ふと口に出していた。
「……空想って、他人に渡せるんですね。たとえ、それがもう自分のものじゃなくても」
菊名さんは、小さく頷いた。
「そう。
空想って、最初は独りで描くものだけど……
ほんとうに大事なのは、誰かの中で、それが“残っていく”ことなんだと思う」
風が吹いた。木々の葉がさわさわと揺れる音に、彼女の言葉が混ざっていた。
僕の中にいたエリは、もう“創作の中心”ではない。
けれど、彼女がいたから今の僕がいる。
その“空想の遺伝子”は、たしかに新しい誰かへと受け継がれていた。
「……僕、最近、誰かと一緒に創作してるんです。写真と文章で、小さな作品集を」
「わあ、すてき。共作、いいね」
「彼女は、すごく現実的な人で。でも、写真を撮ってるときだけ、空想の匂いがするんです」
「うんうん、わかる。
きっとその子も、現実のふりをして空想を守ってるんだよ。
ほんとうに大切なことって、見えないものの中にあるから」
彼女はそう言って、スケッチブックを閉じた。
「また、展示会やろうね。今度は、“名前のない君たち”を、並べて飾ろう」
「はい」と僕はうなずいた。
名前のない誰か、かたちのない思い。
その全部が、僕の物語の“つづき”になる。
空想は、終わらない。
誰かと交差したとき、また新しく生まれていくのだ。
その日、僕は一枚の絵をノートに描いた。
雨の中に立つ誰かではない。
陽の差す、坂道を歩く後ろ姿。
名前のない君。けれど、確かに“ここにいる”誰か。
そこから、新しい物語が始まる気がした。
中庭をあとにした僕は、そのまま図書館へ向かった。
ユカリと待ち合わせていたのだ。写真と文章を組み合わせた小さなZINEを作るため、今日もいくつかの参考資料を集める予定だった。
窓際の席に腰かけて、しばらくすると、ユカリが手を振ってやって来た。
いつも通りのゆったりした歩き方。けれど今日は、少しだけ機嫌がよさそうだった。
「おつかれ、陽人くん。はい、差し入れ」
そう言って渡されたのは、ほんのり溶けかけたアイスラテ。
「ありがとう。……どうしたの、今日はなんだかご機嫌?」
「んー? たぶん、陽人くんが“やっといい顔するようになった”から、じゃない?」
突然の言葉に、むせそうになった。
「なっ……」
「だって、前はもっとこう……心ここにあらずって感じだったし。
最近はちゃんと“こっち側”にいる気がする。現実に、っていうか」
“こっち側”。
その響きに、僕はふと今日の菊名さんとの会話を思い出した。
あの人が言っていた、“空想は誰かに渡して初めて残る”という言葉。
——きっと、今の僕がここにいるのも、エリがその橋をかけてくれたからだ。
「……あのさ、ユカリ」
「ん?」
「今日、偶然、菊名さんに会ったんだ。展示会で、僕の作品見てくれた人」
「へえ……あの“空想のエリ”にコメントくれた人?」
「うん。スケッチブックに、“名前のない誰か”を描いてた。……その誰かが、エリに似てた。いや、ユカリにも似てた。もしかしたら、僕自身にも」
ユカリは少し首をかしげたあと、優しく笑った。
「空想の人って、たぶん“自分の中にある誰かの欠片”なんじゃないかな。誰かに似てて、でも誰でもなくて。……そういう存在、私も描いてみたいな」
「じゃあ、描こうか。写真でも、文字でも。……名前のない君たちのこと」
「うん」
それから二人で、ZINEのレイアウトを広げ始めた。
ページをどう分けるか、ユカリの写真をどこに置くか、僕の文章をどう重ねるか。
細かなやりとりのなかで、ふと彼女がつぶやいた。
「なんかさ、この時間そのものが、“空想”だよね」
「どういう意味?」
「だって、誰かと一緒に作って、しかも現実に残るものってさ。
夢のなかにいたみたいな存在を、こうやって紙に変えるって、なんか魔法みたいじゃない?」
その言葉に、僕は小さく笑った。
「……ほんと、そうだね」
思えば、エリといた時間は、すべて僕の中にしか存在しなかった。
でも、ユカリといる時間は、確かにこの現実に触れて、紙に残っていく。
“空想のエリ”は、僕の中の物語だった。
“記録のユカリ”は、誰かと共有する物語になっていく。
夕方が近づくと、図書館の窓に赤みが差し込んでくる。
机の上に並べた下書きとラフスケッチの影が、ゆっくりと伸びた。
「次の週末、あの湖、もう一度行かない? 今度は朝方がいいな。朝靄が出るって聞いた」
「いいね。ユカリの写真が映えそうだ」
「……そっちじゃなくて。陽人くんが、ちゃんと“今”を見てる顔が撮れるかもしれないって意味」
その言葉に、胸が少し熱くなる。
“今”を見ている。
そうか、ようやく僕は——“この現実”のなかで、誰かと向き合えるようになったのかもしれない。
たとえ、もうエリがいなくても。
たとえ、彼女の声がもう聞こえなくても。
——それでも、僕の空想は続いている。
誰かと繋がるために。
名前のない君と、誰かの言葉のかけらで、未来を編むために。
ユカリの手元で、シャッター音が小さく鳴った。
その一枚に、僕の“いま”が、そっと焼きついた気がした。