輪郭なき命の自問
魔王城――死と炎に呑まれた黒き要塞を背に、1体のスケルトン――篠田嗣春が、木と岩に覆われた山道を登っていた。
風が吹く。
灰を運ぶ、熱を孕んだ風だった。
焼き尽くされた命の残骸が、白い粉となって空に舞っている。
身軽なはずの骨の体に反して、足取りは重い。
それは肉体的な重量ではなく、彼のーー篠田嗣春の精神からくるものだった。
それでも、彼は歩いていた。
背後の崩れ落ちた世界から、一歩でも遠ざかるために。
理不尽な終わりから、逃れるために。
足音は、湿った土に溶けるように吸い込まれ、消えていく。
だが、歩くたびに骨のこすれる乾いた音が寂しく鳴っていた。
体の違和感は消えなかったが、それでも嗣春は、すでにその骨の身体に慣れつつあった。
動くことすらままならなかった手足も、あの逃走劇を経て馴染み始めている。
(……どこまで、逃げればいい……?)
その問いに答える者はいない。
空にはまだ黒煙が滞り、あの惨劇の名残を見せつけてくるようだった。
だが、熱と死の気配は、少しずつ嗣春の背後へと遠ざかりつつあった。
***
やがて、山腹の岩場へと差し掛かった。
周囲を覆っていた木々がふいに途切れ、視界が開ける。
嗣春はふと立ち止まり、風に吹かれるまま、ゆっくりと背後を振り返った。
視線の先、赤黒い残光が揺らぐ山の麓――魔王城。
彼は唖然とする。
そこには、大穴が開いていた。
まるで、城壁以外のすべてが飲み込まれたかのような欠落。
ただの破壊ではない。
光と闇が衝突し、互いを喰い尽くした末に残った“無”がぽっかりと口を開けていた。
残された石造りの一部には、まだ炎と雷の名残が淡く揺れている。
穴の周囲には大量の瓦礫の上に、灰が降り積もっていた。
一瞬――あの一瞬で、すべてが終わったのだ。
勇者と魔王。
どちらが勝ったのか、それとも共に消えたのか。
嗣春には、知るすべもなかった。
彼は、ただじっと、崩壊した魔王城を見つめていた。
そこに、最初から自分の居場所はなかった。
あの戦場にいた誰も、彼を”個”として認識していなかった。
だが、あの地獄の決戦から、5体満足で逃げ延びた。
ローブの裾を風が揺らす。
腕には、黄金の腕輪がきらりと光を返す。
腰に差された短剣は、澄んだ湖面のように青く煌めいていた。
ふと気がつくと、拳を強く握っていた。
骨の指がわずかに軋み、小さな音を立てる。
骸でありながら、彼には確かに“人間の意志”が宿っていた。
その歪なあり方が、より一層、嗣春――人間の魂を持つスケルトンとしての孤独感を強めた。
仲間はいない。
敵もいない。
そもそも、何を敵とするのかさえわからない。
この山の中で、ただ一体、いや一人として、彼は、存在していた。
岩の上に腰を下ろす。
肉も筋もない身体で“座る”という行為が成立していることに、思わず苦笑が漏れた。
風が草を揺らし、夕焼けと炎の名残が混じった赤い空が遠くを焦がしている。
(……俺は、なんなんだ?)
夕日に手をかざす。
白く細い骨。関節の可動は滑らかだ。しかしそこに血も肉も、温かさもない。
それでも、確かに“感覚”はあった。空気を、皮膚の代わりに骨で感じているような、不思議な感触。
(人間だった……はずだ)
記憶が、薄く甦る。
白い天井。蛍光灯。深夜2時の研究室。
解析ソフトの眩しさ。繰り返される作業。そして、虚無。
(俺は、そこで……意識が途切れて……)
(死んだのか……?)
断言はできない。
だが、この世界の現実は、あまりにも“生々しい”。
骨だけの体でありながら、感じ、考え、選び、動いている。
もう一度視線を落とし、魔王城を見る。
思い起こすのは、黄金の鎧に身を包んだ勇者、そして禍々しいオーラを纏い、絶望そのもののような存在感を放っていた魔王の姿。
(さっきのあれは……戦争だったのか?)
赤黒く焦げた魔王城の残骸が、まだうっすらと燻っていた。
あの中で、無数の命が燃えた。
勇者、魔王、兵士、魔物、死の戦士――そして、自分自身も、その中に放り込まれていた。
(あんな光景があり得るのか…….)
