たった一つのお願い
歩き疲れたのか、マリンは道路脇のガードレールに腰掛ける。俺もマネして、ガードレールに体を預けた。
いつのまにか、オレンジ色に染まった空が、マリンの髪の毛を照らす。黒髪だと思っていたが、ところどころ、茶色く見えるのは光の反射だろうか。
「ソウくんはさ、何もないんでしょ」
確かめるように、俺の言葉を反芻する。自分で言ったこととはいえ、面と向かって言われると心臓がズキンとした。頷けば、マリンは俺の方を見て手を差し出す。
「じゃあ、私と一緒にやろ!」
「なにを?」
「カップルチャンネル」
気軽に誘われるレベルのお誘い、じゃなくて、目を丸くする。手を差し出したまま、俺が握り返すと信じてる顔でじっとこちらを見つめた。大きい瞳を輝かせているマリンに、答えなくちゃと思うのに、言葉が出てこない。
はぁっとため息だけを吐いて、首を横に振る。そして、残りのパインサイダーを全て、喉の奥に押し込んでから答えた。
「イヤだよ」
「なんで! 絶対、楽しいよ!」
「好きにやればいいじゃん。そもそも、俺らはただの知り合い。しかも、数日前に知り合ったばっかり」
動画配信というのも、カップルチャンネルというのも、イヤだった。動画を配信していて、良かったことなんて一つもない。ウソ。あったけど、辛い思い出ばかりが脳内でフラッシュバックしていく。
だから、動画配信はもうしない。
マリンは絶望した顔で、俺の前に立ちはだかる。じいっと見つめる瞳は、微かに潤んでるように見えた。俺の手を取ってブンブンと振り回しながら、力説し始める。
「恋人になって、って言ってるんじゃないの」
「そこじゃない」
「楽しいよ! みんなにチヤホヤされたくないの?」
今、一番胸を抉る言葉に、マリンの手を突き放す。勝手にがなりだした心臓を、押さえる。
「チヤホヤされたって何ひとついいことねーよ!」
つい荒くなってしまった、声。マリンの傷ついた表情。自分自身の未練。
全てが、体に重たくのし掛かる。会わなきゃ良かった。見つけたからって、声を掛けなければ良かった。
後悔ばかりが、頭の中を占めていく。マリンと話していれば楽しく、あのイヤな記憶を消せると思ったのに。
『湊音くんのこと。私はわかってるから』
『二人だけの秘密だよね、心配しないで』
『早く湊音くんに、会いたいな、愛してるよ』
一方的な、押し付けの言葉に恐怖が胃の奥から迫り上がってくる。何通も、何通も、俺のアカウントを埋め尽くした言葉は、脳内にインプットされていしまっているみたいだった。
口を押さえれば、マリンは不思議そうな顔で背中をさすってくれる。
「大丈夫?」
「悪い」
マリンに声を荒げたのは、違う。マリンはそんなことを知らないし、関係がない。
震える足を隠すように、ガードレールの前に座り込んだ。マリンも手を止めて、俺の様子を窺う。
「大丈夫だから、心配すんな」
「そんなに、イヤだった? 元カノとなんかあったとか?」
「付き合ってすらいねーよ」
やりとりすらしたことなかった。それなのに、ファンのみんなへの言葉を曲解して、俺を勝手に作り上げる。そして、勘違いを起こして、燃えさせた。
かと思えば、「私はわかってる。湊音くんのため。
私だけが、そばにいるよ。」と、DMを何通も何通も送りつける。
執念深い行動に、憂鬱な気分が湧き上がり、歌うことすら楽しくなくなった。高校に入学してから、欠かさず週一で上げていた動画もやめた。何をしても、火に油を注ぐとしか思えなかったし、恐怖が強かった。
「男のくせに」や「逃げるんだ」や……俺の動画を見たこともない人たちの、トゲは今も胸の奥に突き刺さって抜けそうにない。
「女の子にイヤな目に遭わされたんだ?」
「まぁ、そんな感じ」
「私もそういうのと同じに見える?」
質問に顔を上げれば、オレンジ色の光の中で輝いていた。マリンは自分を指さして、ニコッと笑顔を作る。見えない。見えないけど、わからない。あの子だって最初は、毎回聞きに来てくれるファンの子程度だった。
