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ep.15 名前のない光の中で

 それは、静かな始まりだった。


 夢のなかで別れを告げたはずのエリ。

 彼女の名前を口にした朝から数日が経ったが、僕の中で彼女の存在は、少しも薄れてはいなかった。


 いや、むしろ——あの日から、彼女は“空想の声”ではなく、僕の一部として根を下ろしたような気がしていた。


 大学の講義の帰り道、ふとしたタイミングで感じる違和感。

 コンビニの自動ドアの前で、エリがよく選んでいたイチゴミルクを見つけるたびに、胸の奥がちくりと疼いた。


 それでも僕は前を向く。

 あの夢で、彼女に「空想の続きを」と言われたとき、僕はもう、戻れない場所に背を向けたのだ。



 ある日の夕方、図書館でレポート用の資料を探していると、どこか懐かしい背中を見つけた。


「……ユカリ?」


 静かに名前を呼ぶと、彼女はくるりと振り返り、目を細めた。


「陽人くん。……久しぶり」


「こんなとこで会うなんて」


「そっちこそ。あの実習のあと、どうしてるかなって思ってた」


 僕たちは、誰とも知られないように図書館のすみに腰掛けて、互いの近況をぽつぽつと話した。


「ねえ、陽人くん。……エリちゃんの夢、まだ見る?」


 その問いかけに、僕は少し息を呑んだ。


「……見ない。でも、感じることはある。ふとした瞬間に。空気の重さとか、夕焼けの色とか。そういうのの中に、彼女の気配が混じってる気がするんだ」


 ユカリは、ゆっくりとうなずいた。


「やっぱり、消えてないんだね。……記憶とかじゃなくて、“ちゃんと残ってる存在”なんだ」


「うん。でも、もう頼らない。彼女がそう望んでるから。……今度は、自分で空想して、自分の道を進まないと」


 その言葉を口にしてから、少しだけ誇らしい気持ちになった。


 けれどユカリは、少しだけ視線を落とし、ぽつりとつぶやいた。


「……私は、ちょっぴり羨ましいよ。そんなふうに、“誰かの言葉”がずっと残ってるってこと」


 「羨ましい」と言った彼女の声には、かすかな寂しさがにじんでいた。


「……ユカリも、何かを失くした?」


 そう聞くと、彼女はしばらく黙っていたあと、そっと言った。


「ううん。失くしてない。……でも、まだ“持ってない”だけ」


 その言葉の意味は、すぐにはわからなかった。

 けれど、彼女の瞳が遠くを見ていたのを、僕は覚えている。



 それからしばらくして、僕はとある創作イベントに応募することを決めた。

 大学の文学系サークルが主催する、小説とイラストの展示会。

 テーマは「かけら」。——断片的なもの、心に残る一場面、名もなき記憶。


 気づけば、僕はノートに描きためていたエリの姿、そしてそのあとに続く新たな物語の一節を清書しはじめていた。


 登場するのは、白い服の少女と、曖昧な記憶を抱えた少年。

 少年は「彼女を忘れてはいけない」と思っているが、少女は「私を忘れてほしい」と願っている。


 その物語は、どこか僕たち自身の記録のようでもあり、空想が現実に近づくための儀式のようでもあった。


 締め切りギリギリで提出し、イベント当日。

 展示会場には大学の学生や教員、外部の来場者まで多く詰めかけていた。


「……これ、君が描いたの?」


 ブースの前で足を止めていた女性が、僕にそう尋ねた。


「はい。一部は実体験をもとにしてます」


「なんだか、誰かをすごく大切に思ってたことが伝わるね。……会えなくても、伝わるんだって、思った」


 その言葉に、胸が熱くなった。

 伝わるのだ、空想でも、誰かの記憶でも。

 僕の描いた世界が、誰かの“現実”に触れたのだと、初めて実感した。



 展示会が終わった帰り道、僕はもう一度、夜の海へと向かった。

 あの日と同じ場所、同じベンチ。


 波の音が、静かに耳を満たす。


 ふと、ポケットに入れたままのスケッチブックを取り出すと、ページの端に見慣れない折り目がついていた。


 開いてみると、そこに一枚、差し込まれていた。

 紙の切れ端。見覚えのある、柔らかいタッチの鉛筆線。


 そこには、かすかにこう書かれていた。


 > 「空想の先に、また会えますように。」


 筆跡は、あの日、美術室で出会った菊名さんのものだった。


 彼女もまた、自分の空想を旅しているのだろう。

 それは、僕の空想とは違うかたち。けれどどこかで、重なる未来がある気がしていた。


 僕たちは皆、自分だけの空想を持っている。

 それはきっと、誰かを守るためじゃなく、自分を立たせるためのもの。


 空想は、未来の地図だ。

 見えない道を照らす、光のかけら。


 そして僕は、また歩き出す。

 名前のない光のなかで、誰かのためじゃなく、自分のために描きながら。


 展示会の余韻は、数日経ってもまだ心のどこかで燃えていた。

 あのとき、自分の描いた物語に足を止め、読み、何かを感じてくれた人たちの表情を、僕は忘れられなかった。


 自分の空想が、誰かの現実に触れたこと。

 それが、ただの一方通行ではなく、言葉として返ってきたことが、何よりもうれしかった。


 ……そして、あの鉛筆の紙片。


 “空想の先に、また会えますように。”


