ep.16 風をほどく日
風がやわらかく吹いていた。
春が終わりかけて、夏が遠くで笑っているような、そんな季節の変わり目。
陽の当たる坂道を、僕とユカリは並んで歩いていた。
駅前から少し離れた商店街。その裏手にある古道具屋が、今日の目的地だ。
「すごいよ。いろんなレンズとか古いカメラとか、ぎゅっと詰まっててさ。物語の匂いがするっていうか」
ユカリは鼻歌まじりに歩きながら、斜めがけのカメラをポンと叩いた。
彼女の写真に付き合うようになってから、僕も少しずつ“レンズ越しの空想”というものに興味が湧いてきた。
現実を切り取ることで、想像をふくらませる。
その行為は、かつて僕がしていた“空想のエリ”を生み出す時間に、どこか似ていた。
「陽人くんってさ、ほんとはずっと創作していたかった人なんじゃない?」
ふいに、ユカリがそんなことを言った。
「……創作っていうより、“逃げ場所”だったかもしれない。エリを作ってた頃の僕は、現実をちゃんと見てなかったから」
「ううん」と、ユカリは首を横に振る。
「それは違うと思うな。陽人くんは、ちゃんと現実を見てた。……見たうえで、傷つかないようにするために、空想に自分を重ねてたんだと思う」
その言葉に、僕は少しだけ驚いて、そして——救われた気がした。
「……そうかも、しれない」
「でも、もう逃げてない。今は、誰かと一緒に空想できてるから」
僕は、ふっと目を細めた。
ユカリの横顔が、淡い光の中できれいに輪郭を持って見えた。
*
古道具屋は、狭くて、埃っぽくて、だけどどこか懐かしい匂いがした。
奥の棚には、昭和のフィルムカメラやレンズ、古びた手帳や、ポラロイドの束。
その一角に、僕はふと“見覚えのある何か”を見つけた。
手のひらほどの大きさの、古いオルゴール。
金属のふたには、小さく花模様が刻まれている。
指先でそっとねじを巻いてみると、小さな音が鳴り出した。
それは、エリが雨の日に口ずさんでいた、あの旋律だった。
「……っ」
胸の奥がきゅっと音を立てる。
「どうしたの?」
ユカリが覗き込む。
僕はそっと、オルゴールを棚に戻した。
「……なんでもない。たぶん、誰かの記憶が残ってるだけ。僕のじゃない、誰かの空想」
「ふーん」と、ユカリは不思議そうな顔をしながら、別の棚へと歩いていった。
けれどその一瞬、僕は確かに感じた。
空想は、時を超えても残るのだ。
モノの中に、人の言葉の中に、誰かの中に。
僕が“描いた”と思っていたエリも、もしかしたら、どこかで誰かが願った空想だったのかもしれない。
*
帰り道。
空が茜色に染まりはじめた頃、ユカリが言った。
「陽人くん。もしさ、エリちゃんにもう一度会えるとしたら、何がしたい?」
その問いは、あまりにも唐突だったけれど、僕の心にまっすぐ届いた。
「……話したいかな。ただ、“ありがとう”って」
「それだけ?」
「うん。もう、引き止めたりしない。彼女が消えたことに、意味があったって思えてるから」
ユカリは小さくうなずいて、空を見上げた。
「私ね、空想って、“過去”じゃなくて“未来”なんだと思うんだ」
「未来?」
「うん。思い出じゃなくて、“これから出会いたいもの”を描く力。……そう思わない?」
そのとき、僕の脳裏にエリの笑顔がよぎった。
そして、その隣でカメラを構えるユカリの姿が、重なるように浮かんだ。
空想は、過去を癒すものじゃない。
これからの自分にとって、灯りになるものなんだ。
「……ユカリ。ありがとう。今日、来てよかった」
「なにそれ、改まって」
彼女は照れたように笑ったけど、その目は、まっすぐ僕を見ていた。
夕焼けの中、僕たちの影が並んで、ゆっくりと伸びていった。
空はどこまでも広くて、今日もまた、空想の続きを描ける気がした。
その日の帰り道、空にはうっすらと三日月が浮かんでいた。
風は少し肌寒く、だけどどこか、夏の気配を連れてきているようだった。
「ねえ陽人くん、今度の週末、また撮りに行こうよ。今度は、もっと遠くまで」
ユカリが言った。
僕はポケットの中でこぶしを握って、少しだけ息を吸った。
「……いいよ。どこに行こうか」
「湖がいいな。水面に空が映るところ。行ったことある?」
「昔に一度だけ。……小さい頃、家族で。あんまり覚えてないけど」
「じゃあ、再訪ってことで。写真と、文章と。ふたりで何か残そう」
その“ふたりで”という言葉が、どこかくすぐったかった。
けれど、少しもうれしくないわけじゃなかった。
僕の世界に、ようやく“誰かがいる”という実感。
それがじんわりと、足元のアスファルトを柔らかくした。
*
週末。
湖のほとりは、予想以上に静かだった。
カメラを抱えたユカリが、ひとつ息を吐いて、「わあ……」と感嘆の声をもらす。
「見て、あの雲。……水面に、まるでもうひとつの空があるみたい」
そう言ってシャッターを切るその横顔に、僕はふと目を奪われた。
以前の僕なら、たぶん気づけなかった。
誰かと一緒に見る景色が、これほど“他人の色”をまとって見えるということに。
ユカリが切り取ったその写真には、彼女自身の時間と、想いと、光の加減が宿っていた。
それは僕の“空想”とは違って、もっと現実に近く、でも、どこか夢のようだった。
「ねえ、陽人くん」
カメラを下ろした彼女が、こちらを向いた。
「あなたの中に、まだエリちゃんはいる?」
その問いは、決して詰問じゃなかった。
ただ、知っておきたいという静かな気持ちからの問いかけだった。
僕は、しばらく黙ってから言った。
「……いるよ。ずっと。でも、前とは違う」
「違う?」
「今の僕にとって、エリは“記憶”じゃなくて、“起点”なんだ。——始まりの、きっかけ」
彼女は何も言わず、うん、とだけ頷いた。
「じゃあ、今描いてる物語の“つづき”は、エリちゃんじゃなくて……?」
「……たぶん、君だよ」
僕は、自分でも驚くほど自然にそう言っていた。
風が、そっと吹いた。
水面に浮かぶ雲の輪郭が揺れて、少しだけにじんだ。
ユカリは、小さな声で「そっか」とつぶやいて、目を細めた。
そして、彼女は一歩、僕に近づいた。
「じゃあ……つづきを、一緒に描いていこう。ちゃんと、現実の紙に」
僕はうなずいた。
空想は、独りで抱えるものじゃない。
共有したとき、誰かと繋がったとき、初めて“本当の未来”に触れられる。
湖面に映った空が、少しずつ茜色に変わりはじめていた。
その空の中に、僕ははっきりと、新しい輪郭の“誰か”を見つけた気がした。