謝罪動画
マリンは俺の言葉に、嬉しそうに笑ってくれた。だから、それでいいと思った。この関係をどうこうしたいとは思わない。ただ、マリンの支えになりたかった。
マリンと別れて、自転車を全速力で漕ぐ。顔に吹き付ける夜の風は、優しい涼しさを持っていた。家の明かりが消えてる事を確認して、こっそりと玄関を開ける。
夜中に抜け出すのが癖になってるなぁ、と一人思いながらキッチンへ向かえば……暗闇の中で、姉と鉢合わせる。
水を汲みにきたところだったらしい。コップを手に持って、ゴクゴクと喉を鳴らしていた。
「あんたはいいわね、好きな事好きなように出来て」
吐き出すかのように、俺を非難して通り過ぎていく。ムッとして口を開こうとすれば、俺を睨んでる癖に苦しそうな顔をしてる姉に何も言えなくなってしまった。
姉には姉なりの苦労があるのは、知ってる。家がイヤで、この街がイヤで、出て行きたくて大学受験して、失敗して。勝手な八つ当たりみたいで、イラついていた。それでも、姉なりに傷付いてはいたんだろう。
だからといって、あの態度を許せはしないけど。俺だって、俺なりの苦労はあるし。俺は、八つ当たりを受けるために、産まれたんじゃない。
母は、姉の機嫌ばかりをいつも取る。俺には、「お姉ちゃんの邪魔をしちゃダメよ」と叱る癖に。友だち親子になりたかったらしく、俺よりも姉が大好きみたいだ、
いつも二人で出掛けては、「友だちみたいよね」と姉に何度も言い聞かせていた。それが健全かどうかは、俺には、判断がつかない。
父さんはいつも、黙ったまま俺らのやり取りを聞きながら、ビールを煽っていた。
この家族の中に、俺居る必要ある? それでも、父さんへの憧れも記憶も、捨てきれない。小さい頃は漁に行く船に乗せてもらったこともあった。父さんは大きい背中で、力強く網を引いて魚を獲っていた。その姿に、単純に俺はかっこいいと思ったけ。
朝早くというか、夜のうちに出かけて、魚を獲って帰ってきて、晩酌をして寝る。あまり、生活時間は合わないものの、会えば、俺の頭を撫でてくれた。高校生にもなったら、そんなことはなくなったけど。
それに、俺はこの街が好きだし、この家が好きだった。母の小さい頃の優しい手の温もりだって、覚えている。今はうまく噛み合ってないだけ、だ。だから、飲み込んできたのに。
あんなに辛そうな顔されたら、俺がまるで悪いみたいじゃねーかよ。
水を飲もうと思っていた気持ちも萎えて、そのまま自室に籠る。姉の部屋からは、微かに「わかんない、わかんない!」と嘆く声が聞こえた。布団に潜り込んで、耳を塞ぐ。
涼しくなってきた夜とは言え、布団に篭れば暑い。それでも、姉の声を聞くよりはマシだと思った。
* * *
自己紹介動画を撮った会館の和室に、また来ている。マリンはいつものように、好きな歌をスマホで掛けて踊りながら歌う。マイクを構えたフリをして、踊りを真似する姿は、アイドルでもおかしくない。それくらい、可愛い。
俺は一人そわそわと、持ってきたジンジャエールに口をつけた。しゅわしゅわと口の中で、炭酸が弾けていく。ふぅっと深い深呼吸をしていれば、歌い終わったマリンが隣に座る。
「本当にいいの?」
「なにが?」
「顔」
「誠意見せるためだろ」
顔は隠してなら、いいと言う約束を反故にした。マリンのまっすぐな思いを、応援したい。少しでも、視聴者に誠意が伝わって、このチャンネルが多くの人に届くようになるなら……俺のことなんて、どうでもいい。
だから、今日の動画から顔を出す。そう決めたのに、心が落ち着かない。ジンジャエールをごくごくと、一気飲みして、顔をあげる。覚悟は決めてきた、はずだった。
それなのに、俺の足は落ち着きなく震えている。体は強張って、ガチガチに肩が固まっていた。
「やめとく……?」
俺の様子を見ていたマリンは、気まずそうに顔を覗き込む。慌てて首を横に振った。
「大丈夫、撮ろう」
俺の言葉に安心したようにマリンは、目の前に、三脚で立てたスマホを操作する。クラゲのお面を付けて、撮影開始をじっと待つ。マリンが隣に座って、同じようにクラゲのお面を付けた。
すぅっと大きく息を吸った後、マリンが説明を始めた。
「海のミナトチャンネルを、いつもご覧いただきありがとうございます」
二人同時に、ぺこりとお辞儀をしてから顔を上げる。事実説明を淡々と、まっすぐマリンが続けていく。俺の心臓は狂ったように、バクバクと鼓動を早めていた。
「誤解を生むような動画を上げてしまったこと、事実とは異なりますが、謝罪をさせていただきます」
その言葉で俺もマリンも、クラゲのお面を外す。肌に触れる空気の感覚に、じわりと背中が汗で濡れていった。
