05.兄 中二の夏(1)
早いものであれから2年。玄弥は小学3年生、兄の葦人は中学2年生になっていた。
玄弥は身長が伸び、かわいかった幼少期の面影はあるが少し顔つきも細面の父の時人に似てきた上、密偵の修練で体も鍛えられたので、小学校では銀河と並んで女子に人気が出てきている。本人には自覚がないので女子に残念がられてもいるが。
さて、今は夏休みに入ったところだ。早めに梅雨明けしたので、7月だというのに毎日暑い日が続いている。
そして今日は、玄弥に遅れて葦人も調査員の補助デビューだ。玄弥が根津の老人のせいで早すぎただけなのだが、葦人としては兄として複雑な心境だった。
「兄ちゃん、大丈夫? 緊張してるみたい」
早朝やっと日の出という時間。門馬旅館のエントランスに横付けされた黒塗りの高級車の前。普段より上等な半袖の白いポロシャツに清潔感のある薄茶色のチノパンツというスタイルで、葦人は玄弥の前に立っていた。彼の薄茶の髪は襟足にかからない程度に後ろを刈って、上と前髪は目にかからない長さのサラサラストレートを軽く左に流している。細面の父より祖父に似たあごが若干主張しているが、見事に良家の子息に化けていた。
「そりゃ~まあ。いつもより高級なものだらけだからさ、汚せないというか……」
今回は門馬旅館に来ている某社の社長秘書という人と車に同乗し、その社長の子息として東京の高校を見学に行き、体験講習を受ける設定なのだ。その夜の諜報活動の見張りが本当の仕事で、もう1人ととある料亭に近い飲食店やコンビニに見張りとして居座り、不審な人物をピックアップする役目がある。
「そうね。村なんかじゃ手に入らないね、こんな服」
葦人の隣りに立った女子が言う。彼女が今回の葦人の相棒で、中学1年生の卯月 綾子。彼女は半袖の白地にスカートと共布のアクセントが入ったブラウスと、膝がギリギリ見える丈の水色のタータンチェックスカートで、良家の子女風の服装だ。髪色は葦人に近い茶色で、普段はポニーテールにまとめる髪を下ろしハーフアップにしている。卯月家は東の宇佐美家の分家で、彼女は女ばかりの三姉妹の次女。強烈な性格の上下に挟まれたおとなしい子と言われていたが、密偵の修練で成鳥の指導者たちに注目される実力を見せたのは綾子だ。今回抜擢されたのもそれが理由だった。
「綾子さん、今日はよろしくね。俺は初任務だから頼りないけど」
「いいえ、頼りにしてますよ。葦人さん。私は女子だから戦闘力は低いので、いざという時はよろしくお願いします」
玄弥は2人が挨拶しあっている様子を見て、あれ? っと思った。葦人の緊張は初任務というだけではないのかな、と。5歳まで両親や祖父母、7歳までは周囲の大人たちから色眼鏡で見られた玄弥は、人の顔色をうかがうのが癖になっている。その玄弥から見ると、葦人が綾子と話すとさらに緊張しているように見える。だが本人に言うときっと余計に意識しそうなので、玄弥は黙っていることにした。
「じゃあ今日は2人とも頼む。俺は実際にあの人の秘書を表でやっているんだ。その伝手で受けている仕事だから、外部に知られると厄介なことになる。そういう連中を見つけるのが君たちなのでね。これからの君たちは社長の子息とそのいとこの女子。ある程度金持ちだから、最新の携帯電話も預けておくよ。ポケベルだけじゃ要領を得ない時は使ってくれ」
表仕事が社長秘書の成鳥「コノハズク」、猿田 晴秋は、中性的な顔立ちを笑顔にして2人へ言った後、停めてある黒塗りの車の後ろドアを開けた。
「さあ、明彦様、愛子様。お乗りください」
今回の2人の偽名を言って慣れた仕草で乗車を促した。葦人は玄弥の頭をワシャワシャと撫でて二っと笑うと、後部座席へ座る。綾子も玄弥に笑顔で会釈をするとそれに続いた。晴秋はドアを閉めると助手席へ乗り込む。運転手も調査員の1人。そして彼らを乗せた車は走り去った。玄弥は車を心配そうな目で見送った。
***
昼間の見学と講習は何も問題なく過ぎた。夏休み期間中ということもあって、有名高校の校舎内は一般の学生は立ち入り禁止なので、あまり人目に付くことはなかった。時折クラブ棟から見える廊下などで在校生の視線を感じたが、その程度で騒ぎにならなかった。
そして今は夜の入り口。夏の日は長いがさすがに暗くなる20時過ぎ。「コノハズク」が本業の秘書として社長に付き添い、今は料亭にいる。
今日は社長が推す政治派閥の社長たちの会合だ。彼はそこで会談の行く末を調べ、夢先の杜十二家へ報告する。だが彼が社長に解雇される危険はまずない。社長自らおとりになってでも問題を解決したいと、十二家へ言ってきていることもあるが、晴秋は社長の「彼」でもあるからだ。それでは葦人が社長子息になるのに無理があると思われそうだが、社長は婚姻している夫人がおり、実際2人の間に息子がいるのは確かだった。大人は色々と事情があるのだ。
そのようなわけで、会合の行われている料亭の中はまだ安全だ。武士が生きていた時代みたいに、天井裏に人が潜り込んでいるなど滅多にない。運転手が控室に引っ込んでから通気ダクトはしっかりチェック済だ。それより、今日集まる社長たちを追ってきた連中がいるかどうか、ピックアップする目が重要で、それをやるのが葦人と綾子だった。
「愛ちゃん。そろそろ行こっか」
葦人が綾子に話しかける。
「そうね。移動しましょ」
料亭に入るメインの通りの角のコンビニで、雑誌をチェックしているふりをしながら通りを監視していた2人は、葦人のポケベルに入った通知で会合の終わりを知ると、外に出ることにした。
これまで通りに侵入した車両は、会合参加者以外はゴシップ紙の記者らしいタクシーが1台。それも中に入れないので店の向かい側の小路に1人を下ろしてすぐ去った。車内にいた人の顔は雑誌に挟んだ小型カメラで隠し撮りしてある。
「感心しないな~。君たち未成年だろう? こんなところをふらふらしてるなんてね」