ネットの海で君を探す
マリンがどこかにいる気がして、ネットの海に潜る。
海の動画ばかり見てしまうのは、マリンの名前のせいだろうか。海夢のSNSアカウントからの返事はない。俺の、マリン宛の動画が届いたかもわからなかった。
でも、視聴者は『信じていたよ』と、炎上を無かったもののように扱った。だから、俺は、まだ歌ってる。
夏休みが終わり、久しぶりに再会したクラスメイトたちは、それぞれ希望を目に映して、黒板を眺めていた。結局、進路希望調査票は、空欄のままだ。未定とだけ、書き込んで、窓の外を見つめる。
光を反射した海が、ざぷんっと揺れていた。マリンの住んでる場所も、好きなことも、俺は、何一つ知らなかった事実に、打ちひしがれる夏休みだった。まだ、諦めてはいないけど。
「じゃあ、まず、進路調査票を提出してくれー」
先生の声に、後ろからプリントが送られてくる。受け取って、重ねて前に渡す。みんなは、もう将来を決めているのだろうか。受け取った時ほどの焦燥感がないのは、諦めか、それとも、動画配信者をしていくという覚悟からか。どちらかは、どうでも良かった。
久しぶりに会った高揚感で、クラスメイトたちはおしゃべりをやめない。先生も咎める気もないようで、集まった進路希望調査票をトントンと重ねた。
「よし、じゃあ、体育館に移動するぞ」
先生の声に、ずらずらと動いていく人並みを遠く眺めた。重たい腰を上げれば、ミツルが俺の横からじゃれつく。
「マリンちゃんから返信はまだないのか?」
耳元で小声のまま、呟く。こくんと頷けば、ミツルの手は俺を慰めるように背中をバシンっと力強く叩いた。学校を休んで、探し続けることも考えたが、親を心配させたくなくて、出席だけしてる。心はどこかに、吹き飛んだまま。
「俺もいろいろ探したんだけどさ」
ミツルがスッと差し出したスマホには、ショート動画のアプリが開かれていた。海の動画に、女の子が歌ってるようだ。イヤホンから音が流れてるようで、そのままでは音は聞こえない。
イヤホンも一緒に差し出されて、首を傾げる。耳にイヤホンを入れれば、透き通った鈴の鳴るような曲が頭に響く。目を見開いて、つい、涙がこぼれ落ちそうになった。
一夏の幸せを歌ってる。
「これ、アカウント名は?」
「やっぱ、マリンちゃんの声に聞こえる?」
ミツルの問いかけに、大きく頷く。隣のクラスの生徒が、俺らを追い抜かしていった。ミツルの顔を見れば、目を輝かせている。言葉にしなくても、言いたいことはわかった。
だから、クラスメイトたちの波に飲まれるフリをして、階段を降りずに逸れる。ミツルと屋上に出れば、爽やかな風が吹いていた。波の音がざぷんっと、聞こえて、心がざわめく。
「ほい」
スマホを渡されて、イヤホンを両耳につける。マリンの声だと、確信した。あれほど声がイヤだと、嫌いだと、ボイスチェンジャーを頑なに使用していたのに。
この動画は、そのままのマリンの美しい声だ。ミツルがマリンの声を聞いたのなんて、数秒レベルなのによくわかったなと驚きながらも、耳を澄ませる。
透き通った声が、耳から体中に広がっていく。アカウントから他のSNSを確認しようとすれば、表記はない。アカウント名は、「涼音」となっている。
マリンのカケラも残っていないのに、これは、マリンだと思った。自分のスマホを開いて、アカウントを探す。涼音の投稿動画は、バズってはいない。でも、コンスタントに数千再生されている。
いい声だもんなぁ。湊音のアカウントで、フォローを押す。ブロックされたら、他の方法でマリンを探そう。そう思っていたのに……
「ま、は? え?」
「なに?」
驚いて俺を見つめるミツルに、イヤホンを外してスマホを返す。そして、自分のスマホの画面を見せた。
「涼音に、フォローされまし、た? お! まじかよ!」
メッセージ欄を開く。何を伝えよう。まずは、傷つけたことへの謝罪?突き放されたら俺はどうしたらいい?
手が震えて、うまく文字が打ち込めない。ミツルは、地べたに座り込んで、俺を見上げていた。俺も一緒になって、座る。
まずは、マリンかどうかの確認か?
いや、もう十中八九、マリンだ。
何度も、謝罪の言葉を打ち込んでは消す。何を伝えたら、俺のこの想いは、まっすぐ伝わる?