「申し訳ありませんでした」
二人で頭を目一杯下げて、謝罪をする。そんなつもりはなかった、それでも、炎上させてしまったこと。それだけは、謝る。
今でも、俺たちが悪かったとは、思っていない。でも、誤解をさせないようなやり方はあった。数本に分かれたとしても全てを食べきった動画をあげればよかったし、もっと少ない量でやるでもよかった。それを選ばなかったのは、俺らの落ち度だ。
もう一度、頭を下げて「申し訳ありませんでした」と言葉にする。
マリンは小声で「よし!」と呟いて、スマホを操作して録画を止めた。ぐーっと背伸びをした瞬間、お腹が見えかけて、クラゲのお面を付ける。ただ目を逸らせば良かった、だけなのはわかってた。でも、赤くなってしまった顔を見られたくない。
「クラゲのお面、そんなにお気に入りなのー?」
にししっと笑いながら、隣の席に戻ってきたマリン。俺はプイッと顔を背けて、「そうかもな」と曖昧に言葉にした。
「嬉しいよ、そう言ってもらえて」
「やっぱマリンの手作りなの?」
「それ以外に、なんだと思ったの?」
厚紙に、ラミネート加工されているとはいえ、イラストがあまりにも上手かった。プロかと思うほどに。
マリンは座ったまま、片膝を立てて俺に近づく。違う意味でまた、心臓がおかしくなる。
「ちけーよ」
「えー今まで、そんなこと言わなかったじゃん」
パチンという音がして、無理矢理にお面が取られる。真っ赤な顔は、まだ落ち着いてないだろう。瞳と瞳がぶつかって、マリンも照れたように顔を赤く染めた。
「私の方も照れるじゃん、そんな反応されたら……!」
淡い期待が胸に揺れて、消し去った。マリンの好きな人は俺じゃない別の人。入り込む隙間は、ない。
自分に言い聞かせていないと、勘違いしてしまいそうだ。マリンは、スッと俺から距離を取って、また選曲をしている。
「ソウくんも、なんか歌ってよー」
「いやぁ……俺はいいよ」
「なんで! 聞きたーい!」
マイクみたいに手を向けられて、胃の奥から何かが迫り上がってくる。手を押し退けて、顔を背けた。呼吸が荒くなっていくのがわかる。あんなに好きだった歌うことが、今は怖くて仕方ない。
「ごめん、そんな嫌がると思わなくて」
マリンが小さく呟いて、両手を自分の方に引き寄せる。悲しませたいわけじゃない。それでも、まだ歌うことはできなかった。
歌が悪いわけじゃない。歌えば、あの時の炎上や、ネットストーカーのネットリとしたDMが脳裏に蘇ってしまう。
マリンは、スマホを触りながら、検索を始める。
「次は、どんな動画撮ろっか」
ずっと考えていた。どうしたら、もっと多くの人に届くのか。マリンの思い人に届けるために、もっと大勢に見てもらいたい。
マリンのためなら、何でもできるような気分になっていた。
だから、調べてきた。スマホをポケットから取り出して、最近の流行りのショート動画をマリンに見せる。
「ショート動画ねー」
今までは普通の動画しか上げていなかった。でも、やっぱり、ショート動画やショート専用のアプリからの動線で見に来てくれる人が今は多いらしい。ネットの情報を鵜呑みにしてるだけ、だけど。
「踊ってみる、とか? カップル用の踊り、結構あるんだよ」
お気に入りに登録してあった動画を、スワイプしてマリンに見せる。踊りは得意ではない。それでも、歌いながら踊るマリンを見ていれば、マリンは好きだろうと思った。
カップルで歌ってる動画も、よく見かけるが……歌はまだ、怖い。
それに、万が一、湊音という名前で俺が歌を上げていたことがバレてしまえば……
今回の炎上の比じゃないだろう。女関係で燃えたのに、カップルチャンネルを始めてるなんて。
想像してみて、背筋がゾワゾワとした。マリンは、俺の様子には気づかず、じいっと動画を見つめている。そして、顔を上げて、大きく頷く。
「いいかもねぇ」
どれに対してかと思えば、カップル用に振付されたダンスの動画だった。そこまで難しい踊りではないから、俺でもできる、と思う。
マリンが自分のスマホを操作して、俺たちの目のの三脚に立てかけた。スマホの画面には、先ほどまで俺が見せていたダンス動画の解説が映っていた。
「はい、練習!」
「え?」
「やるんでしょ、カップルダンス」
マリンが立ち上がって、俺の前でぐっと背伸びをする。そして、腰に手をやって立つ。
「ほら、ソウくんも!」
「今から?」
「今から!」
提案は確かにした。それでも、こんなにすんなりマリンがやる気になるとは思わなかった。
スマホから流れる音楽に合わせてマリンが、ダンスを覚え始める。0.5倍速にされた音楽のスピードなら、俺もできる気がした。隣に立って、映像のダンスを真似る。