俺が動画を上げるたびに、コメントをくれて、拡散してくれた。ガチ恋とは言っていなかったし、『ずっと推します』くらいの熱量だったはずだ。
ガンガンと痛むこめかみに、指を当ててぐっと押し込む。少しだけ、マシになった気がする。マリンは、横で小さく呟く。
「それに、私、心に決めた人がいるし」
やっぱり、という気持ちと、残念な気持ちが胸の中で湧き上がった。残念……? たった数日会っただけなのに、何考えてんだ俺。しかも、今動画チャンネルを一緒にやろうという誘いを断ったばかり。
マリンが探しに来た会いたい人は、好きな人だろう。分かりきっていた呟きに、頭痛が緩む。あんなにうるさかった心臓の音がなりを顰めて、むしろ冷静になれた。
「気づいてたよ」
「あ、やっぱ、バレバレだった?」
「普通追いかけて、こんな田舎来ないだろ」
マリンは俺の言葉をすぐさま「ううん」と否定した。そして、くるくると周りを見渡しながら、街のいいところを上げていく。
「人が優しい。これはもちろん、ソウくん含めてね」
「初対面からタオルとウィンドブレーカー渡すくらいだもんな」
自分自身で言って、ドヤ顔をしてしまった。でも、そうしてしまうほどマリンは、心許ない顔をしていた。だから、俺じゃなくたって、同じことをしただろう。
「それに、夕日が沈む海って、宝石箱みたいじゃない? キラキラとした宝石が、箱の中に入っていく感じ」
情緒的な表現に、感嘆のため息を漏らす。会った時から思っていた。マリンはちょっと変わってるけど、言葉が美しい。素直に、そう思った。
「マリンってさ、表現が変だけどキレイだよな」
「普通の感覚のつもりなんだけど、結構言われる。変だよねって」
にししっと笑って、腕を広げて胸いっぱい空気を吸い込む真似をした。
「空気もおいしい! ちょっぴり切ない塩の香りがして」
俺もマリンを真似て、空気を胸いっぱい吸い込んでみる。塩の香りが鼻の奥に、ふわりと漂う。確かに、ちょっと、切ない香りにも似てる気がした。
「マリンが配信したら、人気者になりそうだな」
こんなに美しい表現をする彼女を、世間は放っておかないだろう。俺だって、目が離せなくて、ここまで付き合ってしまってるんだから。
マリンは飛び跳ねるようにガードレールから降りて、俺の前に立つ。そして、俺の両手を握りしめた。
「でしょ? だから、一緒にやろ!」
そういう意味で、言ったわけじゃない。あまりにも純粋なキレイな瞳で、見つめるから断りづらい。しかも一度、イヤだと即答してるし。
「有名になるって良いことないよ?」
「なによー! 一緒にやってくれるのかと思ったのに」
俺の手をパッと放して、頬を膨らませる。アドバイスを、耳にする気はないらしい。勝手にフラフラ歩き始めたマリンを追いかけて、続ける。
「妬まれるし、僻まれるし、勝手な自分像を作り上げられるんだぞ」
「そんなの承知の上でしょ」
「それに、すぐ炎上するんだからな! 今の世の中!」
一ミリの事実もないのに、俺が弄んで傷つけたという噂はあっという間に広まった。最低配信者として、俺の名前も同時に。槍玉に挙げられた俺のアカウントには、いまだに「死ね」や「クソ野郎」などが届いてるだろう。
考えてから、消したことを思い出した。イヤになって消してしまったことを、後悔はしてない。それでも、二年間の俺の生活が消えたみたいで寂しさはある。
それに……もうやりたいことも思いつかない。世界はいつだって、カラフルな音で溢れていたのに。遠くの海の、波が押し寄せる音と、マリンの足音だけが耳に入る。
ザザァン。
タッタッタ。
ピタ。
俺が一人で考え込んでいたせいか、マリンは立ち止まって、振り返っていた。そして、俺の目を見てもう一度、懇願する。
「顔は出さなくて良い。夏休みの間だけ。お金も全部私が出す。ソウくんは、遊びに付き合ってくれるだけで良い」
だから、一緒にカップルチャンネルをやってくれってか?