勇者の剣から伸びた神々しい火の柱。
魔王の禍々しい闇の奔流。
召喚された骸骨の兵士たち。
全てが幻だったかのようだ。
(……あんなもの、一体どんな原理で……)
もし職場で「魔法を見た」と言えば、鼻で笑われるか、精神科へ回されることだろう。
だが、実際に目の前で、剣と魔法の激突が起こった。
物理法則を嘲笑うかのような力と力の衝突が、確かにそこにあった。
(……この世界、本当に何なんだ)
魔法。魔王や勇者のような“空想のような存在”たち。ローブを始めとした謎の力を持つアイテム。
それらが、あまりにも当然のようにこの世界に存在していた。
それでいて――山には木が生い茂り、地面には草が生え、風は岩肌を撫でて吹き過ぎていく。
この世界にも、光があり、音があり、重力がある。
りんごがこの世界にあるならば、その実は木から落ちることだろう。
(理不尽なほどに異質で、それでいて妙に“現実的”だ)
改めて、自らが元いた場所とは異なる世界に来てしまったことを実感する。
(そして、なぜ俺は召喚された?)
それが一番の疑問だった。
自分はただの会社員だった。
世界を救う資格も、破滅させる力も、何一つ持っていない。
それが、突然、スケルトンとして召喚され――しかも、魔王のための”盾”の一部として、名もなき使い捨ての存在として戦場に放り出された。
(“運が良かった”だけで生き残った。でも……)
もし、あの時少しでも選択を間違えていれば、勇者と魔王の衝突で跡形もなくなっていた。
こんな世界に召喚されておていて、運が良かったなどと考えている自分に苦笑する。
あれこれと考え始めるとキリがない。
どれだけ考えても、今の自分にはなんの仮説も、結論も出すことはできない。
嗣春は深呼吸をしようとして、ふと気づく。肺がない。
(あ、そうか……肺、ないんだったな)
骨の口を開けて、空気を吸うふりだけしてみる。
顎の骨がカシャカシャと音を立て、反った背骨が軋む。
あまりにも滑稽な姿に、自分でもおかしくなって、心の中で小さく笑った。
疑問はまだ数多く残る。
しかし、それらの疑問に仮説を立て、検証し、解決するには何においても情報が足りない。
事実としてはっきりしていることは、一つ。
自分自身の意思と記憶が、この場所で、この骨の体に宿っているということだけだった。
風が吹く。
焼けた空気が遠のき、草の匂い、岩の湿り気、鳥のさえずりが、少しずつ空間を満たし始めていた。
あの戦場にはなかった自然の風。
スケルトンであるこの身体に嗅覚があるはずはない。 だが骨の表面が、かつて肌だったものの記憶で、世界を感じているようだった。
それらすべてが、「生きた世界」の証。
——彼にとってこそ、余計に実感される“生”の世界だった。
(では、これからどこへ向かう?)
自分はまだ人間のつもりだ。
だが、人間の集落を探すなど、現実的ではない。
先ほどの聖騎士との遭遇で理解した。人間にとってスケルトンは、即ち敵なのだ。
となれば、この身に相応しい場所を探すほかない。
山腹の岩場から、さらに奥へと視線を移す。
湿っている。空気が重い。
緑が、濃い。
一歩足を踏み入れる前から、これまでの山道とは明らかに雰囲気が異なっている。
巨大な木々が幾重にも重なり合い、まるで天井のように頭上を覆っている。
その幹は、樹齢を数えるのが馬鹿らしくなるほど太く、深く、苔に埋もれていた。
(……それに、ただの自然ではない。何かが“意図して”この場を隔絶しているような——)
まるで見えない膜が、魂そのものを選別しているかのような空気。
嗣春には、それが結界であるとはわからない。
だが、直感だけは告げていた。
(……あの森は、何かを拒んでいる)
それでも嗣春は、その森に近づき、一歩踏み出す。
自分がその“何か”に含まれているのか、それとも除外される側なのか――それすらわからない。
(俺は……入れるのか? 生き延びられるのか……?)
不安はある。
けれど、それ以上に、ここに留まっていればやがて誰かに見つかるという確信もあった。
人間に見つかれば滅ぼされる。
魔族に見つけられても、戦場にいた他のスケルトンのように道具として使い潰されるだけだ。
ならば、誰にも届かない場所に――
この拒まれた森の奥に身を潜めるしかない。
そのとき、嗣春の視線の先で、“何か”がゆっくりと動いた。
苔むした巨木の根元、幹の影――
まるで機械のような、ぎこちない動作。
どこか覚束なく、それでも確かに動いている。
白い骨の四肢。空洞の眼窩。
それは、紛れもない――スケルトンだった。