緑淵の深林(1)
(スケルトン……?)
嗣春は、森の入り口――朽ちた木の陰に身を潜めながら、木立の間を進む骸骨の一団を見つめていた。
スケルトン――だが、ただの骨の群れではない。
五体の隊列。
前衛には、銀に鈍く光る剣を携えた者と、重厚な盾を構えた者。そして、長槍を肩に担いだ長身の骸。
後衛には、弓を携えた者と、古びたローブをまとい、杖のようなものを握った魔法使いらしき姿。
それぞれが異なる武装をしており、まるで戦術的な編成を組んだ歩兵のようだった。
(……野生のスケルトン、ってやつなのか?)
嗣春の目には、彼らが、同じ“骸”であるはずなのに、どこか研ぎ澄まされた威圧感を帯びているように感じられた。
それは嗣春自身の骨よりもわずか鈍い光沢があり、しかし密度を感じさせるような硬質さがあった。
(……強そう、だな)
森は、深く静まり返っていた。
夕陽が差していた空からは、いつの間にか太陽が消えていた。
頭上を覆う枝葉が月の光を遮り、風も止んでいる。
足元には苔と腐葉土が厚く積もっていた。
にもかかわらず、そのスケルトンたちの姿は、暗がりの中でもはっきりと見えた。
夜目が利く、という感覚とは少し違う。
「見えている」というより、「視界として与えられている」感覚に近い。
(そういえば、俺……どうやって見てるんだ……?)
彼はふと自分の顔――かつて顔だったはずの骨に触れる。
視神経も網膜も、そもそも眼球すら存在しない。
色や輪郭、光が直接、目ではない“何か”を通して入ってきているようだ。
(そもそも、視覚野があるはずの脳すら———)
そこまで考えた時だった。
カクン、と。
剣を持っているスケルトンがぐるりと首を回し、ぴたりとこちらを見た。
暗闇の中で尚、深淵のようなその眼窩は、嗣春の位置を見据えている。
その動きに続くように、他の四体が全く同じタイミングで、同じ角度で嗣春へ顔を向けた。
(うっ……!)
ぞわり、と背骨の芯が冷える。
嗣春は思わず体を引いた。逃げなければ、と反射的に足に力が入る。
咄嗟にローブの裾を握りしめる。
(マズい、ローブを……!)
しかし———彼らは、嗣春を一瞥したのみだった。
数秒の沈黙ののち、剣士が向き直ると、まるで“タイミングを合わせた”かのように残りの4体も首を元に戻した。
ローブは、まだ何も反応を起こしていない。
嗣春は呆然と立ち尽くす。
距離はそう遠くなかった。
確実に視界に入っていたはずだ。
それでも、彼らは足を止めることも、警戒の素振りも見せなかった。
(……俺を、仲間だとでも?)
自身の状況に困惑する。
引き返すべきか――その考えが脳裏をよぎる。
この森の気配は異常だ。
空気は湿り、重く、まるで空間そのものが拒絶の膜で覆われているようだった。
だが、今ならまだ戻れる。
森の外へ出ることは、選択肢として残されている。
……にもかかわらず、嗣春は一歩、前へと足を踏み出した。
一歩、また一歩。
枝を踏まないよう、乾いた葉を避けて、地を踏みしめる。
骸たちは、やはり特に反応しなかった。
無反応。
むしろ、彼の存在など最初から認識していなかったかのように、ただ静かに、淡々と森の奥へと進んでいく。
(妙だ……)
彼らの動きには、確かに整然とした秩序があった。
だが、それは“考えた動き”ではない。
まるで外部から定義されたプログラムに従って動いているだけのような、均質な律動だった。
目線も、姿勢も、すべてがぴたりと揃いすぎている。
その無機質な歩調の中に、命の気配はない。
ただ、動いているだけ。
(……まるで命の抜け殻だ)
動いてはいる。だが、そこには“誰か”はいない。
まるで、思考のない殻だけが与えられ、行動するよう設計された“模倣品”。
痛みもない。迷いもない。
判断はする。反応もする。だが、思考はしない。
感情のふりをせず、そもそも感情の必要もない。
嗣春は、思わず自分の手を見た。
指の骨が軋む。
風に晒され、乾いた剥き出しの白。
付けられた黄金の腕輪が、骨の上で冷たく光っている。
(……俺は、あいつらとは違う)
考えた。
迷った。
選び、逃げ、拾い――
もがき、生き延びてきた。
目の前のスケルトンたちには、その“思考”がない。
(なんで俺だけ……?)
問いは宙に浮いたまま、答えはどこにもなかった。
だが、記憶がよみがえる。
爆発と共にこの世界で目覚めた、あの瞬間。
周囲の骸たちが、ただ壁のように並んでいたとき――
嗣春だけは、空気の熱に、剣の光に、そして死の気配に恐怖を覚えていた。
そして、「生き延びなければ」と思った。
あれは、ただの反射ではない。
“反応”ではなく、“選択”だった。
(……俺は、きっと、こことは違う世界から来た。だから――)
俺だけが、ここでスケルトンとして思考を持っている。
論理ではない。確証もない。
いや、たとえ間違っていても――
今の彼には、それだけが唯一の“支え”だった。
森の奥へと歩み去るスケルトンの影たち。
その背に向かって、嗣春はゆっくりと、確かに一歩を踏み出した。
***
スケルトンたちは、森の奥へと、なおも静かに進んでいく。
嗣春は、その一歩一歩の背中を見つめながら、同じく歩を重ねた。
森はさらに濃く、深く、暗くなる。
太古のまま残されたかのような巨木が両脇にそびえ、枝葉は夜空の代わりに編まれた天井を作っていた。
日も、月も、風さえも失われた世界。
その中で唯一響くのは、骨と骨がすれる、乾いた音だけだった。
重たい空気が、肌――いや、骨の表面にまとわりつく。
それは肌では感じられないものの、確かに“存在”として知覚できた。
(……この森には何かがある)
その感覚に、名前はなかった。
だが、明らかに“骨の内側”がざわついていた。
昼と夜の区別が消え、風景は一様な闇のベールに覆われている。
どれほど歩いたのだろう。
骨の体には疲労はないようだった。食欲もない。
ひとときの感覚ではない。
数日が過ぎたかのような重さが、骨の奥にたまりはじめたころ――
森が、唐突に開けた。
頭上の天蓋が失われ、冷えた夜空が覗く。
星々はなく、ただ一枚の暗い布のような空が、静かにそこに広がっていた。
そして、その地の中心に在ったのは――
崩れかけた石造りの建築。
柱には古い時代に何らかの意匠が施されていたようだ。
雨風にさらされ、もはや輪郭のない彫刻は苔に溶け込んでいる。
その様式は、どこかギリシャ建築を思わせた。
だが、その印象は神聖ではなかった。
荘厳であって、なお禍々しい。
神殿のような建築物。
(……なんだここは)
深緑の蔦に包まれ、時に忘れられたかのような静寂に埋もれている。
建物の前には、円形の紋章――古びた魔法陣のような文様が、地面いっぱいに刻まれていた。
苔の合間から微かに浮かび上がるその線はわずかに光り、まだ力を宿しているように見えた。