言いかけて、あまりに真剣な顔をするから、ごくんっと唾を飲み込んでしまった。
「お願い、私と付き合ってください」
手を差し出して、ペコっと頭を下げる。まるで、愛の告白みたいだった。二人の間の時間が止まる。
ううん、愛の告白だっあら、俺は素直に受け止められたかもしれない。
とくん、とくんっと、心臓が脈打つ音だけが、全身に広がっていく。
「どうしてそこまで、俺なわけ?」
自意識過剰だとは、わかっていた。それでも、俺にこだわる理由がわからない。
「優しいから?」
予想外の言葉に「はぁあ?」と、つい出てしまった。マリンは顔を上げて、唇を綻ばせる。
「ソウくんなら、お願いすればやってくれるかなぁって。他に男の子の知り合い、いないし」
「そもそも、その会いたい人は良いのかよ。勘違いされるだろ」
「好きだけど、付き合いたいとか、おこがましいこと思ってないもん! 私がここにいて、元気にやってる姿を見せたいの。元気とか、笑顔って伝染するでしょ」
ニコニコと笑顔を携えて、俺に一歩近づく。確かに、マリンの笑顔を見ていると、つい頬が柔らかくなる。
「だから、お願い! 私は、あの人に元気が届くならなんでも良いの。動画配信ならきっと見ると思うの」
お願いお願いと両手を組んで、俺を上目遣いに見つめる。不意打ちの可愛い仕草に、胸が高鳴った。ずるい、本当にずるい人だ。
「暇さえあれば動画見てるって、言ってたもん」
ぽつんっとつぶやいた言葉に、ハッと我に帰る。
「それ、カップルチャンネルじゃなくていいじゃねーか!」
「女子高生の日常なんていっぱいあるでしょ! だから、そういうところとの差別化は必要でしょ?」
「カップルチャンネルだって、数えきれないほどあるわ!」
つい、ツッコミを入れてから、マリンの顔を見る。しょんぼりした顔で「知ってるよ、そんなの」と小さく答えていた。悪いことをした気になって、言葉がうまく出てこない。しどろもどろになりながら、捻り出した言葉は、自分でも想定外だった。
「カップルじゃなくて……普通に二人組なら良い。顔出しはしないけど」
「本当? ありがとう!」
俺の手をブンブンと振り回して、途端に笑顔を浮かべる。そして、飛び跳ねるように歩き出した。
「まずは、チャンネル名だね、マリンソウ? 単純だなぁ……」
「おいおい、やるとは」
今更、否定しても遅かった。
こちらに顔だけ向けて、俺を指さす。
「言ったじゃん!」
言った。確かに、口が滑った。
マリンは、スキップするように進んでいく。
「マリンは入れたいから……」
もうやるしかないなら、変な名前にならないようにするだけだ。あんなに詩的な表現をするくせに、出てくるチャンネル名は、変なものばかり。だから、口を挟んでしまう。
「ハーバーマリンとか?」
単純すぎるとは思う。直訳した俺の名前と、マリンの名前を重ねただけだ。それに、湊という字を入れる不安はあった。だから、せめてもの抵抗だった。
一度炎上した俺の頭文字が入っていたら……と想像してしまう。
マリンは小さい声で「ハーバーマリン……」と呟いてから、首を捻る。
「もっとなにかない?」
問いかけられてどうしても思い付かない。
そして、口から勝手に溢れていったのは、湊音の名前が入った名前だった。
「海のミナト」
マリンは確かめるように、何度も頷く。そして、パッと顔を上げて、「いいね!」と声を上げた。
「うんうん、しっくりくる! マリンは海のことだし。良いネーミングだよ! ソウくんセンスある〜!」
茶化したように、呟く。そして、もう一度大きく頷いた。失敗したと思った時には、遅い。マリンの中ではもう決まってしまったらしい。
「それにしよう!」
スマホをポケットから取り出して、両手で打ち込み始める。忘れないようにメモをしてるんだろう。
終わったかと思えば、ぐっと俺の方にスマホを向ける。よくよく見れば、連絡先のQRコードだ。
「撮影の連絡に必要でしょ?」
「わかったよ」
「編集は私がやる! ソウくんは、撮影に付き合ってほしいんだ」
付き合うと言ったからには、やる。どうせ、何もすることなく夏休みも暇してるんだから。
「これで、ソウくんの将来やりたいことが見つかると一石二鳥だよねぇ」
一応、マリンなりに俺のことを考えてくれていたらしい。ふふふっと不敵に笑って、俺の肩をポンポンと叩いた。
余計なお世話だ、と言いたくなる。それでも、そうなったら、いいなぁという思いも、体の奥の方で少しだけ湧き上がっていた。