灰色の彼方にて(3)
――その瞬間、背後で光と闇の奔流にすべてが飲み込まれた。
(……ッ!)
嗣春は振り返る間もなく、猛烈な衝撃波に体ごと弾き飛ばされた。
爆風は容赦なく背を叩きつける。周囲の大気が一気に赤く染まり、宙を舞う瓦礫の破片が視界を奪った。
火花と黒煙が入り混じり、思考が混乱する。
痛覚を失ったはずの骨格の奥に、ぎしりと不快な振動だけが刻まれる。
***
どれくらいの時間が経ったのか――
ごろりと地面に転がっていた嗣春は、何とか肘をついて上体を起こす。
周囲には砕けた石柱や、崩れ落ちた壁の残骸が散乱している。まだ所々で火が上がり、光と熱がちらついていた。
熱でゆらぐ空気が視界を歪め、灰が雪のように降り注いでいる。
(……俺は、無事……なのか……?)
体を構成している骨は意外と丈夫なようで、折れている様子はなかった。
だが、“無事”という言葉は、この地獄の中ではあまりに空虚だった。
逃げなければ――。
嗣春の脳裏に、その思考だけが警鐘のように強く鳴り響く。
魔王と勇者の激突で生じた破滅を振り返っている余裕はなかった。
嗣春は骨の手で瓦礫を払いのけ、よろめきながら立ち上がる。
燃え残る梁を跨ぎ、崩落した回廊を迂回し、外壁へ向かう。
途中、炎の中で折れた槍や盾が散乱し、焦げた魔物の死骸が黒い塊となって転がっていた。
地面を掴む骨の指先に、力がこもる。踏み締めるような足取りで、崩れた城の一角を回り込む。
外壁が見えた。
そこには巨大な亀裂が走り、石材が崖のように崩れ落ちている。
裂け目の向こうには、切り立った山影。
麓には細い小道が山に沿うように続いていた。
(あの山道を登れば、この辺りよりは安全かもしれない)
外壁は高さ30メートル程度で、裂け目までは、10メートル程度だろうか。
外壁から崩れ落ちた瓦礫が坂のようになっており、裂け目まで容易にたどり着けそうだった。
骨の踵が石屑を踏みしめ、積もっていた灰が散る。
城壁の内側はまだ真紅に燃え盛る。
――と、そのとき。
瓦礫の中で淡い青光がちらりと揺れた。
割れた石材の間、まるで呼びかけるように突き刺さる一本の短剣。
湖面を思わせる水色の刃は神秘的で思わず見とれてしまうほどだった。
(武器だ……!)
嗣春は骨の指で柄をつかみ、そっと引き抜く。
刃先を触ると冷たい金属が手に馴染む。
刃は宝石のように美しく、その波紋は神聖な湖を思わせた。
(これで……少しは自分を守だろうか)
短剣を握りしめ視線を上げる。瓦礫の坂は終わり、外壁の外まではあと高さ3メートル。
(あとはもう、よじ登るだけだ。)
今の軽い体であれば、もう問題は無い。
――そう思った瞬間。背後で石屑が崩れる音がした。
「……何が動いていたのかと思えば、スケルトンだったとはな」
低い声。
嗣春は驚き振り向くと、そこには瓦礫にもたれた騎士の風貌の男がいた。
銀白の鎧は血と煤にまみれているが、金の縁取りと金色の文様が目に留まる。この世界のことを知らない嗣春でも、その装飾が高位の地位を持つことは推し量れた。
足元には、甲冑の靴跡と濃い血が轍のように瓦礫の上をなぞっていた。
(人だ……!魔王との戦いの場にはいなかったよな……?)
わずかな喜びと共に、嗣春は我に帰る。
自らが骨の体であることを思い出したのだ。
(今の俺は、人間にどう映るんだ……?)
嗣春は、騎士の顔を覗き込む。
瓦礫にもたれた騎士がこちらを睨み返した。
騎士の表情は硬い。それは痛みに耐えるための表情ではなく、明確な敵意。
「……仲間かと思って……期待して損したな」
騎士は苦笑めいた息を漏らす。
「なぁ、俺の仲間が、勇者様が、どうなったか知っているか?」
鎧の隙間から荒い息が漏れる。だが、その瞳には聖職者特有の光が宿っていた。
「……いや、物言わぬ骨に問うなど聖騎士にあるまじき。俺も余程の重傷らしい」
自嘲気味に首を振ったその瞬間、聖騎士の視線が嗣春の手元で止まった。
瞳が大きく見開かれる。
「その短剣……!」
一瞬で顔色が変わる。
「それは――ザニール様の蒼鱗の短剣! どこで手に入れたッ!」
聖騎士は剣を杖のように突き立て、怒りと焦りで声を震わせた。
聖騎士は震える声で、すぐさま詠唱を紡ぎ始める。
「光耀の聖なる我が主人よ、我に迷える骸を浄化する力を――」
(まずい、誤解だ!)
嗣春は慌てて短剣を地面へ置こうとした。
だが、その動きがかえって騎士の警戒を煽り、詠唱に力を込めさせる。
(なんとか話を......!)
骨の口から声は出ない。
聖騎士の放つ光は強まる。
骨の奥にまで届くような、焼け付く光の波が膨らんでいく。
光が刺す。
骨の体になってから感じなかった”痛み”が、初めて走る。
嗣春は思わず身を縮めた。背後は外壁。逃げ場のない瓦礫の袋小路。
(交渉は無理だ――なんとかして逃げるしかない!)
騎士の詠唱は続く。
「地を這う屍よ、聖なる焔によってその身と魂を焼き尽くされよ――」
詠唱が終わろうかという刹那———。
骨にかかった漆黒のローブが、風もないのにふわりと揺れる。
同時に、自分の中の“何か”が、波のように布へと流れ込んでいくのがわかった。
光が淡くくぐもり、世界の色調が一段褪せる。
痛みが途切れ、熱が遠ざかった。
「……っ? い、いない……!?」
騎士の詠唱が止まり、焦点の合わない目で周囲をきょろきょろと探し始める。
(なんだ……?俺のことが見えなくなったのか?)
嗣春が混乱する間に、聖騎士は荒い呼吸とともに剣を落とす。
多量の出血がにより限界が近かったのか、そのまま瓦礫に崩れるように倒れ込んだ。
(これは……ローブの力、なのか……?)
まるで目の前の騎士の“認識の外”に外れたような、ひどく不思議な感覚。
確かに相手の視線は素通りした。
炎が唸り、遠くの石塔が崩れ落ちる轟音が響く。
誤解を解く余裕は、もうない。
不可視のまま、短剣を拾い上げる。
嗣春は倒れた聖騎士をひと目だけ振り返った。
瓦礫の隙間から日の光が差し込み、鎧の金縁はかすかに輝いている。
呼吸は浅く、今にも途絶えそうだ――だが、助ける術も言葉も持たない。
(俺が立ち止まれば、二人ともここで灰になるだけだ)
ローブの裾を握り直し、足を踏み出す。
蒼鱗の短剣を落ちていた布に刺し、その布を骨に引っ掛けた。
崩れた外壁に登り、裂け目をすり抜ける。
燃え盛る城壁を背に、一歩外へ踏み出す。
空には稲妻の名残がちらつき、魔王城全体が赤い炉のように脈動していた。
(ここも、すぐ飲み込まれる……)
骨の脚は驚くほど軽い。短剣が腰で揺れ、ローブが風に翻る。
名もなきスケルトンは、深い森へ続く小径へと消えていった。