初陣
(……もう、戦うしかないな)
嗣春は、骨の指で腰の短剣――蒼鱗の短剣の柄にそっと触れた。
鼓動のない身体に、かすかな緊張が行き渡る。
目の前には、再び現れた魔猪。
黒々とした体毛が逆立ち、荒く熱を帯びた鼻息が地の苔を揺らしている。
魔猪は低く唸り、顔を天に向けると大きく吠えた。
咆哮が空気を震わせ、耳のない頭蓋骨に震動が響く。
嗣春は反射的に顎を引き、歯を食いしばる。
前回は、ただ遠巻きに見ていただけ。
だが、今は違う。
魔猪の赤黒い双眸。その視線の先には、他でもない自分がいる。
(……目の前にすると、こんなにも大きいのか……)
嗣春の骨の手足がかすかに震える。焦りが全身を這いまわっているかのようだ。
無意識のうちに足先が後退ろうとする。
だが、それよりも早く、スケルトンたちが武器を構え始めた。
各々の五感として伝わってくる戦いの気配は、もはや戦闘は免れないことを嗣春に悟らせた。
まだスケルトンたちも、魔猪も動かない。
ただそれぞれの骨と肉体が、戦いの開始を待つようにぴんと張りつめている。
(どちらかが一歩踏み込めば、戦いは始まる。)
(……覚悟を、決めるしかないか)
いざとなればローブで身を隠す。それで逃げ切れるかはわからないが――それでも。
嗣春は、ゆっくりと腰の短剣を引き抜いた。
澄んだ青色の美しい刀身が姿を現す。
青い光が、刃渡りの緩やかな湾曲に沿ってきらめいた。
胸元のペンダントは、ゆっくりと淡く、しかし熱を持って輝いている。
――そのとき魔猪の後ろ足が、力強く地を打った。
やはり、その巨体からは想像もつかないほどの俊敏さでの突撃。
それは苔をめくり、石を蹴散らし、スケルトンたちの隊列を縫って――嗣春へと強襲する。
黒い塊が風を切り裂き、圧倒的な質量を伴って迫る。
(――! まずいっ……!)
嗣春は反射的に身を引こうとした――次の瞬間には、嗣春の身体は自然に、軽々と避けていた。
斜め前へと綺麗に飛び、転がるように受け身をとる。
着地の衝撃も器用に分散させ、膝をつきながら振り返った。
魔猪はそのまま嗣春の背後を通過し、巨木に激突した。
鈍い衝突音。
太い幹が軋み、枝葉が辺りに降り注ぐ。
嗣春は土を払うように身を起こした。
(……今の動き、どうやってできた?)
あの突進を目の前にして、固まっていたはずの自分が、見事に回避していた。
まるで何年も訓練を積んだ兵士のように、転がり、受け身を取り、無傷でいる。
護身術など大昔に体育の授業でかじった程度。その時だって今のような身のこなしは全くできなかったはずだ。
しかしさっきは、身体が直感的に“避けるべき場所”、”避けるための体の動き”を知っていた。
ペンダントの熱が、骨の胸郭からさらに奥へと、じんわりと染み込んでくる。
この熱には何かが宿っているように感じられた。
嗣春は、その感覚の正体を確かめるように、胸元に視線を落とす。
(……戦闘が始まってからだ。光り方も変わって、熱を帯び始めたよな……)
意識を研ぎ澄ます。
戦闘が始まるまでと同様に、スケルトンたちの五感――足の動き、骨の軋み、視線。
それらが自分の身体を通して、流れ込んでくる。
しかし、今はそれだけではない。
確かな変化があった。
今の自分の重心、足運び、構え――すべてが、明らかに熟練の兵士のように洗練されている。
(これは……)
グオオォォォオオ!!!
魔猪が再び咆哮を上げ、口を大きく開ける。
即座にスケルトンたちも迎え撃つ態勢に入った。
次の瞬間、鋭い牙を剥き出しにして、槍使いに向かって突進する。
だが、その突撃の先に盾の戦士が割って入る。
盾の戦士は、構えていた盾を重心の低い姿勢で突き出し、その衝撃を受け止める。
重い衝撃音と共に、戦士の足が地にめり込んだ。
その隙に、嗣春は走り、魔猪の視界にあえて自身を晒した。
魔猪がそれに気づくと、牙の向きが一瞬でこちらに向き、振るわれる――
だが、嗣春の体は先に動いていた。
確信していたかのように、これも軽々避ける。
(……よし)
嗣春の考察が深度を増す。
(自然と、戦いにおいて取るべき動作がわかる。)
体捌き。重心。反射。情報の処理。
――スケルトンたちの体に染み込んでいた、戦闘の技術。
(ペンダントから、彼らの戦闘の直感や経験までもが、流れ込んできている……!)
嗣春が作った隙をついて、剣士が死角に滑り込み、魔猪の前脚の付け根を斬りつけた。
魔猪が悲鳴に似た唸りを上げ、体をひねる。
すると、槍使いが機を逃さず、脇腹を狙って槍を突き立てた。
穂先が肉を穿つ。
だが、魔猪も負けてはいない。
ぐるりと身体を回転させ、薙ぎ払うように頭を振る。
直撃した槍使いが吹き飛ばされ、木にぶつかる。
(……くそ、これでも、まだ倒せないのか)
嗣春は短剣を構え、魔猪の死角――腹部へと素早く回り込んだ。
剣士と盾の戦士が魔猪の正面で猛攻を続けている。
魔猪の意識が完全に前へ向いている――今しかない。
その隙に嗣春は青い短剣を振り上げる。目の前には魔猪の腹。
短剣を握る手に力が入る。
イメージするのは、剣士の斬撃――あの剣筋。
振り下ろすと、短剣は剣士のそれと同じ“型”を自然になぞって動いた。
そして円を描くように斬りつける――
しかし、浅い。リーチも違えば、力も足りない。
かすり傷はついたが、致命傷には程遠い。
(技術は同じでも肉体の性能が違う…...!)
