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ep.13 残された想い、描かれた未来

 教育実習の最終日。

 朝からどこか落ち着かない気持ちで、僕は教室へと向かった。


 たった一週間の短い期間だったけれど、僕の中では何かが確かに動いていた。

 中学生たちのまっすぐな言葉、夢、怒り、迷い……。

 そして、美術室で空を描き続けた菊名さん。


 彼女と過ごした放課後の時間は、どこか、エリと過ごした日々の“続き”のようだった。


「先生、今日で最後なんですよね」


 昼休み、彼女がいつもの窓際に座って、ぽつりと言った。


「ああ……短かったけど、君と空を描けてよかったよ」


「私も。……ねえ、ひとつ、お願いしてもいい?」


「うん。なんでも言って」


 彼女は、小さく笑ったあと、スケッチブックの最後のページを開いた。


「これ、持っててほしい。……最初に“空を描ける”って思わせてくれたの、先生だったから」


 そこに描かれていたのは、広くて澄んだ空の下、後ろ姿の少女がひとり立っている絵だった。


 少女は白いワンピースを着て、どこか遠くを見ていた。


「……この人は?」


「もう、あんまり顔は覚えてない。でも、夢の中で見たことがある気がするの。“ありがとう”って、言ってた」


 僕の胸が、微かに軋んだ。


「……ありがとう、って?」


「うん。名前も知らないのに、不思議だよね。でも、その人に何かをもらった気がして、返したくなったの」


 その絵を受け取った瞬間、僕は心の奥にしまい込んでいた“何か”が、ゆっくりと動き出すのを感じた。


 エリが最後に残していったもの——それは、僕の中でだけ生きていたものじゃなかった。

 こうして、知らない誰かの空想に、少しずつ波紋のように広がっている。


 空想は、記憶にも似ている。

 忘れても、消えない。たとえ誰も語らなくなっても、確かにどこかで、生きている。


「ありがとう、大切にするよ」


 僕はそう言って、スケッチブックを胸に抱きしめた。



 実習が終わり、日常が戻った。


 授業に出て、課題に追われ、バイト先でコーヒーを入れる。

 けれど、その中に“空想を誰かに手渡した感覚”が確かに残っていて、それが自分の人生を少しだけ変えていた。


 それから数日後、僕は久しぶりに夜の散歩に出た。


 街灯に照らされた歩道、遠くから聞こえる電車の音、誰かの笑い声。

 変わらない景色の中で、ふと空を見上げた。


 ——静かな夜空。

 星がひとつ、ゆっくりと流れていく。


「……エリ」


 自然と、名前を呼んでいた。


 その瞬間、まるで風が応えるように頬をなで、耳の奥で懐かしい声がかすかに響いた気がした。


 「陽人くん、ちゃんと生きてるね」


 振り向いても、誰もいない。

 それでも、僕の心は確かに彼女の存在を感じていた。


 夢か、幻か。

 でも、それでよかった。

 空想は、もう僕を縛るものじゃない。僕を、進ませてくれるものなんだ。



 その夜、僕はノートを開いた。

 エリの絵のとなりに、もうひとつの空を描きたくなった。


 小さな影を描く。

 白いワンピース。風に揺れる髪。


 でも今回は、彼女は“後ろ姿”ではなかった。

 真正面から、僕を見て、微笑んでいる。


 その笑顔が、僕の未来を肯定してくれているようで、胸が熱くなった。


「エリ……見てる?」


 誰にも届かない声を投げる。

 それでも僕は知っている。

 空想の果てに、確かに彼女がいたこと。

 そして、その想いは、次の誰かへと渡っていくということを。


 僕の描く世界は、もう“孤独な逃げ場”じゃない。

 誰かとつながる場所になった。



 そして、また一日が始まる。

 エリのいない朝。けれど、彼女が残してくれた未来の中を歩く。


 街は変わらずに動いている。

 人がすれ違い、会話が交わされ、誰かが笑い、誰かが泣く。


 そのすべての中に、僕はもう“確かな一人”として存在していた。


 空想が終わっても。

 物語は、続いていく。

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