08.大人の階段の上り口(1)
玄弥6年生の頃に時を戻そう。
その年の夏の終わり。玄弥の妹撫子は5歳になった。撫子の髪は両親に似た茶色、髪質が門馬家らしくくせ毛で瞳は濃い目の茶色。両親と葦人は覚醒を期待していたようだが、玄弥はなんとなくないと感じていた。そして、やはり撫子は神子にならなかった。
そのことで時人と弥生は騒がなかった。上2人の経験で、神子になるならないは神の思し召しと納得したからだろう。撫子もそのことで生活が変わることはなく、ますます元気で口が達者になっていた。
「ゲン兄ちゃん! ふみちゃんとは私が遊ぶの~。お兄ちゃんは宿題あるでしょ!」
夕飯前の時間、以前から玄弥が撫子の様子を見ながら過ごしていたが、最近は自分がやりたいようにし始めて、今も窓からやってきた猫のふみの世話を自分がやると言ってきかない。
「じゃあ撫子、ふみの足を拭いてあげてから遊んでね。兄ちゃんは宿題やるから」
玄弥は最近撫子がなんでもやりたがるので、ある程度放置することにしている。いろいろ注意するとうるさがられるから、失敗しても危険がないことは、見ていないふりをして見守ることにしていた。
今回は足を拭く雑巾の絞りがまだ甘く、あちこち水が落ちていて、ふみの足も拭ききれず梅の花がフローリングに咲く羽目になった。でもまずやり切るまで玄弥は注意を我慢した。
「ど~う? ちゃんとやったよ!」
自信満々な撫子。
「雑巾を持ってきてふみの足を拭けたね。ちゃんと手順が守れたのは良くできたよ」
とりあえず先に褒めておく玄弥。だが、撫子は玄弥の言い回しに不穏なものを感じたらしい。
「……なんか言いたいの? 兄ちゃん」
「撫子はとても賢いね~。そう、兄ちゃんがなにを言いたいか分かるんだね?」
それを言われると撫子は、目を泳がせる。そこまでは分かっていなかったからだ。それを見て取ると、玄弥はなるべく普通の声で言った。
「雑巾はただにぎっただけじゃ絞れないかもね~。あと……ふみが梅の花のスタンプ押して回ってるのはどうしてだろう? かわいいけどね」
「う……やっぱゲン兄ちゃん意地悪だ……」
「あ、じゃあお母さんみたいにぎゃーぎゃー言ったほうが良かった?」
「う~! くやし~~い~~!」
撫子が心底悔しそうに地団太を踏む。と、水浸しの床に足を取られてつるんと転びかけるので、慌てて玄弥は撫子を支えた。
「ほら。……床が濡れちゃうと滑るね。ふみの足に土がついてると床も拭かなきゃならないね」
「…………う~」
撫子は大きくなってから、意地を張るようになってきた。本人は指摘されたことが正しいと分かっている。でも、素直に認めると負けたようで嫌だから、なかなか分かったとかごめんなさいとか、言葉が出てこない。
玄弥は撫子が悔しがっていると分かるので、置いてあった雑巾を洗って絞ってくると、何も言わず撫子に差し出す。
「……ありがと」
撫子は受け取ると、床を拭きだす。ふみは子ども達の騒ぎに呆れたのかすでに外へ行ってしまったから、これ以上スタンプが増えなかった。そして撫子は床を拭き終える。
「……ごめんなさい」
やっと癇癪が落ち着いた撫子が小さい声で言った。玄弥は頭をなでて、雑巾を受け取った。部屋の外から母の夕飯に呼ぶ声が聞こえた。食堂へ行くと、ちょうど葦人が帰宅する。門馬家の日常はこうして穏やかに過ぎて行った。
***
翌年4月、玄弥たちは中学生になった。制服は紺色のブレザーに男子は同色のスラックス、女子は同色の車ひだのスカート。彼らの学年のネクタイはえんじ色で、女子は同色のリボンタイだ。その年の2年生は濃青、3年生は深緑で、3年間同じ色を使って、卒業すると翌年1年生にその色が順繰り回る。
「銀河君! ぜひ陸上部へ」
「いやいや、男子の花形はサッカーだ」
「ジャンプ力、バスケで生かしてほしい」
昼休みの1年A組の教室に、深緑や濃青のタイをした生徒が大挙して訪れていた。銀河の運動神経の良さを知っていた2・3年生が、クラブの勧誘でやってきたのだ。玄弥たちは銀河の席に近寄ることもままならない。
「だから言わんこっちゃない」
銀河の座席付近が先輩たちで混雑してしまったので、廊下の隅から銀河の方を眺めながら玄弥は言う。
「そこが分かってないから脳筋銀河なのよね~」
いかにも仕方がないなという表情で紅葉も言う。今回A組はこの3人だ。秋金と桃香はB組になった。
「俺たち隣の組だからフォローは難しいぞ」
「私らにまで銀河に口利きしろって言われてるけど無視無視」
秋金と桃香もこの状況に恐ろしいものを感じているらしい。もう手に負えないということだ。
「でもねぇ。玄弥と紅葉も気をつけなよ。先輩もだけど1年生にも「中学生になったんだからワンチャン」っておバカな連中で、告るつもりで狙ってんのいるから」
「それは……嫌だな。勘弁して……」
集落組は玄弥が顔だけで寄ってくる女が苦手と知っている。顔に縦線が入りそうな玄弥の表情にからかうこともなく同情した。
「でも待って。私もなの?」
紅葉がふと気づいて桃香に訊く。寝耳に水という顔だ。
「紅葉~。あなたね~、自分も美少女だって自覚欲しいわ。村は集落と違って「神子」だからアンタッチャブルとか考えないんだよ」
桃香が呆れて紅葉に言う。すると紅葉が心底嫌そうな顔で言い出す。
「うわ~。勘弁。こっちにも選ぶ権利がある! 今選ぶ必要ないし!」
「うーん。凡人に言わせるとぜいたくな悩みだなぁ」
秋金がぶすくれた顔で本家筋の友人たちをうらやましがって言う。お互いないものねだりというものだ。