穏やかな時間
姉が吠える声を聞きながら、こっそり家を出る。今日は何が気に食わなかったんだろうか。俺じゃないと思いたいけど、家を出る直前に「ソウ!」と叫んでいた。まぁ、結局は俺が原因なんだろう。
どうしてそこまで姉に疎まれているのか、考えてみたこともあった。けど、特にケンカしたとか、何かあった記憶はない。昔から仲は別に良い方ではなかったし……
家の外では燦々と太陽が注いで、アスファルトを熱してる。額に汗をかきながら、バスを待つ。今日は、マリンとまた撮影予定だ。
自己紹介動画は、思ったよりも高評価だった。クラゲのお面が可愛いというコメントもあって、マリンがドヤ顔をしていた。
マリンのことを想像していれば、ポケットのスマホがブーと鳴る。見てみれば、マリンからのメッセージだった。
『もうすぐ、来る?』
確認しなくても、約束の時間までまだ三十分もある。バスで、大体二十分くらいだから…… 約束にはちょうどくらいに着けるけど。急かすようなメッセージを送ってくるのは、珍しい。
通話を掛ければ、マリンは呑気な声ですぐに出た。
「やっほー」
「なんかあった?」
「んー、なんか、ナンパ、的な?」
歯切れの悪い物言いに、訝しむ。でも、確かにマリンの後ろで、声が聞こえる。
「ちょっと、あんた聞いてんの?」
声の相手は……ナンパというよりも女の人っぽいけど。怒ってるような張り上げた声に聞こえた。
「大丈夫? バスまだ、来てないし。二十分くらい掛かるんだけど」
今すぐに、駆けつけたい。でも、それは叶わない。ちょっと冷たい返答になってしまったかもと、不安になる。マリンは「わかったー」と軽く言って電話を切ってしまった。
「って、おい!」
ツー、ツー、と切れた音に、何を言っても返事はない。自分でなんとかするという意味だろうけど……
心配が、全身を巡っていく。マリンはちょっと変わってるから、目を付けられやすいんだろうか。それとも、ぶつかったとか?
ナンパみたいなとか言ってたけど、女の声しか聞こえなかった。もしかしたら、男も居たのかもしれない。
変な想像ばかりしてしまって、汗がダラダラと地面に流れていく。どうしようもないのに、早く早くと急かすように祈る。
バスがすぐに到着して、吸い込まれるように乗り込む。街の方に向かうバスだからか、空いてる。水族館に来る人は多いだろうけど、今の時間から街の方に向かう人は少ないか。このバスだって利用者のほとんどは、観光客だろうし。
一番前の席を陣取って、外を眺める。少しでも早く着け、と思っても、バスは普通のスピードで走っていく。
青い海を見ながら、落ち着くために深呼吸を繰り返す。今すぐ行けないんだから、考えてもどうにもならい。それでも、マリンが連れ去られていたら……と最悪を想像して、心臓はバクバク鳴ってる。
変な人に絡まれて、傷つけられていたら……体中の血が、全てイスに吸い取られたように体が冷えてきた。
悪い想像ばかりしていたせいで、あっという間に街に着いた。それでも、時計を見れば、二十分経過している。
マリンとの待ち合わせの物産館では、呑気にタコのモニュメントが動いてた。俺の焦りを嘲笑うように、ゆるゆるとタコは建物を登っていく。
すぐにマリンに通話を掛ければ、「はいはーい」と、至って普通の声で出る。ドッと疲れて肩を落とせば、後ろから背中をトントンと叩かれた。
「おはよ、ソウくん。なんか疲れてない?」
いつも通りの明るい表情だし、周りに変な人はいない。自分でうまく対処したらしい。
「はあああああ」
深く息を吐き出して、脱力した。マリンが、俺に助けを求めることが初めてだったから。本当に悪い想像しかできなかった。
「よかった……」
「え、そんなに心配してくれてたの? ごめんごめん。近くだったら助けてもらお〜くらいだったの」
俺の背中を、何度もパシパシと叩く。気の抜けた声に、ますます力が抜けた。
「とりあえずベンチで、でも休む? 飲み物買ってくるよ。疲れちゃったみたいだし」
「や、大丈夫」
「そう?」
「おう……」
どうせ、今日の撮影予定は、昼ごはんだし。安心したら、お腹も空いてきた。それに、目の前に店があるのにわざわざ休むほどじゃない。
「ナンパだったの?」
「うーん、よくわかんない? なんか、お前のせいだ! って怒鳴られて、何のこと? ってなってたら周りの人が助けてくれた」
「男の人?」
「可愛らしい感じの女の子? 学校の知り合いかなぁと思ったけど、覚えてないし、助かったからいいかなって」
