ep.15 名前のない光の中で
それは、静かな始まりだった。
夢のなかで別れを告げたはずのエリ。
彼女の名前を口にした朝から数日が経ったが、僕の中で彼女の存在は、少しも薄れてはいなかった。
いや、むしろ——あの日から、彼女は“空想の声”ではなく、僕の一部として根を下ろしたような気がしていた。
大学の講義の帰り道、ふとしたタイミングで感じる違和感。
コンビニの自動ドアの前で、エリがよく選んでいたイチゴミルクを見つけるたびに、胸の奥がちくりと疼いた。
それでも僕は前を向く。
あの夢で、彼女に「空想の続きを」と言われたとき、僕はもう、戻れない場所に背を向けたのだ。
*
ある日の夕方、図書館でレポート用の資料を探していると、どこか懐かしい背中を見つけた。
「……ユカリ?」
静かに名前を呼ぶと、彼女はくるりと振り返り、目を細めた。
「陽人くん。……久しぶり」
「こんなとこで会うなんて」
「そっちこそ。あの実習のあと、どうしてるかなって思ってた」
僕たちは、誰とも知られないように図書館のすみに腰掛けて、互いの近況をぽつぽつと話した。
「ねえ、陽人くん。……エリちゃんの夢、まだ見る?」
その問いかけに、僕は少し息を呑んだ。
「……見ない。でも、感じることはある。ふとした瞬間に。空気の重さとか、夕焼けの色とか。そういうのの中に、彼女の気配が混じってる気がするんだ」
ユカリは、ゆっくりとうなずいた。
「やっぱり、消えてないんだね。……記憶とかじゃなくて、“ちゃんと残ってる存在”なんだ」
「うん。でも、もう頼らない。彼女がそう望んでるから。……今度は、自分で空想して、自分の道を進まないと」
その言葉を口にしてから、少しだけ誇らしい気持ちになった。
けれどユカリは、少しだけ視線を落とし、ぽつりとつぶやいた。
「……私は、ちょっぴり羨ましいよ。そんなふうに、“誰かの言葉”がずっと残ってるってこと」
「羨ましい」と言った彼女の声には、かすかな寂しさがにじんでいた。
「……ユカリも、何かを失くした?」
そう聞くと、彼女はしばらく黙っていたあと、そっと言った。
「ううん。失くしてない。……でも、まだ“持ってない”だけ」
その言葉の意味は、すぐにはわからなかった。
けれど、彼女の瞳が遠くを見ていたのを、僕は覚えている。
*
それからしばらくして、僕はとある創作イベントに応募することを決めた。
大学の文学系サークルが主催する、小説とイラストの展示会。
テーマは「かけら」。——断片的なもの、心に残る一場面、名もなき記憶。
気づけば、僕はノートに描きためていたエリの姿、そしてそのあとに続く新たな物語の一節を清書しはじめていた。
登場するのは、白い服の少女と、曖昧な記憶を抱えた少年。
少年は「彼女を忘れてはいけない」と思っているが、少女は「私を忘れてほしい」と願っている。
その物語は、どこか僕たち自身の記録のようでもあり、空想が現実に近づくための儀式のようでもあった。
締め切りギリギリで提出し、イベント当日。
展示会場には大学の学生や教員、外部の来場者まで多く詰めかけていた。
「……これ、君が描いたの?」
ブースの前で足を止めていた女性が、僕にそう尋ねた。
「はい。一部は実体験をもとにしてます」
「なんだか、誰かをすごく大切に思ってたことが伝わるね。……会えなくても、伝わるんだって、思った」
その言葉に、胸が熱くなった。
伝わるのだ、空想でも、誰かの記憶でも。
僕の描いた世界が、誰かの“現実”に触れたのだと、初めて実感した。
*
展示会が終わった帰り道、僕はもう一度、夜の海へと向かった。
あの日と同じ場所、同じベンチ。
波の音が、静かに耳を満たす。
ふと、ポケットに入れたままのスケッチブックを取り出すと、ページの端に見慣れない折り目がついていた。
開いてみると、そこに一枚、差し込まれていた。
紙の切れ端。見覚えのある、柔らかいタッチの鉛筆線。
そこには、かすかにこう書かれていた。
> 「空想の先に、また会えますように。」
筆跡は、あの日、美術室で出会った菊名さんのものだった。
彼女もまた、自分の空想を旅しているのだろう。
それは、僕の空想とは違うかたち。けれどどこかで、重なる未来がある気がしていた。
僕たちは皆、自分だけの空想を持っている。
それはきっと、誰かを守るためじゃなく、自分を立たせるためのもの。