『海夢で、マリンって読むって。知らなかったんだ。言い訳みたいだけど、俺は、親友だと思ってたし、海夢は大切な人だった。マリンのことも、大切な人だと思ってる』
そこまで打ち込んで、やっぱり、消す。そして、もう一度、文章を打ち込み直した。
『傷つけて、ごめん。マリンにもう一度、会いたいです。勝手なのはわかってる』
消そうと指を動かしていれば、隣のミツルが勝手にスマホの画面をタップする。送信されてしまったメッセージを見て、肩を落とした。同時に届いたメッセージに、顔を上げる。
『わかっちゃった?』
少しおどけたような文面。最後についてる顔文字も、てへっと舌を出してる物だった。同時にメッセージを送っていた、奇跡に、胸が跳ねる。
『私こそ、勝手に消えてごめんね。ソウくんと、話したいことたくさんあるよ』
メッセージが届いたかと思えば、スマホが着信を知らせる。慌てて、通話ボタンを押して、スマホを耳に押し当てた。
「ソウくん?」
「マリン、なんだよな?」
「わかった、わけじゃなかったの?」
人魚姫みたいに、泡になってなんか、いなかった。消えてなかった。その事実に、ほっと安堵する。
「マリン、涼音って呼んだほうがいい?」
「どっちでもいいよ。どっちも、私だもん」
体が崩れ落ちそうなのを、耐えて、喉の奥に詰まった想いを口にした。
「会いたい。好きだ、俺、マリンが好きだ。傷つけたことは、謝りたい。カップルチャンネルのビジネスみたいな、感じじゃなくて、本当の恋人だったら、どれだけいいか、ずっと想像してた」
「うん」
控えめに、頷いた音に、拒絶じゃなかった声に、つばを飲み込む。そして、溢れていく想いをとめどなく、何度も口にした。
「好きだ。もう、消えないで」
「先に消えたのは、ソウだけどね」
「それは、ごめん。マリンは、もう俺に会いたくない?」
聞きたい、聞きたくない。
胸の中の二つの思いを、ぐっと押さえ込む。
「会いたいよ。私がこうやって自分の声で投稿始めたのも、ソウくんにずっと伝えたかった」
嘘でも良かった。でも、マリンの声は、嘘じゃない。
隣から動いたミツルの方を、見つめる。ミツルは俺らのやりとりを聞かないためか、フェンスに近寄って、イヤホンを耳にはめていた。
「どうして、始めたんだ?」
「ソウくんが素直に謝罪動画を上げてるのを見て、あぁ立ち向かったんだなぁって思ったの」
「見てくれたんだ……」
見てくれると、期待してた。確かにしてたけど、本当に見てくれてるとは思っていなかった。そうだったら、いいなぁという希望的観測くらいだ。
「ソウが向き合ったっていう勇気を見て、私の声が届いたんだなって。だから、最後に今の私の歌を聞いてもらおうと思って上げてみた」
「最後に?」
「ソウくん見てたら、私のままでも良かったなって……思えたの」
「俺は、マリンの声が好きだよ」
一度伝えた思いは、緊張をひょいと乗り越えて、口から飛び出ていく。マリンがコンプレックスに向き合えた事実も、嬉しい。
「ずっと、海夢のこと、カイムって俺呼んでたんだ」
「そうなんだなぁって、動画の投稿を見てて気づいたよ。ソウくんって意外に……漢字に弱かったんだね」
耳に響く、くすくすという笑い声に、すっかり心はあの距離に戻っていた。急にマリンが消えてしまう、あの前に。
「悪かったな」
「ううん、私こそ勘違いで急にいなくなってごめんね。覚えててくれていないんだって思って、すごいショックで、本当は帰ってなかったんだけど。ソウくんから逃げちゃった」
すれ違っていた二人の線が交わっていくのを、感じた。俺とマリンは、まだ繋がってる。
「マリンがいなくて、マジでショックだったし、めちゃくちゃ探した。炎上と向き合ったのだって、マリンと再会したいっていう下心だよ」
「でも、向き合ったのは、事実でしょ! えらいよ、えらいえらい」
いつもの優しい声で、俺を褒めてくれる。きっとマリンはもう、人魚になりたいと思っていない。そんな気がした。
「もう人魚になるのは、やめたのか?」
「もう、人魚になっちゃった。だから、こんないい歌声なんだよ」
「マリンが人魚になるなら、俺も人魚になって追いかけるかな」
「それは、ダメだよ」
吐き出されたため息のような、掠れた声。人魚になっちゃった。そんな言葉に、どうしてか本当にそうなってる気がしてしまう。
「でも、満足してるよ。人魚の世界も楽しいから」
「なんだよそれ、人魚と人間の恋愛は、泡になって消えちゃうのに、か?」
強い風が、髪の毛を掻き上げる。風の強さと、太陽の眩しさに目を細めた。スマホの電話越しの、波の音と、目の前の波の音が重なって聞こえる。
気のせいなのに、そんなはずないのに。同じ場所にいる、気がしてしまう。
「マリンがまだ、こっちにいる気がしちゃうな」
冗談まじりに言えば、驚いた声で、マリンが息を呑む。まさか、まさか、まさか?
そんなまさか、あるか?
現実で?
フェンスに駆け寄って、下の海を眺める。見覚えのある、黒髪が海にぽつんっと浮いていた。そして、ゆっくりと、こちらを見上げる。
目が、合った気がした。
「ミツル、悪い。帰る!」
通話を切って、父さんに「早退する」とだけメッセージを送る。力こぶの絵文字だけ返ってきたから、何かに気づいてるかもしれない。帰ったら恋バナしようとか、言われるかも。
どうでもいいか、そんなこと。階段を一段一段降りる時間が、惜しくて、数段飛ばして駆け降りる。始業式のために、体育館に移動する人の波は落ち着いたらしく、校舎は静まり返っていた。
玄関で靴を履き替えるのも、面倒だ。
上履きのまま、海辺まで駆ける。
マリンは逃げもせず、俺をじいっと見つめて、唇を緩めた。俺の口も、どんどん緩んで、弧を描く。海に飛び込んで強く抱きしめれば、確かにマリンがそこにいた。
「帰ったんじゃないのかよ」
「うん、帰るよ。帰るけど、ソウくんに最後に会いたくなっちゃった」
「話したいことたくさんあるんだろ、聞くよ」
ぱしゃんっと跳ねた海の雫が、頬を濡らす。
「聞きたいことが、一個だけあったんだけど、いい?」
ずっと、胸に引っかかって、気になっていたこと。マリンに問いかけようと、顔を上げれば、こくこくと頷く。
「なに?」
「どうして、俺とカップルチャンネルやるって、言い出したの」