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ep.16 風をほどく日

 風がやわらかく吹いていた。

 春が終わりかけて、夏が遠くで笑っているような、そんな季節の変わり目。


 陽の当たる坂道を、僕とユカリは並んで歩いていた。

 駅前から少し離れた商店街。その裏手にある古道具屋が、今日の目的地だ。


「すごいよ。いろんなレンズとか古いカメラとか、ぎゅっと詰まっててさ。物語の匂いがするっていうか」


 ユカリは鼻歌まじりに歩きながら、斜めがけのカメラをポンと叩いた。


 彼女の写真に付き合うようになってから、僕も少しずつ“レンズ越しの空想”というものに興味が湧いてきた。

 現実を切り取ることで、想像をふくらませる。

 その行為は、かつて僕がしていた“空想のエリ”を生み出す時間に、どこか似ていた。


「陽人くんってさ、ほんとはずっと創作していたかった人なんじゃない?」


 ふいに、ユカリがそんなことを言った。


「……創作っていうより、“逃げ場所”だったかもしれない。エリを作ってた頃の僕は、現実をちゃんと見てなかったから」


 「ううん」と、ユカリは首を横に振る。


「それは違うと思うな。陽人くんは、ちゃんと現実を見てた。……見たうえで、傷つかないようにするために、空想に自分を重ねてたんだと思う」


 その言葉に、僕は少しだけ驚いて、そして——救われた気がした。


「……そうかも、しれない」


「でも、もう逃げてない。今は、誰かと一緒に空想できてるから」


 僕は、ふっと目を細めた。

 ユカリの横顔が、淡い光の中できれいに輪郭を持って見えた。



 古道具屋は、狭くて、埃っぽくて、だけどどこか懐かしい匂いがした。

 奥の棚には、昭和のフィルムカメラやレンズ、古びた手帳や、ポラロイドの束。

 その一角に、僕はふと“見覚えのある何か”を見つけた。


 手のひらほどの大きさの、古いオルゴール。

 金属のふたには、小さく花模様が刻まれている。


 指先でそっとねじを巻いてみると、小さな音が鳴り出した。


 それは、エリが雨の日に口ずさんでいた、あの旋律だった。


 「……っ」


 胸の奥がきゅっと音を立てる。


「どうしたの?」


 ユカリが覗き込む。

 僕はそっと、オルゴールを棚に戻した。


「……なんでもない。たぶん、誰かの記憶が残ってるだけ。僕のじゃない、誰かの空想」


 「ふーん」と、ユカリは不思議そうな顔をしながら、別の棚へと歩いていった。


 けれどその一瞬、僕は確かに感じた。

 空想は、時を超えても残るのだ。

 モノの中に、人の言葉の中に、誰かの中に。


 僕が“描いた”と思っていたエリも、もしかしたら、どこかで誰かが願った空想だったのかもしれない。



 帰り道。

 空が茜色に染まりはじめた頃、ユカリが言った。


「陽人くん。もしさ、エリちゃんにもう一度会えるとしたら、何がしたい?」


 その問いは、あまりにも唐突だったけれど、僕の心にまっすぐ届いた。


「……話したいかな。ただ、“ありがとう”って」


「それだけ?」


「うん。もう、引き止めたりしない。彼女が消えたことに、意味があったって思えてるから」


 ユカリは小さくうなずいて、空を見上げた。


「私ね、空想って、“過去”じゃなくて“未来”なんだと思うんだ」


「未来?」


「うん。思い出じゃなくて、“これから出会いたいもの”を描く力。……そう思わない?」


 そのとき、僕の脳裏にエリの笑顔がよぎった。

 そして、その隣でカメラを構えるユカリの姿が、重なるように浮かんだ。


 空想は、過去を癒すものじゃない。

 これからの自分にとって、灯りになるものなんだ。


「……ユカリ。ありがとう。今日、来てよかった」


 「なにそれ、改まって」


 彼女は照れたように笑ったけど、その目は、まっすぐ僕を見ていた。


 夕焼けの中、僕たちの影が並んで、ゆっくりと伸びていった。

 空はどこまでも広くて、今日もまた、空想の続きを描ける気がした。


 その日の帰り道、空にはうっすらと三日月が浮かんでいた。

 風は少し肌寒く、だけどどこか、夏の気配を連れてきているようだった。


 「ねえ陽人くん、今度の週末、また撮りに行こうよ。今度は、もっと遠くまで」


 ユカリが言った。

 僕はポケットの中でこぶしを握って、少しだけ息を吸った。


「……いいよ。どこに行こうか」


「湖がいいな。水面に空が映るところ。行ったことある?」


「昔に一度だけ。……小さい頃、家族で。あんまり覚えてないけど」


「じゃあ、再訪ってことで。写真と、文章と。ふたりで何か残そう」


 その“ふたりで”という言葉が、どこかくすぐったかった。

 けれど、少しもうれしくないわけじゃなかった。


 僕の世界に、ようやく“誰かがいる”という実感。

 それがじんわりと、足元のアスファルトを柔らかくした。



 週末。

 湖のほとりは、予想以上に静かだった。

 カメラを抱えたユカリが、ひとつ息を吐いて、「わあ……」と感嘆の声をもらす。


「見て、あの雲。……水面に、まるでもうひとつの空があるみたい」


 そう言ってシャッターを切るその横顔に、僕はふと目を奪われた。


 以前の僕なら、たぶん気づけなかった。

 誰かと一緒に見る景色が、これほど“他人の色”をまとって見えるということに。


 ユカリが切り取ったその写真には、彼女自身の時間と、想いと、光の加減が宿っていた。

 それは僕の“空想”とは違って、もっと現実に近く、でも、どこか夢のようだった。


 「ねえ、陽人くん」


 カメラを下ろした彼女が、こちらを向いた。


「あなたの中に、まだエリちゃんはいる?」


 その問いは、決して詰問じゃなかった。

 ただ、知っておきたいという静かな気持ちからの問いかけだった。


 僕は、しばらく黙ってから言った。


「……いるよ。ずっと。でも、前とは違う」


「違う?」


「今の僕にとって、エリは“記憶”じゃなくて、“起点”なんだ。——始まりの、きっかけ」


 彼女は何も言わず、うん、とだけ頷いた。


 「じゃあ、今描いてる物語の“つづき”は、エリちゃんじゃなくて……?」


「……たぶん、君だよ」


 僕は、自分でも驚くほど自然にそう言っていた。


 風が、そっと吹いた。

 水面に浮かぶ雲の輪郭が揺れて、少しだけにじんだ。


 ユカリは、小さな声で「そっか」とつぶやいて、目を細めた。

 そして、彼女は一歩、僕に近づいた。


「じゃあ……つづきを、一緒に描いていこう。ちゃんと、現実の紙に」


 僕はうなずいた。


 空想は、独りで抱えるものじゃない。

 共有したとき、誰かと繋がったとき、初めて“本当の未来”に触れられる。


 湖面に映った空が、少しずつ茜色に変わりはじめていた。

 その空の中に、僕ははっきりと、新しい輪郭の“誰か”を見つけた気がした。

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