最終飛行8章
彼女は遠くへ行ってしまった。
戻ってくるかどうかはわからない、と言っていた。
戻ってくるとは思っていない。
ただ、戻ってきて欲しい。
まあ、僕にはどうしようもない事だけれど。
ひさしぶりに、『凍れる大気』へと顔を出してみた。
からーんからーん、と涼やかなベルの音を響かせて、店に入る。
楓から、繁盛していると聞いていたけれど、今は誰もいない。
時間が時間だからか。
カウンターに座ると、マスターが声をかけてきた。
「ひさしぶりだね。貴理くん」
「名前、覚えててくれたんですか」
「楓とは何回か話したから」
「そうですか」
しばらく間をおいてから、聞きたかったことを聞いた。
「何か、言ってました?」
「いや、別に何も」
「そうですか」
未練だな。
そう思う。ちゃんと最後に話せたんだし、よしとしようと思うんだけれど、それでもまだ彼女に関する何かが欲しくて、それで睦月さんにあんな質問をしてしまった。
「ご注文は?」
にっこり微笑みながら彼女が言う。
「サンドウィッチ」
「了解」
そういうと、彼女はサンドイッチを作り出した。
的確に手を動かしながら、彼女は言った。
「楽しかった? 楓といて」
「それはもう」
とても楽しかった。
本当に言葉じゃ言い表せないくらいに。
「それは、とてもいいね」
そう言って、睦月さんはサンドイッチを僕の前に置いた。
たった三つ。卵、ハム、ツナ。以上だ。そして水。
「おいしい水はどんな料理よりもおいしいって言うよ」
睦月さんはそう言って水のグラスを僕の前に置いた。
透明な氷が浮かんでいる透明なグラスに透明な水。
一口飲んだ。冷たすぎず、熱すぎず。
ちょうど気温に合った水の温度だった。
本当に、おいしい水っていうのはどんな料理よりもおいしいと思えた。
いや、どんな料理もそれなりにおいしいと思う。
だけれど、水はその飽きがこないような感じがいい。
「みず、おいしいですね」
「こんなにおいしい水なんだから、大切にしなきゃね」
そう言って睦月さんは笑った。
本当だ。大切にして、いつでも飲めるようにしておきたい。
こんなにおいしい水が飲めないなんていうのは不幸だ。
それとも、たまに飲むから貴重さがわかるんだろうか?
サンドイッチをぱくつく。おいしい。
全て料理を食べ終えて、席を立った。
「ありがとうございました」
睦月さんがにっこりと笑う。
「では」
そう言って帰ろうとしたのだけれど、なんだか、ふと、楓たちがそこにいたことが、まるで夢であったかのような、そんな気持ちになった。
「ねぇ、睦月さん。楓たちは、確かにいましたよね」
だから、不安になってそうマスターに聞いた。
「うん? いたよ、確かに」
安心した。
楓って誰? と言われたら、それはかなりホラーだったな。と思いながら、僕は店を後にした。
そういえば、彼女に自分の家に来ていいよ、と言ったことがある。
結局のところ、彼女が来る事はなかったけれど。
家に帰ってから、そういう昔のことを思い出した。
自分の部屋に行って、ひきだしを開けて、写真を取り出して、見た。
これはまだ二十世紀のときにとった写真だ。楓が取ろうといったやつ。
二十世紀に取ったってことは、「前世紀の品」ということになるのだろう。
そういうと古い感じがするけど、たかだか数ヶ月前の話。
にっこりと笑う僕と楓。
なんか、彼氏と彼女みたいだ。
…………みたいだっていうか、実際そうだ。
そして、写真の中の僕らはずっと笑ったまま、死んだまま動かない。
別に、手紙を出したってよかったのだ。
恋人と文通っていうのも悪くないじゃないか。
別に、Eメールアドレスをもらったってよかったのだ。
僕は持ってないし、楓が持っているかどうかもしらないけど。
電話番号を教えて、相手からかかるのを待っていたっていいのだ。
電話代がかかるだろうが。
………でも、よくなかったのかもしれない。
手紙代は? 電話代は? 電気代は?
そんなことで親に迷惑をかけるのは好ましくない。
さらに、僕はあまりそれでは満足できないだろうと思う。
手紙やEメールや電話では、実際に楓と会っている気がしないから。
なおかつ、それでどんどんいろんな時間が制約されるのは嫌だ。
それに、じきにだんだんしなくなっていって、最後には音信不通になるというのも虚しいと思った。
いっそずるずる不完全な形で楓をひきずるよりも、いっそあっさり切ってしまった方がよいと思った。
これでもけっこう楓が別れ際に住所教えて、とか言うんじゃないかと身構えていたのだ。しっかりとこっちの心積もりを言わないといけないと思っていた。
教えてもいいけど、頻繁に連絡するつもりはないよ、と言う事を。
そんなことを言いつつ、頻繁に連絡するかもしれないけれど。
正直、『修羅場』も覚悟していた。
だけれど、結局、楓は何も言わなかった。
それでいい。いや。それがいい。
ただ、いざというときの通信手段は残しておいてもよかったかもしれない。
それが心残りと言えば心残りだ。
外に出た。
三時。昼のあたたかみがゆるんで、暑さが、たわんだような時間帯。
とくに行くあてもなく歩く。
眼鏡は家に置いてきた。必要ないと思った。
彼女に関する記憶は、段々消えていくんだろう。
現に今、よく、顔も思い出せない。
段々思い出さないうちに、過去へと変わっていくんだろう。
それでふとたまに思い出して、あんな楽しい事があったな、と思い返すんだろう。
なら、それを防ぐ為に何かで彼女とつながるべきであったか?