 美術室で空を描き続けていた、あの少女——菊名さんの字だった。

 彼女が僕にそっと託した言葉が、今も胸の奥で光のように瞬いている。


 エリがいなくなってから、世界は変わった。

 いや、僕が世界を見つめる目が変わったのかもしれない。


 日々の景色が、以前より柔らかく見えるようになった。

 雨の日の水たまりや、通学路の植え込みに咲く花に、立ち止まる余裕ができた。

 人の声が、以前よりも真っすぐに耳に届くようになった。


 そんなある日の放課後。大学の図書室で、またユカリと顔を合わせた。


「……ねえ、陽人くん」


 彼女は、開きかけていた参考書を閉じながら、ぽつりとつぶやいた。


「この前の展示、私も見に行ってた。……黙っててごめんね」


「えっ……」


 驚いて顔を上げると、ユカリは照れたように笑った。


「ブースの隅っこで、こっそり見てた。……あれ、エリちゃんのこと、描いてたよね?」


 僕は少しだけ視線を伏せた。けれど、その問いかけを否定する気持ちはもうなかった。


「うん。……でも、今はもう、彼女の物語じゃなくて、自分のために描いてるつもり」


 「そうだね」と、ユカリは小さくうなずいた。


「すごく、よかったよ。……ねえ、次は一緒に何か作ってみない?」


 その言葉に、僕は一瞬、耳を疑った。


「一緒に……?」


「うん。私、最近写真にハマってて。……文章と写真を組み合わせて、なんか小さな作品集みたいなの作ってみたいなって思ってたの」


 彼女の目は、真っすぐだった。

 その目に、今の僕はきちんと応えたいと思った。


「……やってみようか。一緒に」


 言ったあと、どこか胸が軽くなった。

 エリと出会って、別れて、それでも自分の足で歩こうと決めた今——ようやく、誰かと“共に作る”という選択肢が持てた。


 ユカリはうれしそうに目を細めた。


「ほんと? よかった……じゃあ、写真撮りに行こう。今週末、時間ある?」


 僕はうなずいた。

 彼女の隣で、また新しい物語が始まる気がしていた。



 週末、ユカリに連れられて訪れたのは、大学近くの丘の上にある、小さな廃駅だった。

 廃線になって久しいその場所には、今でも錆びた線路が草に埋もれ、駅名板だけが風に揺れていた。


「なんか、時間が止まってるみたいでしょ」


 ユカリはそう言いながら、一眼レフを構えてシャッターを切った。


 カシャ。カシャ。


 風の音と、シャッター音と、足元で草が揺れる音。

 その全部が、物語の“背景音”のように聞こえた。


「ここで、ちょっと座ってくれる?」


 言われるがまま、線路脇のベンチに腰掛けると、ユカリが僕に向けてファインダーをのぞいた。


「……あ、今の顔、すごくよかった」


「え、どんな顔してた?」


「ちょっと、遠く見てる顔。……誰か思い出してるみたいな」


 僕は少しだけ笑った。


「……そうかもね」


 エリのこと、過去の自分のこと、そしてこれから生まれる物語のこと。

 全部が頭の片隅で混ざり合って、でも心は妙に静かだった。


 ユカリは写真を撮る手を止めて、ふっと言った。


「ねえ。……空想ってさ、他の人と共有できると思う?」


「うん。できると思う。……たとえ全部は伝わらなくても、かけらだけでも、重なりあえる気がする」


 ユカリはしばらく黙って、そして小さく言った。


「……なら、私の空想にも、陽人くんがいてくれたらいいな」


 その言葉が、心の奥にしずかに響いた。


 僕の“空想”は、いつだって孤独な逃避場所だった。

 でも今は、それが誰かと交わる場になり始めている。


 過去の彼女がくれた、空想という光。

 それを受け継ぎながら、また新しい誰かと描く未来。


 ページの余白は、まだまだ白いままだ。

 でもきっと、少しずつ、埋まっていく。


 空想が終わっても、物語は——まだ、続いている。


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