最終飛行7章
「二十一世紀だね」
「うん、二十一世紀だね」
そう言って僕らはしばらくぼうっ、とほうけたようにつったっていた。
そうしているうちに、僕の頭に面白い思いつきが浮かんできた。
「楓。キスしよう」
「え……?」
きょとん、としてこっちを見る。
うん、なかなかにかわいいぞ。
「いや、二十一世紀最初のキスってのも悪くないかと思ってね」
ふふっ、と笑ってそう言った。
楓もふふっ、と笑う。
「そうだね。悪くないよね」
そしてそのままキスをした。
しばらくしたあと、お互いにくちびるを離す。
「あー、なんかあったかい……」
へへ、と笑う楓。
「そうだね。あったかいね」
うん、もう二十一世紀だし。
あったかいっていいなあ。
僕は新年を楓と迎えられた事を嬉しく思った。
「あ、そうだ、貴理。実はお知らせがあるんだ」
「お知らせ?」
お知らせってなんだろう?
なんか新年のプレゼントとか?
「実はさ。転校するんだよね、あたし」
瞬間、体感温度がぐっと下がった気がした。
鳥肌までたっているようだ。
「……………は?」
数秒後、やっと出せた言葉がそれだった。
「うん。ごめん。でも、あたし転校するんだ」
「ああ、そうか。そうか……楓は転校するのか」
す、と視線を楓からそらす。
とりあえず、相槌をなにか打たなくちゃ、という妙な義務感から言葉を出したが、まったくもって無意味な相槌だな、我ながら。
せっかく中学校になったら楓と同じ中学校に行けると楽しみにしていたのに。
残念だ。
…………実に残念だ。
「まあ、仕方ないね」
究極のあきらめの言葉を吐いて、楓の方に視線を戻す。
「………………泣くなよ」
「だって………」
「いや、まあ、仕方ないじゃないか」
「でも……でも、いやなものは、いやなの!」
楓の声が少し大きくなる。そしてちょっとだけの沈黙。
「そうだね……」
自分でもびっくりするくらいやさしい声が出た。
っていうかこれ、普通は僕がなぐさめられる方じゃないのか?
まあ……いいか。涙も出ないし。
だけど、表情に出ないからといって、心の中もそうだとは限らない。
僕の場合は、泣く余裕すらないといった方が正しいのかもしれない。
それとも、ただ泣けないだけかもしれないけど。
肩に彼女をもたせかけ、綺麗な夜景を見ながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
「あ、そうだ」
ふと思いついて楓に聞く。
「楓、それ知ってながら僕と一緒にいたわけ?」
「そうだよ。……っていうかそれ以外ありえないじゃん」
まだ涙声のまま、言った。
少しはさっきよりおさまったかな。
ああ……でも、なんかそんなことされると、無性に楓が愛しくなる。
けなげだなあ、とか思ってしまう。
あんまりにうれしいので、うれしさのあまり、ぎゅーと楓を抱きしめたくなった。
だから、それを実行した。
「はぅっ!? ………いきなり抱きすくめられて、びっくりしちゃったよ」
「ごめん。でも、あんまりにも楓が愛しく思えてさ」
ああ、知っててそれでもなお、言わないでおいてくれたのか?
せっかくの初詣だから、その雰囲気を壊したくなくて?
ああ、なんかコイツ、またしゃくりあげてるよ。
「どうした? 楓?」
「だって……だってあんまりうれしくて……」
ああ、そんなこと言われたら、こっちだってますます愛しくなってしまうじゃないか?
