ep.13 残された想い、描かれた未来
教育実習の最終日。
朝からどこか落ち着かない気持ちで、僕は教室へと向かった。
たった一週間の短い期間だったけれど、僕の中では何かが確かに動いていた。
中学生たちのまっすぐな言葉、夢、怒り、迷い……。
そして、美術室で空を描き続けた菊名さん。
彼女と過ごした放課後の時間は、どこか、エリと過ごした日々の“続き”のようだった。
「先生、今日で最後なんですよね」
昼休み、彼女がいつもの窓際に座って、ぽつりと言った。
「ああ……短かったけど、君と空を描けてよかったよ」
「私も。……ねえ、ひとつ、お願いしてもいい?」
「うん。なんでも言って」
彼女は、小さく笑ったあと、スケッチブックの最後のページを開いた。
「これ、持っててほしい。……最初に“空を描ける”って思わせてくれたの、先生だったから」
そこに描かれていたのは、広くて澄んだ空の下、後ろ姿の少女がひとり立っている絵だった。
少女は白いワンピースを着て、どこか遠くを見ていた。
「……この人は?」
「もう、あんまり顔は覚えてない。でも、夢の中で見たことがある気がするの。“ありがとう”って、言ってた」
僕の胸が、微かに軋んだ。
「……ありがとう、って?」
「うん。名前も知らないのに、不思議だよね。でも、その人に何かをもらった気がして、返したくなったの」
その絵を受け取った瞬間、僕は心の奥にしまい込んでいた“何か”が、ゆっくりと動き出すのを感じた。
エリが最後に残していったもの——それは、僕の中でだけ生きていたものじゃなかった。
こうして、知らない誰かの空想に、少しずつ波紋のように広がっている。
空想は、記憶にも似ている。
忘れても、消えない。たとえ誰も語らなくなっても、確かにどこかで、生きている。
「ありがとう、大切にするよ」
僕はそう言って、スケッチブックを胸に抱きしめた。
*
実習が終わり、日常が戻った。
授業に出て、課題に追われ、バイト先でコーヒーを入れる。
けれど、その中に“空想を誰かに手渡した感覚”が確かに残っていて、それが自分の人生を少しだけ変えていた。
それから数日後、僕は久しぶりに夜の散歩に出た。
街灯に照らされた歩道、遠くから聞こえる電車の音、誰かの笑い声。
変わらない景色の中で、ふと空を見上げた。
——静かな夜空。
星がひとつ、ゆっくりと流れていく。
「……エリ」
自然と、名前を呼んでいた。
その瞬間、まるで風が応えるように頬をなで、耳の奥で懐かしい声がかすかに響いた気がした。
「陽人くん、ちゃんと生きてるね」
振り向いても、誰もいない。
それでも、僕の心は確かに彼女の存在を感じていた。
夢か、幻か。
でも、それでよかった。
空想は、もう僕を縛るものじゃない。僕を、進ませてくれるものなんだ。
*
その夜、僕はノートを開いた。
エリの絵のとなりに、もうひとつの空を描きたくなった。
小さな影を描く。
白いワンピース。風に揺れる髪。
でも今回は、彼女は“後ろ姿”ではなかった。
真正面から、僕を見て、微笑んでいる。
その笑顔が、僕の未来を肯定してくれているようで、胸が熱くなった。
「エリ……見てる?」
誰にも届かない声を投げる。
それでも僕は知っている。
空想の果てに、確かに彼女がいたこと。
そして、その想いは、次の誰かへと渡っていくということを。
僕の描く世界は、もう“孤独な逃げ場”じゃない。
誰かとつながる場所になった。
*
そして、また一日が始まる。
エリのいない朝。けれど、彼女が残してくれた未来の中を歩く。
街は変わらずに動いている。
人がすれ違い、会話が交わされ、誰かが笑い、誰かが泣く。
そのすべての中に、僕はもう“確かな一人”として存在していた。
空想が終わっても。
物語は、続いていく。




