灰色の彼方にて(1)
「ああ……飽きたな」
その呟きは、誰に届くこともなく、薄暗い研究室の空気に溶けて消えた。
深夜二時、白く冷たい蛍光灯が無機質な光を放ち、篠田嗣春の顔を蒼白く照らしている。
天井の空調は喉の奥を乾かすような微かな風を吹き、部屋にはただ、静寂と電子音だけが漂っていた。
パソコンのディスプレイには、目標達成を示す数値が、グラフと共にどこか虚しく表示されている。
目的は完遂した。
嗣春は、長いあいだ凝視していた解析データを保存すると、ゆっくりと椅子に背を預けた。
数年かけて取り組んだ研究テーマの成果が、ようやく形になった瞬間だった。
「……やり切ったな。全部」
達成感はなかった。喜びもなかった。
むしろ、終わったことで、魂にぽっかりと空いた空洞だけが残った。
どこか燃え尽きたような――いや、そもそも燃えた実感すらない。
修士課程を経て、この会社に就職して約10年。
会社から与えられたテーマに沿って研究し、仮説を立て、実験し、データをまとめ、報告し……その繰り返し。
その先に、何か意味があると信じていた。
だが違った。
自分が得たのは、単なる数字の羅列と、システムに組み込まれた歯車としての役割だけ。
今、確かに"目的"は果たされた。だが、それはすでに、自分のものでさえなかったのだ。
「俺は、所詮ドーパミンの奴隷だったんだな……」
感情を、ホルモンに任せて走っていただけだ。
目的を達成した時の、脳内ホルモンの分泌による快感の出力を、幸福や使命と勘違いして突き進んでいたのだ。
そこに意思などなかった。もはやなんの達成感も抱かない自分には、この人生で喜びを見出せる気がしない。
絶望と共にそっと目を閉じる。
肩が重い。
腕に力が入らない。
あまりの虚脱感に、世界が遠ざかるような感覚を覚える。
(ああ……貧血か……?)
意識が遠のいていく。椅子の背もたれから、無重力のように離れていくような錯覚。
重力が、ない。
音も、ない。
熱も、冷たさも、空気さえも感じない。
世界から剥がれる――そんな感覚。
思考が崩れ、散っていく。
意識だけが宙を舞い、空中にただ浮かんでるようだった。
もしも魂などというものが存在するなら、今俺の魂はこの世界から乖離し、行き場なく中空を漂っていることだろう――。
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――その瞬間、轟音が世界を引き裂いた。
ドオオオンッッ!!
頭を殴られたような衝撃。
激しい振動、光と熱、咆哮と怒号。
そのすべてが一度に襲いかかり、何が起きたのか理解する間もなく、彼の体――いや、「それ」はとてつもない勢いで投げ出され、転がっていた。
灰と炎熱を運ぶ風。
ほとばしる眩しさと、空気を裂くような轟音。
体のどこかが粉々に砕けているような、奇妙なきしみと鈍い痛み――いや、痛みですらない。何かがずれている。
嗣春は、目を――あったはずのそれを開こうとした。
だが、視界はどこか不自然だった。
色が薄く、やや輪郭がぼやけ、まるで薄皮越しに世界を見ているようだ。
動こうとした。
が、動かない。
手が、足が、感覚が――おかしい。
(……ここは……どこだ?……宮殿?)