にへらと普通のことのように笑うマリンに何も言えず、唾を飲み込む。
太陽に照らされた背中が焦げそうに、熱い。まだその相手がいるかもしれない。俺が、マリンを守らなきゃ。
そう思えば身体が、勝手に動いていた。周りを確認しながら、物産館の方を指さした。
「とりあえず、行こう」
時間帯的にまだ、客が少ない時間帯みたいだ。それもそうか、お昼には早いし。マリンは物産館の前をスルーして俺の右手を引っ張る。
「え?」
「え、ってなに?」
驚いたマリンが、振り返る。一瞬、風が吹いてマリンの髪の毛を乱した。引っ張られてない方の手で、物産館をもう一度指さす。
「物産館」
「後で行くよ」
「ごはんは?」
「こっちでーす」
触れた手が、微かに震えている。気丈なふりをしていたけど、意外に怖かったのかもしれない。引っ張られていた手を、引っ張って、握りしめる。一瞬、「なに?」と笑ったけど、突き放されはしなかった。
「いや、はぐれそうだったから」
わかりきった嘘にも、マリンは「そー?」とだけ小さく答える。耳が赤く見えるのは、太陽の反射のせいだ。言い聞かせて、二人で並んで歩く。
物産館から道路を渡ってすぐの店に、入っていく。エアコンの効いた店内は、一瞬で汗を乾かしていった。広い店内は、売り場と食堂に分かれているみたいだった。手前には、お肉やお惣菜が、スーパーのように並べられている。
とんかつやコロッケ、お肉を使った揚げ物がたくさんだ。
奥の方には、食堂が用意されていて、腰くらいの柵で限られている。見渡す限り、今ごはんを食べてる人はいないみたいだ。
売り場を通り過ぎて、食堂まで進む。入り口前の券売機前で、マリンがメニューを眺める。
「ソウくん、何食べる?」
券売機の横に置いてあるメニューの看板を、見ながら考える。はぐれる、という理由を使ったんだから、手はもう離してよかった。それでも、マリンの不安が少しでもなくなれば良い。だから手は繋いだままでいたかった。
メニューには、鍋に入った豚汁や、カツ丼、豚丼など、ガッツリ系が多い。どれもこれも、おいしそうで勝手にお腹が鳴る。
「あ、ね、ソウくんペアセットにしようよ」
「んー?」
マリンが指さしたメニューの中には、丼も、豚汁も堪能できるペアセットがあった。値段も二人で割れば、一人千円くらいだ。
「そうするか」
「よし、決定!」
券売機で一人千円ずつ入れて、発券する。水はセルフサービスと書かれているし、席も自由みたいだった。
「私頼んでくるから、席確保よろしく!」
マリンは繋いでいた手を離して、タッタッタと小走りに注文口に走っていく。俺の返事も聞かないで。
気にせず、二人分の水を用意する。そして、窓際のソファ席、確保した。
スマホを開いて、チャンネルの確認をする。習慣になってしまったクセに、ふっと笑ってしまう。いつのまにか、楽しくなってきていた。
最初は、湊音の頃を思い出して、マリンと一緒の時以外は見ないようにしていたのに。
「ここに持ってきてくれるらしい!」
戻ってきたマリンは、迷うことなく俺の隣に座る。くっついてるほど近くはないけど、目の前に座ると思ったから、頭が真っ白になった。
「どうした?」
答えない俺に、マリンは心配そうな顔をする。何か言わなきゃと思うほど、喉は乾いて、くっついていく。
「あ、撮影許可もちゃんと貰ったよ! 他のお客さん映らなきゃ大丈夫だって」
注文と同時にちゃっかり、確認してきたらしい。そういうところは、しっかりしてんだよな。変わってるから、抜けてるイメージをついついしてしまうことを恥じた。
「で、ソウくんどしたの」
「あ、いや、こっち座るんだと思って」
「だって、撮影するなら隣の方がいいでしょ」
マリンの言葉にやっと、撮影に来たことを思い出す。普通のデート感覚になっていた。いや、違うことは最初からわかってるし、俺らは付き合ってるわけではないし。脳内で言い訳をしているうちに、豚汁と豚丼が届く。
豚汁は、鍋から掬う形らしい。お玉と取り皿も、一緒に運ばれてきた。
「よし、じゃあ撮るよ。あ、声は後で入れるから大丈夫」
「わかってるよ」
相変わらず、マリンはボイスチェンジャーを使っていた。だから、こうやって外で撮る時はほとんど、音は後入している。
様々な角度からマリンが撮影してから、俺にクラゲのお面を渡す。受け取ったクラゲのお面を見つめていれば、マリンは「着けてよ、顔出すの?」と不思議そうな顔をする。
こんな、人のいる場で、これを、着ける?