だが、嗣春は確信する。
戦いの技術そのものが、自分の肉体に“上書き”されている。
スケルトンたちが培った動きが、いま、この身体の動きとして再生されているのだ。
それは、まるで熟練の戦士の戦闘記録を、自分の体で再生するような感覚。
お互いに「五感」そして、「体に染みついた戦闘の技能」までもを共有することで、スケルトン達は小隊で「一つの体」として戦っていたのだ。
感情も、記憶もないはずの骸骨たちが、なぜあれほどの連携を見せるのか――
その答えはここにあった。
嗣春の骨の体は、いつの間にかその構成要素のひとつになっていた。
誰も指示しない。誰も喋らない。
けれど、位置関係、距離、動きが完璧に補完されていく。
吹き飛ばされていた槍使いが、再び前線に立ち、魔猪と向き合う。
さらに剣士と盾の戦士が左右から挟み込む形で距離を詰め、剣士が斬りかかる。
魔猪が一歩引いた瞬間、背後から矢が飛ぶ。
矢が肉を刺す音が鈍く響いた。
矢が刺さると共に、前衛が下がる。
それを合図に、魔法使いが攻撃を放った。
魔猪を中心に魔法陣が配置され、四方から雷光が走る。
金色の雷が魔猪の胴体を縫い、焼き焦がす。
しかし、それでも魔猪は膝をつかない。
重たい息。肩で呼吸するような動き。
だが、魔猪の眼光はいまだ鋭く、命の火は消えていない。
再び剣士が駆け出す。
大きく左に旋回しながら、魔猪の横腹に向けて跳躍する。
刃先が赤く光り、振り下ろされる直前――
魔猪がその動きを見切り、突き飛ばした。
剣士が宙を舞い、地に叩きつけられる。
だが、次の瞬間――
魔猪の死角――右側の空中、まるで空気の層を裂くように、ふわりと黒いローブの裾が翻る。
そこから滑り出すように、嗣春が宙に現れた。
身につけていたローブの効果を使い、気配を断って接近していたのだ。
その手には、青い短剣――蒼鱗の短剣。
嗣春の決意に共鳴するように、刃が青く脈動する。
落下の勢いをそのままに、右目めがけて短剣を振り下ろす――
短剣は魔猪の目に突き立てられた。
瞬間。青い衝撃波が走り、魔猪の頭蓋を貫いた――。
***
森に静寂が戻る。
魔猪は、地面に巨体を横たえていた。
しかし、その体は黒焦げで、もはや原型をとどめていない。
残った毛の部分からはうっすらと白い煙が立ち昇っている。
嗣春は短剣を握る手から、ゆっくりと力を抜いた。
少しほっとして、軽く膝を曲げ、その場に座り込む。
戦闘の直後、前回と同様、魔猪じゃ倒れると即座に爆発を起こした。
前回の爆発を覚えていたおかげで、嗣春は咄嗟に離れて難を逃れ、小隊のスケルトンたちも無事だった。
白い骨の表面には、黒い煤と細かな砂がこびりついていた。
隙間という隙間に、汚れが詰まっている。
(……うわ、すっかり汚れてる……)
骨の体についた土ぼこりを、ぱしぱしと払う。
(……隙間にまで入ってるな……)
骨の指先で、鎖骨の間に挟まった土をうじうじと穿り出す。
(指の骨って、意外と太いんだな……)
爪が恋しい。あれがあればもう少し器用に砂をとれたのに。
顔を上げると、魔猪の骸が再び目に映る。
巨大な肉塊は、爆発の余波でところどころ抉られ、黒く焦げて痛々しいほどだった。
(いつも……彼らはこんなのと戦ってるのか?)
胸元のペンダントが、淡く、かすかに光る。
もう今は熱はない。
体もさっきのようには動かない。
今はただ、スケルトンたちの五感――森を踏む足裏の感触や、静かな骨の軋み、周囲の気配が淡く伝わってくるだけだった。
(さっきまでの、あの感覚……ペンダントが戦闘の感覚まで共有させてたんだ。体の動かし方まで……)
感覚の共有が、戦闘時には一段と深まり、戦闘技術や直感までもが全員に共有されていた。
嗣春も例外ではなく、その感覚に身を任せることで、彼らと完璧な連携がとれていたのだ。
(あれは、個々の戦闘能力がひとつになってたってことだよな……。俺も、あの輪の中にいたんだ)
気がつくと、スケルトンたちはすでに整列を完了していた。
淡々と、何事もなかったように隊列を組み、再び静止している。
そして、当然のようにその中心にいるのは嗣春だった。
(これからも……俺の後を付いてくるのか?)
自分の胸元のペンダントに視線を落とす。
石はもう光っていない。ただ、肌――いや、骨に触れる冷たさだけが、そこにあった。
遠く、森の奥で再び風が揺れた。木々がかすかにざわめき、その気配を嗅ぎ取るように、スケルトンたちが微かに頭を巡らせる。
また、しばらくしたら戦いがくるのかもしれない。
そんな予感が嗣春の心をかすめた。
ふと自分の骨の指を見つめる。
口がパカッと開き、小さく吐息のような感覚が漏れた。
(……慣れてきてる、なんて思いたくないな)
だが、もう一歩引いてしまう理由もなかった。