02.穢れの洗礼(1)
玄弥が小学校に上がる年の3月。満月の翌日夜、玄弥は神子の見る十六夜の夢に飛んでいた。
玄弥が初めて十六夜の夢に呼ばれた翌月、同じ年生まれの戌井 紅葉の覚醒で十六夜の夢に呼ばれた。その時、他の神子から翌月に呼ばれるのは珍しい、という言葉が出た。
年の行った神子が言うには、戦前までは毎月のように呼ばれることも珍しくなく、この神社の規模に見合わぬ大きな内神殿でも狭く感じるほど、神子が多かった時代があったらしい。それがここ30年ぐらいは2~3か月に1回ぐらいに頻度が減り、玄弥の5歳の年は玄弥が初めてだったらしい。
そして、この十六夜の夢は慶事で呼ばれたのではなかった。
「眞白。そろそろなのか?」
先見様が悲しそうに言う。
夢の中とはいえ立っているのに元気がなく見える、辰巳 眞白。その左隣に立ち、玄弥は眞白を心配そうに見た。そんな玄弥を眞白は微笑んでそっと頭をなでる。
「ええ、先見様。特に不自由があるわけではないですが、なんとなく……ね。夢先様が呼んでいらっしゃる気がしますよ」
そこにいる神子全員が、すでに引退し婚家に戻っていた眞白のお別れだと気付いた。また神子が減っていく。外神殿にほぼ閉じ込められる運命を共にしてきた先達が去るのは、寂しいものだった。
「眞白おばあちゃん……いなくなっちゃうの?」
玄弥が不安そうに訊ねると眞白は微笑みながらゆっくり頷く。
「でもね、玄弥。私はいなくなるんじゃなくて、夢先様のところでみんなを待つだけなの。だから悲しまなくていいよ。少し長くなるけど待っているからね」
周囲の年若い神子たちも、自分たちに先達としてアドバイスをくれていた眞白を惜しんだ。彼女は戦時中から多い神力を使う天候変更などをして、能力を酷使していた。栄養状態も良くなったこの時代にまだ60代で体の寿命とは、なんとも早いと周囲の神子たちはつぶやく。
「眞白さん。おれ……葦人と一緒に玄弥を見守るからね。がんばるから」
葦人の同級生丑山 涼太が健気なことを言う。また、別の側から玄弥の一か月後輩、戌井 紅葉が声をかける。
「私とゲンちゃんは4月から小学生ですから、学校でいっぱいお話しします。だから大丈夫」
「そうね……玄弥には先輩たちもお友達もこんなにいっぱいいるからね」
眞白は静かに微笑む。その眞白へ事違え様が話しかける。
「玄弥の親たちも最近やっと歩み寄ってきたみたいね。これなら少しは助けになるでしょう」
玄弥に対して時人と弥生は、以前のような無視はしなくなっていた。ただ一般的な家族の、手放しで愛情を注ぐ親子のような関係はさすがに望めないようだ。でも以前よりは居心地が良いと玄弥は思う。わざわざ事違え様が門馬の家族の話題に触れるのは、ちょっとだけ力を使ってくれたのかもしれないと、眞白は思った。
「うん……。眞白おばあちゃん僕大丈夫だよ。心配しないで……」
神子の現身の死は別れではない。と、眞白が言うがやはり玄弥には、いつでも会えるわけではなくなることが、悲しかった。強がって眞白に話しかけたが、玄弥の黒い瞳が潤み目から意識せずに光る物が頬を伝った。
その表情に思わず眞白が玄弥を抱きしめると、目をつぶった玄弥の目元からぽたぽたっと涙が落ちた。が、ちょっと鼻をすすっただけで玄弥は眞白の抱擁に嬉しそうな顔をしてされるに任せた。その様子を周囲の神子たちが優しい目で見守る。
「さて。皆も眞白にしばしのお別れを言おう」
先見様が促し、皆が口々にねぎらいの言葉と感謝の言葉をかけて、十六夜の夢を抜けて行った。眞白は、小さな透明の水晶の玉を手に取り、首飾りにできそうな長い紐の付いた小さな巾着へ入れると、玄弥の首にかけた。
「大したものじゃないけど、お守りだよ。これがきっと、玄弥を大切なものに出会わせてくれる」
「うん、……ありがとう」
玄弥はもう一度礼を言うと、目を閉じて十六夜の夢から抜け出て行った。
そして翌朝、目覚めた玄弥の首には水晶の入った巾着が下がっていた。眞白は夢先様の所に行ってしまうんだ。玄弥は実感した。
***
数日後、もうすぐ入学式という日に辰巳 眞白の葬儀があった。玄弥は入学式のためにあつらえた子ども用スーツの、ネクタイだけ黒に変え、祖父母や父、兄と一緒に参列した。眞白の生家が門馬家であったため、一応親戚筋となるからだった。
辰巳本家は昔から米農家のまとめ役だった。以前は分家が小作農として本家がすべて取り仕切っていたが、今はそれぞれの家が持つ水田を管理して、大きな作業をするときだけ辰巳家が音頭を取って皆を集め、作付けや稲刈りなどをやっている。そのため、辰巳家の本家と分家の結びつきは強い。全員で何かに取り組むには都合がよいが、ある意味怖い部分があり今回はそれが困ったことになった。
周囲の玄弥への風当たりが思った以上に強かったのだ。眞白が辰巳家の分家などの子ども達を差し置いて目をかけていたことに、腹立たしく感じていた者たちと、玄弥の色味が黒いことで忌避する昔ながらの連中が、かなり多かったことによる。
辰巳本家の前庭は広い。苗床づくりや脱穀作業などで家門全員が作業できるよう広く取ってあって、隅には土蔵と農業機械が収めてある車庫が並んでいた。そして、奥まった側に大きな本家の邸宅があり、縁側から見える場所に寅松家が手掛けた日本庭園が広がっている。
その庭園に、玄弥はなんだか気味の悪い靄を見た。
「兄ちゃん。あの……丸くなってる木が並んでるところさ、下の方に黒い煙みたいの見えない?」
「え……どこ? ……玄弥、普通に草が生えてない?」
どうやら、葦人には見えないものらしい。玄弥は何でもないと葦人に応えて、心配かけないよう気にしないことにした。