戸惑っている俺を置いて、マリンはすでにお面を着けている。ためらいとか、恥じらいというものは、持ち合わせていないのか? 今更だけど。
まだお客さんがほとんどいないとはいえ、売り場の方には数人いたし、従業員もいる。
抵抗してるうちに、見られる確率が高まることに気づいて、諦めてお面を被った。
「じゃあ、よそって!」
そう言いながら、前の席にマリンは移動する。結局、そっち座るのかよ!
思いながらも、指示に従い豚汁をよそう。たっぷりの具材が入っていて、漂うミソの匂いにますますお腹が空いた。
「よし! おっけー! じゃあソウくん、反応するから撮って」
マリンにスマホを渡されて、お面を外す。スマホを向ければ、「わー!」と言いながら手をぱちぱちと叩く。
素直なところはやっぱり、可愛いと思う。可愛いと思うじゃねぇ。違う違う、そういうんじゃないから。
誰にともわからない言い訳を脳内でしていれば、マリンはお面を外した。
「じゃあ食べようか。あとは手元だけ撮るね」
隣に戻ってきて、三脚にスマホを固定する。終わったかと思えば、両手を合わせて「いただきます」とあいさつをした。俺も両手を合わせて「いただきます」をする。
まずは、豚汁を一口。豚の脂のおかげか、豚汁は熱々だ。舌を少しやけどして、すぐさま水で冷やした。
「あっつ!」
マリンも同じ失敗をしたようで、水に舌を浸している。冬とか涼しい時期に食べる方が、よりおいしいだろう。それでも、シャクシャクの大根や、じゅわりと脂が広がる豚肉とか。おいしいのは、間違いがない。
一口飲み込めば、勝手にホッと声が出ていた。
「なんか、落ち着くねぇ」
「わかる、すげぇホッとする」
「豚汁の海で泳げたら、幸せな気持ちになれるかも」
暑いけど確かに落ち着く味だ。胃からポカポカと温まって、全身から汗が噴き出てきた。豚汁の海では泳ぎたくないけど。
豚丼の方はと言えば、豚肉が炭で焼かれていて、テラテラと光を放っている。試しに口に入れば、醤油の香りと脂の甘みが広かった。
ガツガツ食べたい気持ちを押さえて、漬物やサラダも食べ進める。撮影してるのに、かきこんだら台無しだ。
サラダはさっぱりとして、何度も舌を新鮮にさせる。タレの染み込んだごはんも、ごはんだけで、ごはんを食べられそうなくらいだ。
二人して黙り込んで、あっという間に食べ切ってしまった。豚汁は小鍋に入っていたからよそうたびに、熱々だったし。ごはんは、たっぷり大満足な量入っていた。
お腹が、パンパンではち切れそう。落ち着かせるように、撫でていれば隣のマリンが録画を切る。そして、ソファに倒れ込む。
「もう食べられない……」
「意外に量あったよな」
「ほんと……ソフトクリームも食べるつもりだったのに」
「やめとくか?」
「食べるけどね!」
そういえば、今日はマリンの独特な感想を聞いていない。どんな感想を言うだろうか、想像してみる。まぁ、俺の感性じゃ、普通のしか思いつかないけど。
「真冬に食べたら、もっとおいしそう」
マリンの方を向けば、にへらと幸せそうな表情をしてる。俺も思った、と言いかけて、冬にはマリンがここに居ないことが頭に浮かぶ。俺が一緒に過ごせるのは、夏休み中だけの短い時間だ。
体の中心が、きゅうと痛んだのを無視する。そして、マリンの横で俺もソファに体を預けた。
「おいしくて、しあわせー」
猫みたいに、ぐーっと伸びてふふふと笑う。恐怖は、少し緩んだらしい。一安心していれば、マリンは「あ!」と言ってから、顔を上げた。
「私の声って、ボイスチェンジャー使ってても、わかる?」
唐突な質問に、驚きながらも、思い返す。ボイスチェンジャーを使っている声も、今の声も、めちゃくちゃ違うとは思えない。ただ、同じ声かと言われれば違う。
「十六種類くらいに人間の声を分類したら、一緒、くらい?」
「答え方、独特すぎない?」
マリンには言われたくない。一緒に過ごしてるうちに、変な答え方が移ってきたのか? 想像してみて、まるで本当のカップルみたいで恥ずかしくなってきた。