「あぅ、貴理……ちょっと、鼻、かみたい」
思わず、ははっ、と笑ってから、楓を離す。
今の台詞、この場面にちょっとそぐわないぞ。
めちゃくちゃ自然な台詞だけどさ。
「それにしても準備がいいね。ちゃんとティッシュ持ってきたんだ。ハンカチなら僕も持ってるけど、貸そうか?」
「だって……絶対……泣くと………思ったから…………、あと、ハンカチ、もらう」
たどたどしい言葉でそう言って、鼻をかんだあと、僕のハンカチで目を拭いた。
「ありがと」
「どいたしまして」
ハンカチを返してもらった。
「貴理―――」
そういって、ぎゅ、と僕に抱きついてくる楓。
「どした?」
「好きだよ。………とっても、好きだよ」
「うん、僕もとっても好きだよ」
そう言って、しばらく僕らは抱き合っていた。
年も明けて、冬休みも明けた。
二十一世紀が始まって、新学期も始まった。
「うーん、三学期ってめちゃくちゃ早いよな! それに、俺たちもうすぐ卒業だから、普通の学年より三学期が短いよな! っていうかそれ以前にもうすぐヴァレンタインだよ、友よ!」
あいかわらず、佐村は元気だ。
僕は今、放課後の誰もいなくなった教室で佐村と話している。
帰りの会が終わったあとの話が長引いているのだ。
ヴァレンタインといえば、こいつの場合、もてるから、もしかしたら本命が舞い込むかもしれない。
容姿、身体能力、知性、どれをとっても一級品なのである、僕のこの友人は。
「いやあ、それにしても今回の理科のテストは百点だったぜ、ふっふっふ……」
「僕もだよ」
ひらひらと理科の試験を見せびらかす佐村に僕のものをつきつける。
「ま、小学校の勉強は楽だからな。中学校はどんなものなのかね、まったく」
そういいながら、さらにテストを出す。
「漢字は俺、苦手なんだよなあ……七十五だぜ」
「僕は百」
ここぞとばかりに我が努力の結晶体を出す。
ばばーん、ってな具合だ。
「ほぅ……頭だけはいいようだな、友よ」
「別に身体能力も悪いわけじゃないんだけど」
身体能力は並だ……と思う。
自分のことは、文化系の人間だと思うけど、一応、運動系のクラブにも入ってたことあるし。
まあ、こいつと比べると、とてもじゃないけど勝てないんだけどね。
「ま、容姿は俺の方が格段に上だしー」
「ふ、人間の魅力は見た目じゃないさ。それ以前に恋人いないだろ」
「まあな。……ってちょっと待て。最後の台詞は聞き捨てならないぞ。お前もいないだろうが……………いや、いない……よな?」
なんだか妙に嬉しそうだな、佐村。
「いたら、どうする?」
「いや、別になんとも」
「そうか。恋人……なのかな、あの子は」
「…………はぁ?」
「まあ、よくわかんないけど、キスする間柄の子はいるよ」
もうすぐ、さよならだけどな。
「はあ!??」
マジでびっくりしたような顔をしてるよ、こいつ。
すると、いきなり佐村は満面の笑みで僕に、
「いやあ、めでたい。っていうかもうファーストキスはすんでしまったのか、おいおいおいおいおい………いやあ、マジでしんじらんねぇ!」
「いや、誰よりも僕自身が信じられないよ」
「いつからつきあってんだ? え?」
「ええっと……夏休みの最後の日に会ったのが最初だな」
自分は魔法使いだ、とかなんとか言ってたっけ。
最初に会ったあの日が、ものすごく遠い昔に思える。
「まあ、とにかくおめでとう」
す、と佐村が手を差し出す。
「うん。ありがとう」
その手を握って、しばらく視線を交差させたあと、
「じゃ、帰るね」
そう言って、彼の手を離して、ひらひらと手を振って教室を後にした。
家に向かって帰る。
今年の二月十四日は水曜日だから、平日だ。
チョコレートなどを渡せないこともない。
まあ、僕としてはいらない。