空想は、未来の地図だ。
見えない道を照らす、光のかけら。
そして僕は、また歩き出す。
名前のない光のなかで、誰かのためじゃなく、自分のために描きながら。
展示会の余韻は、数日経ってもまだ心のどこかで燃えていた。
あのとき、自分の描いた物語に足を止め、読み、何かを感じてくれた人たちの表情を、僕は忘れられなかった。
自分の空想が、誰かの現実に触れたこと。
それが、ただの一方通行ではなく、言葉として返ってきたことが、何よりもうれしかった。
……そして、あの鉛筆の紙片。
“空想の先に、また会えますように。”
美術室で空を描き続けていた、あの少女——菊名さんの字だった。
彼女が僕にそっと託した言葉が、今も胸の奥で光のように瞬いている。
エリがいなくなってから、世界は変わった。
いや、僕が世界を見つめる目が変わったのかもしれない。
日々の景色が、以前より柔らかく見えるようになった。
雨の日の水たまりや、通学路の植え込みに咲く花に、立ち止まる余裕ができた。
人の声が、以前よりも真っすぐに耳に届くようになった。
そんなある日の放課後。大学の図書室で、またユカリと顔を合わせた。
「……ねえ、陽人くん」
彼女は、開きかけていた参考書を閉じながら、ぽつりとつぶやいた。
「この前の展示、私も見に行ってた。……黙っててごめんね」
「えっ……」
驚いて顔を上げると、ユカリは照れたように笑った。
「ブースの隅っこで、こっそり見てた。……あれ、エリちゃんのこと、描いてたよね?」
僕は少しだけ視線を伏せた。けれど、その問いかけを否定する気持ちはもうなかった。
「うん。……でも、今はもう、彼女の物語じゃなくて、自分のために描いてるつもり」
「そうだね」と、ユカリは小さくうなずいた。
「すごく、よかったよ。……ねえ、次は一緒に何か作ってみない?」
その言葉に、僕は一瞬、耳を疑った。
「一緒に……?」
「うん。私、最近写真にハマってて。……文章と写真を組み合わせて、なんか小さな作品集みたいなの作ってみたいなって思ってたの」
彼女の目は、真っすぐだった。
その目に、今の僕はきちんと応えたいと思った。
「……やってみようか。一緒に」
言ったあと、どこか胸が軽くなった。
エリと出会って、別れて、それでも自分の足で歩こうと決めた今——ようやく、誰かと“共に作る”という選択肢が持てた。
ユカリはうれしそうに目を細めた。
「ほんと? よかった……じゃあ、写真撮りに行こう。今週末、時間ある?」
僕はうなずいた。
彼女の隣で、また新しい物語が始まる気がしていた。
*
週末、ユカリに連れられて訪れたのは、大学近くの丘の上にある、小さな廃駅だった。
廃線になって久しいその場所には、今でも錆びた線路が草に埋もれ、駅名板だけが風に揺れていた。
「なんか、時間が止まってるみたいでしょ」
ユカリはそう言いながら、一眼レフを構えてシャッターを切った。
カシャ。カシャ。
風の音と、シャッター音と、足元で草が揺れる音。
その全部が、物語の“背景音”のように聞こえた。
「ここで、ちょっと座ってくれる?」
言われるがまま、線路脇のベンチに腰掛けると、ユカリが僕に向けてファインダーをのぞいた。
「……あ、今の顔、すごくよかった」
「え、どんな顔してた?」
「ちょっと、遠く見てる顔。……誰か思い出してるみたいな」
僕は少しだけ笑った。
「……そうかもね」
エリのこと、過去の自分のこと、そしてこれから生まれる物語のこと。
全部が頭の片隅で混ざり合って、でも心は妙に静かだった。
ユカリは写真を撮る手を止めて、ふっと言った。
「ねえ。……空想ってさ、他の人と共有できると思う?」
「うん。できると思う。……たとえ全部は伝わらなくても、かけらだけでも、重なりあえる気がする」
ユカリはしばらく黙って、そして小さく言った。
「……なら、私の空想にも、陽人くんがいてくれたらいいな」
その言葉が、心の奥にしずかに響いた。
僕の“空想”は、いつだって孤独な逃避場所だった。
でも今は、それが誰かと交わる場になり始めている。
過去の彼女がくれた、空想という光。
それを受け継ぎながら、また新しい誰かと描く未来。
ページの余白は、まだまだ白いままだ。
でもきっと、少しずつ、埋まっていく。
空想が終わっても、物語は——まだ、続いている。