目に映るのは宮殿――だが、自分の知るものとは明らかに異なっていた。
天井は遥か高く、ルネサンス期の豪奢な装飾を施された荘厳な建築物を思わせる。
だがそれらとは明確に別物であった。
壁面や柱に使われている石材は黒々とした禍々しさを放ち、施された彫刻もまた異形を象った不気味な意匠だった。
天井に開いた穴から覗く空は焼け焦げ、赤と黒が混ざり合った異様な色彩に染まっている。
崩れ落ちた天井の破片が床に散乱し、瓦礫の塔のように積み重なっている。
地面には無数の亀裂が走り、その場に起こった衝撃の重なりを物語っていた。
そして、その亀裂を縫うようにして地面に散らばる無数の白い骨。
その全てが、現実世界とはかけ離れた、異質な風景だった。
(夢? ……違う。違いすぎる)
あまりの光景にいっそ夢であってほしいと願うほどだ。
だが、吹き抜ける戦禍の空気が、色濃く現実を感じさせた。
彼の目の前を、誰かが走り抜けた。
黄金の鎧を着た、光る剣を構えた女。
そしてその向かう先には、巨大な黒い影――大きな角を持つ紫色の人型が、黒い炎を纏って吼えている。
絶望――そう形容するしかないほどの威圧感を放つ異形の存在が、圧倒的なオーラで女と向き合っている。
距離にして30メートル程度だろうか。
2人の間には、ぽっかりと大穴が開いた白い壁が聳えている。
(なんだあれは……なにが……)
よく見ると、白い壁は無数の人骨で構成されていた。
バラバラと崩れる音。粉砕された骸骨の群れ。
地面に散らばる骨はあの一部だったのだろう。
混乱する思考。まとまらない情報。
そのとき、自分の「腕」を見下ろして、彼はようやく気づく。
それは白く、細く、節だらけで、まるで……骨。
しかも、皮膚も筋肉も、なにもない。
彼は、目を見開いた――つもりだったが、まぶたの動いた感覚はない。
声をあげようとしたが、喉がない。肺もない。舌すらない。
(……俺……これ、俺?)
視界の端で、同じような骨の群れが、まとめて吹き飛ばされていた。
黄金の鎧の女が、異形の存在に向けて怒声を上げた。
「【骸骨障壁】などで私を止められると思ったか、舐められたものだな!」
(……スケルトン?)
その言葉が、ゆっくりと脳内に沈み、そして結実する。
(…...まさか、俺は吹き飛ばされた壁の一部だったとでもいうのか……!?)
異形の存在は黄金の鎧の女に対して吐き捨てる。
「……ふん、勇者如きが。戯言を。」
(勇者……!?勇者と言ったのか?)
(あの女性が勇者…?となると、奥の存在は魔王とでもいうのか……!?)
勇者と呼ばれた女のところに、他の仲間らしき人間が3人、駆け寄った。
大きな盾を持ち、雷のようなオーラを纏ったフルプレートの巨漢が最前列につき、勇者を守るような態勢に入る。
それに伴い、勇者が何かを詠唱しながら光る剣を天に向け、上段に構える。
剣から大きな光の筋が伸び、火の柱のようにも見えた。
勇者の隣には弓を持った軽装の男が周囲を警戒する様子で構える。
最後に、漆黒のローブと杖を持った長い黒髪の女性が後方についた。
「これで魔族との因縁も終わりだ。これまで失った仲間のためにも、私の全てをかけて貴様を倒す!!」
勇者がそう叫ぶと、光と炎の柱は一層力を増した。
その時、黒い閃光が鎧の女めがけて突撃する。
轟音と共に、地響きが骨の体を震わせる。
――しかし、黒い閃光は阻まれていた。盾の巨漢の能力で形成されたらしき半透明の障壁が、黒い閃光を止めたようだ。
黒い閃光が止められた場所には、ツノの生えた悪魔のような見た目の男が、黒い剣を突き立てていた。
「魔王様、お気をつけてください――勇者の【火神招雷】が来ます!!」
悪魔は振り返り、異形の存在——魔王に向かって叫んだ。
「勇者様が奥義を出すまでの時間、この命に変えても稼いで見せます!!」
盾の巨漢は絶叫と共に、一層力を込め、半透明の障壁の光を強める。
(なんだこれは……。俺はゲームの世界にでも入ったのか?)
(しかもスケルトンとして、この戦いの真っ最中に?)
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ゴウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥ……ッ!
空気が、熱を帯びて震えている。
天の彼方から、火と雷が重なる気配。
その光の麓には、勇者の光の剣。
地が、空が、世界そのものが、刃を振り下ろす直前の静寂を保っていた。
だが、それは一瞬の話。おそらく、もう間も無くすべてが崩れ去る。
スケルトンとなった篠田嗣春――名もなき存在は、本能的に悟っていた。
(……動かなくては、巻き込まれる)
――逃げよう。
骨になる前では思ったこともないほど、鮮烈に意思を持った。
どこかへ、どこでもいい。
“何かが起きる”。この場から離れなければ、骨ひとつ残らず消し飛ばされる————。