楓からもなくていい。必要ない。
もらえたら、もちろんうれしいけど。
歩きながら考える。
転校するってことは、楓はどれくらいここにいるんだろうか。
とりあえず、三学期までは、いるんだろうなあ。
僕は六年生で卒業式があって、早めに学期がきりあがるから、楓の見送りにはいけるかもしれない。
泣くだろうか、あの子。泣くだろうなあ。
いや、泣かないかもしれないぞ。いや、わかんないなあ………。
ざく、ざく、と雪を踏みしめながら歩いた。
「あ、貴理!」
僕を名前で呼ぶ人間は限られている。
家族。そして―――
「なんで楓がここにいるんだ?」
道に楓が立っていて、こちらに向かって駆けてきた。
「だって今日試験だったから。早く帰れるんだよ」
そうか。試験の日は早く帰れるのか。
「ねえ、貴理。今度の日曜の午後、空いてる?」
「うん」
僕の休日の予定はたいてい空いている。
小学校の高学年になったあたりから、友達と遊ぶという事が少なくなった。
まして今は冬だ。ますます外に出ることなどない。
「じゃ、家に来ない?」
「うん、いいよ」
「それじゃ、ばいばい」
「うん、またね」
そう言って僕らは別れた。
実に短い会話だった。
ヴァレンタインには、佐村は一つも、もらえなかったらしい。
どうやらこの小学校ではドラマらしいドラマは何一つ展開されないままヴァレンタインは閉幕したみたいだ。
まあ、ドラマなんてそう起こるもんじゃない。
そんなことを思いながら、僕は楓の家へと向かっている。
いや、実に二月というのは寒い。
でも、歩くとけっこう暖かくなるものだ。
階段をあがって、楓の家のドアの横にちょこん、とついているインターホンを押すと、はーい、と機械から楓の声がした。
「あの、貴理ですが」
ですが、とかなぜ敬語口調なのだ、と自分に軽くつっこみをかます。
「あ、貴理? うん、今開ける。待ってて」
しばらく戸の前で待っていると、楓が鍵を開けてくれて、ドアを開けた。
「いらっしゃい」
「おじゃまします」
なにかよくわからない、友達の家に入るときに感じる、照れというか緊張というか、そういったものを感じながら僕は家に入った。
「あ、コートはそこにかけといてくれればいいから。……っていうかあったかそうだねぇ」
楓が僕のコートを見て言った。
「うん、実際あったかいよ」
てこてこと彼女についていく。
うん……? 二月の休日だっていうのに、誰一人として家にいないのはどうしてだ……?
「ねえ、なんで人がいないの?」
「ああ、ちょっとみんな忙しくてね」
何がどう忙しいのかわからなかったが、さして重要な事ではないので聞かないでおいた。
そして僕はとても重要なことに気付いた。
楓と僕がこの家の中で二人きりだということに。
なぜかしらそれを意識したとたん、ちょっぴり鼓動が早まって、血の巡りがよくなった気がする。
「ほら、寒かったでしょう? ストーブにあたりなよ」
「ああ、ありがと」
ああ、ストーブあったかい……。
「なんか食べる?」
楓は座らずに、立ったまま、僕にそう聞いた。
「いや、別に何も食べなくてもいいよ」
「じゃあ、食べなくてもいいけど、食べてもいいの?」
「うん、まあ、いいよ」
それを聞くと、楓はどこかに姿を消した。
しばらくして戻ってくると、クッキーを皿にいれて戻ってきた。
クッキーを箱のまま持ってこずに、皿にいれて持ってくるというのには何か意味があるんだろうと思った。
僕がお客様だからかな?
やはり、女の子の方がこういうことをするのは多いんだろうか?
少なくとも男でこういうことをするやつは今までみたことがない。
いや、見たことがないだけで、するやつはいるのかもしれないが。
やっぱり男と女ってのは思考なんかも違うのか?
それとも、習慣の違いか?