俺が歌ったこともある曲。マリンはすんなりと覚えて、簡単のように踊る。俺は、といえば……
頭の中では簡単にできると思っていたものの、足が追いつかない。
見かねたマリンが、俺の手を掴む。そして、手の動きをぐるぐると俺の手で踊ってみせる。掴まれた手が、燃え盛るように熱い。それでも、この思いを気づかれないように隠す。
「まずは、手だけ覚えて、できるようになったら足も付けよ」
「はい……」
情けなさを感じながら、マリンに操られて動く。少しずつ掴めてきて、なんとか、フリは追いかけられるようになった。
「じゃあ、次は見ないで!」
スマホの画面は暗くなり、音楽だけが流れている。どうやら、歌いながらやるつもりらしい。確かにマリンは歌も上手いし、歌ってみれば……人気が出るかもしれない。
マリンの声に合わせてくるくる回ったり、指でハートを描いたり、なんとか一曲を、踊り切れた。
好きになった人に思いが届かなくて、それでも、会いたい、好きだ、と思い続ける曲。今のマリンにピッタリだな、と思って、胸が痛んだ。
マリンの恋が、叶えばいいのに。
その相手が、俺だったらいいのに。
あり得ない願いを口に出しそうになって、ソファにへたり込む。数十分練習をしただけで、息も絶え絶えで、喉はカラカラ。運動不足なつもりはなかったのに、意外にダンスは体力を消耗するらしい。
「飲み物買ってくるから、休んでて!」
マリンの言葉に、返事をする元気もなく、ただ頷く。俺の気持ちが届けばいいのに。マリンが帰ってくるまで、と思って、スマホの音楽に合わせて口ずさんでみる。
一人でなら、歌えた。
そんな安心感に気持ちが晴れていく。
この気持ちが、君に伝わればいいのに。
君がこんなに、好きなのに。
歌うことが楽しいという気持ちと、自己嫌悪が湧き上がってくる。切ないラブソングに、自己を投影して、酔ってるみたいで気持ち悪い。途中で、音楽を止めて、ペットボトル持ち上げてから空っぽになったことを思い出した。
たった一滴でもいいから、早く喉を潤したくて、口をつける。唇に触れた途端、一滴は消えていく。
なかなか帰ってこないマリンに、変な心配が浮かぶ。
自販機は入り口のすぐそばにあったから、そこまで遠くないはずなのに。俺も一緒に行けば良かった。もしかして、また、変なのに絡まれてる?
やっぱり迎えに行こう、と思って立ち上がる。戻ってきたマリンが扉の前で、止まってるのに気づいた。
扉を開けてやれば、両手にペットボトル。
「両手が塞がってて、開けられなくて困っちゃった! ごめんごめん、ありがとう!」
いつもよりやけに饒舌なマリンに、首を傾げながらも、ペットボトルを受け取る。ゴクゴクと一気に飲み込めば喉の渇きは、少しだけマシになった。
「やっぱ、もう一本買ってくる」
部屋を飛び出して、扉の前でしゃがみ込む。歌ってるのを、聞かれていたかもしれない。いつから、扉の前にいたのかわからない。
マリンが俺の動画を見たことがあるかどうかも、わからないけど。マリンの様子が、変だった。俺が炎上した奴だと知って、幻滅したかもしれない。悪い想像は尽きることなく、いくらでも頭の中で浮かぶ。
聞けば、答えてくれる? それとも、もう一緒にやるのやめようって言われるか?
頭が真っ白になりながら、イヤだなということだけはわかった。マリンには、誤解されたくない。
長時間戻らないのも、変だろう。立ち上がって、自販機でサイダーを買う。すぐさま蓋を開けて二口飲み込んだ。
とりあえず、戻ってマリンの様子を見よう。もうやめたいと言われたら、きちんと説明する。よしっと太ももを叩いてから、部屋へと向かう。
部屋に戻れば、マリンは先ほどのダンスの曲を踊りながら歌っていた。やめる気はないと受け取って、俺もペットボトルを置いて隣で踊り始める。
マリンが一瞬驚いた顔をして、こちらを向いた。にししといつもの笑顔を見せて、続ける。曲が終われば、マリンはおしぼりで汗を拭う。
「ソウくんも、結構踊れるようになってきたんじゃない?」
「本当?」
「うんうん、本当! うまい、とは、言い難いけど」
素直な言葉に、プッと笑い声を出してしまった。自分でも、うまく踊れるとは思っていない。それでも、慌てたように眉毛を下ろして、言い訳のように褒めるマリンが可愛くて、面白くなってしまった。
「いや、下手とかじゃなくてね! 元気がふつふつ、湧いてますよー! みたいな踊りでいいと思う! 私は、いいと思う、よ。クラゲのダンスみたいだし!」
独特な表現に、心が落ち着く。マリンは、まだ俺と、カップルチャンネルを続けてくれる。その嬉しさと、マリンの気の遣った言葉に、唇が勝手に緩んでいた。