どうだろう。
結局、遠く離れたところにいる人は、つながっていても、だんだんと消されていくんじゃないんだろうか。
「去るものは日々にうとし」ということわざもあることだし。
今、この『いま』にいるひと以外は、僕にしっかりとしたものは与えてくれないんじゃないだろうか。
なら、遠く離れたところにいて、手紙なんかでつながっている人は、『いま』にいないのか。それは違う。
だけれど、実体感が喪失している。
いや、もしかしたらそんなのはまったく関係ないのかもしれない。
ただ、僕は生身の彼女に傍にいて欲しくて、傍にいないならいっそいないままにして欲しいと思っているだけなのかもしれない。
不完全なままつながっていても、狂おしいだけだからだろうか?
…………さあ、どうだろう?
公園についた。
楓と最初に会った場所。
広場のベンチに座って、ぼうっとしていた。
写真の中の彼女は生きてはいない。
記憶の中の彼女も生きてはいない。
そしてこの二つはだんだんと劣化していく。
写真は色あせるかもしれない。
記憶は顔すらぼやけてしまうだろう。
鮮明な記憶なんて存在しえないか。
彼女が目の前から消え去った今、生きている彼女には会えない。
もう一度、彼女が目の前に現れない限り。
いや。
唯一、夢の中でなら、鮮明に、いきいきとした彼女に会えるだろう。
記憶が魔法のように鮮やかに色づき、そして物語が紡がれて、そこで僕は踊るはずだ。
夢でなら会える。というよりも、夢でしか会えないのか。
どちらの表現がいいのか、よくわからない。
帰ってくるかどうか、わからない、と彼女は言った。
そうだ。未来はわからない。
帰ってくるかもしれないし、来ないかもしれない。
彼女に言いたいのは、楽しくすごさせてもらって、うれしかったということ。
つまり、ありがとうと言いたい。
彼女との色々なおしゃべりは楽しかった。
彼女とすごした期間はとてもよかった。
ただ、夏休みの終わりから知り合ったから、あまり会ってはいない。
それが少し、残念だった。
あの二人の妹とも仲良くなれたのに……。
もう少し、彼女ともう少し一緒にいられたらよかったのに。
いや。
いつ別れても、別れのときには僕はきっとそう思うんだろう。
いつ別れたとしても、もう少し一緒に……と思うんだろう。
ただ、今はただ、空を見上げる。ああ、今日は空が青い。
いずれ、この感傷も、怒りも、哀しみも、時があっさりと風化させてしまうだろう。
生きているから、変化する心が洗い流してしまうだろう。
そういうものだ。
それが少し悲しくもあり、むなしくもあり。
だけど、大事なことなのかもしれないな、と思う。
さあ、今は春だ。中学校はあと間近だ。
すぎさってしまった昔に今は想いをはせていてもいいだろう。
どうせいずれ消えてしまう感情だ。ならば、今、この感情を大事にしたっていいじゃないか。永遠に持続する感情なんてありはしない。
ならば、その短い間だけ、じっくりとしっかりと、大事に大事に味わったっていいだろう。
終わったんだ。
二十世紀も、楓との日々も。
そして、始まる。
二十一世紀、そして、新しい日々が。
だから、今はただ、きたるべき未来とすぎさりし過去に想いをはせて、空を見上げたっていいだろう。
実に楽しい日々だった。
だから、それが終わってしまうのが悲しくて。
だけど、きっと楽しい日々が僕を待っているんだと思う。
そういうちょっとした願望まじりの期待に、不安。
それから楓のいない空虚感。
そんなものにつつまれながら、今はただ、ゆっくりしていよう。
いずれまた、始まる。
二十世紀は終わったけれど、二十一世紀が始まる。
小学校生活は終わったけれど、中学校生活が始まる。
終わりは始まり、なんていう名文句をふと心に思い浮かべた。
終わりは始まりだ。また、何か新しい事が始まるのかもしれない。
ただ、変わらないでついてくる何かもあるのだろう。
だけど、結局のところ、そんなことはどうでもいい。
ただ、楽しかった。
魔法使いと、最初自分のことを言っていたお姉さん。
友人達。お姉さんの家族。
本当に楽しかった。それで、十分だ。
ふと、紙が落ちているのが目に入った。
ちらしだ。どこかから、春風に吹かれて、飛んできたのだろうか。
ポイ捨てはいけないと思った。
それを折って、飛行機にする。
そう、最初に楓と会った時は、飛行機が最初だった。
そして、二十世紀最後の飛行をしたんだ。
『これを拾った人は幸せになれる』―――――。
あの飛行機は誰か拾っただろうか?
僕は飛行機を手に持って、ゴミ箱に狙いを定めた。
「ゴミはゴミ箱へ―――公衆衛生、守られるべし!」
びゅっ!と飛ばす。
恐ろしいことに、紙飛行機はまっすぐにゴミ箱へと入っていった。
とてつもなく幸先が良い気がした。
「最初飛行、ってとこかな」
そう一人ごちて、僕はほほえみ、家へときびすを返して帰っていった。