まあ、そんなことはどうでもいいか。
今大事なのはこのクッキーがおいしいということだ。
「これ、おいしいね」
「ありがとう。あたしが焼いたんだ」
意外だったので、思わずクッキーを吹き出しそうになった。
なるほど、それなら箱ごと持ってくることなんてできようはずはないな。
「ちょっと遅れちゃったけど、ヴァレンタインだよ。あ、牛乳もってくるね」
嬉しさと恥ずかしさのためか、ほんのり頬を紅くして彼女は牛乳を取りに行った。
うわあ、今の顔、かなりかわいかった。やっぱり恥じらいっていうのはかわいいものだなあ。とそんなことを思ってしまった。
じき、楓が戻ってきた。
ストーブであたたまった部屋で、楓の作ったクッキーと冷たい牛乳を飲む。
平和だ……実に平和だ……。
「ねえ、貴理」
「なあに?」
ちょっと顔をふせて、楓が言った。
ちょっと波打っている黒髪がきれいだ。
「たぶん、出かける当日は、色々忙しいから、見送りとかできにくいと思うんだ。だからさ、その前日あたり、会えないかな?」
「もちろん会えるよ」
「うん、それじゃあ会おう?」
「うん」
やさしい沈黙が部屋におりて、クッキーを食べる音がしばらく続いた。
それから、再び僕らは話し出した。
次はいつ会おう、とか、学校にはこんなやつがいて、とか、最近こんなことがあったよ、とか、転校したらどういうところにいくことになるの? とか。
そういう身近なところの話のネタがつきたら、時事問題に話がうつったり、どうでもいいところからネタをひっぱってきて話したり……。
そうやってしばらく話していると、あっという間に時間がすぎてしまって、牛乳もクッキーもなくなって、空が夕暮れになってきた。
夕日に楓の髪が恐ろしく映えている。
なんだかそれを見ていると、どうしようもない気持ちになって、そのまま楓を抱きしめた。
しばらくそれを続けていた。
ただそれだけで幸せな午後だった。
この平和を破るものなんてどこにも存在しないと思った。
がちゃ。
だけれど、あるのだ。
平和を破るものなんてそこらじゅうに。
だから―――だから、なんだろう?
とにかく、楓の家のドアが僕らの平和を破ったのは確かだ。
がちゃ、という音で僕は楓をはなした。
僕らは二人ともが、僕らが今いる、リビングのドアを見た。
双子の妹が入ってきた。
『あ……』
双子が二人とも同じ音を同じときに出した。
『いやらしい……』
なにがだ、おい。
しかも二人の声がまた重なってるし。
「ああぁ、お姉ちゃんったら自分の男を家の中に連れ込んじゃってまあ、最近の子ときたら節操ってもんが無いんだから」
かずは、その言葉には少なからず語弊があるぞ。
「まったくだよね、かずは。二人っきりで一体なにやってたのかしら、って感じだよねー?」
こういうことになると意気投合するな、この双子は。
「いや、なにってただ招かれて、クッキーと牛乳を食べて、おしゃべりして、夕日に当たってる楓を見ているうちになんかすごく愛しくなって楓を抱いただけだよ」
『あら、まあ……!』
口に手をあてた同じポーズで同じ言葉を口にする。
「貴理、言葉が足りないよ! かずは、ふたば! わたしたちはただ抱き合ってただけなんだからね! それ以上は何も無いんだからね!」
『ふぅ……ん』
やっぱりねぇ、つまんないな、と二人がそれぞれの感想を口にする。
かずは、これは面白いつまんないの問題じゃないと思うんだけど……?
まあ、いいか。
この二人といるのもあと少しなんだ。
なんかそう思うと、こんなことでさえ楽しく思えてきた。
結局、その日帰ってきたのは午後六時くらい。
まあまあの時間帯だ。
ご飯を食べて、宿題をやって……さあ、自由時間だ。
適当に本を読んでもいい、テレビを見たっていい、テレビゲームをしてもいい・・・
いや、テレビゲームは持っていないのだけど。
でも、なにもしたくなかった。
ただ、楓のことだけが、ぽつりぽつりと浮かんできた。
すごく早い時間だったけれど、寝る事にした。
「ねぇ、貴理。わたしもう行かなくちゃ」
そんなことは知っているのに。
わざわざ言わなくても、君が転校するって事は知ってるのに。
「でも、わたし逃げるね」
なに?
僕はびっくりしたが、その言葉の意味するところをはっきりとわかっていた。
「つまり、転校しないってことだよね?」
「もちろん! 逃げるんだから当然だよ。それで貴理とずーっと一緒だよ」
「あはは。それは凄く楽しそうだね!」
「うん、きっとそれは凄く楽しいよ!」
ただのなんでもない会話なのにおそろしいくらいに心が幸せだった。
はっきりいって、この世の不幸なんて頭の中からきれいに消し飛んでいた。
その後も、公園で話したり、楓の家に行ったり、そうそう、かずはとふたばにも会ってきた。
お姉ちゃん脱走するんだー、とかなんとか言っていた。
実に幸せだった。
そして楓がこっちを見て言うのだ。
「ずっと一緒だよ、貴理」
という夢を見て、おそろしいくらいにはっきりと目が覚めた。
一、二秒後、僕は夢の中に戻っていきたいと強く願って再び目を閉じたが、いやになるくらいはっきりと頭は冴えていて、眠るどころではなかった。
普通の学校のある日にはなかなか起きないで、眠りの世界にまた戻るっていうのに、こういう風に夢の中に戻りたい時に限って戻れないのだ。
腹が立つ。
だけれど、現実に連れ戻された以上、僕は起きる。
眠りたくても眠れないのだったら、僕は起きてやる。
それに、ただ布団の中にくるまっているほど、まだ僕は現実に見切りをつけちゃいなかった。
つまり、布団にくるまっているよりも、現実に起きだしたほうがまだマシというわけだ。
ただ、ひどく現実世界が寒く思えた。
あたたかい夢の世界からはじきとばされた気がする。
だが、寒く思えたのは、どうやら心のせいだけではないようだ。
実際に夜明け。一日のうちにもっとも寒い時間帯のはずだ。
四年生だったかの、気温のグラフで見たときはそうだった気がする。
ただ、寒いのは寒いのだが、空気だけはひどくきれいだった。
おそろしく澄んでいる。冴えわたり、白青くある空気だ。
東の空が、少し青みをおびている。
いろいろなものに邪魔されて、僕は太陽を見ることはできない。
ただ、空が青々と染まっていくのだけが見える。
しかし、別にそれを不幸だとは思っちゃいない。
むろん幸福だとも思ってはいないが。
窓を開けた。
ひどく寒かったので、すぐ閉めた。
あたたかく(といっても外の空気とくらべてという意味だ。十分に寒い。だって二月だよ?)、空気の停滞したこの部屋に少しばかりの量の日本刀のような空気が入ってきた。 なぜだが、ちょっとだけ気合と希望が心に灯った。
僕はストーブのコンセントを入れて、スイッチを押して、点火を待った。
その間、また布団にくるまって。
ストーブをつけたので、寝るのはよくないと思って、うつぶせに寝転がって点火を待った。
それからなんどか楓に会いながら、(たまには、かずはとふたばにも会いながら)僕は小学校六年生を過ごした。
そして今は公園。
卒業式。
それを思い返しながらベンチで僕は楓を待っている。
一張羅を着こんで、僕は卒業式に臨んだ。みんなもそれなりの晴れ着を着ていた。
そこでは僕たち六年生は主役で、一人一人名前を呼ばれて、卒業証書を受け取った。
泣いている子たちもいた。女の子しか泣いていないのが奇妙にも、自然なことにも思われた。
来ている親の中にも泣いている人が大勢いた。
僕は別に悲しくもうれしくもなく、ただ、卒業するんだと思っていた。
佐村がちょっと声をかけてきた。
「じゃ、またな」
そして彼は親と一緒に歩いていった。
そうだ。彼とは中学校が一緒だから、またな、なのだ。
……………楓と違って。
そして、僕は母親と一緒に、何度もくぐったけれど、もうこの小学校生徒としてくぐることはない校門をくぐって、外に出た。
そんなことを思い出していると、貴理、と言って楓がやってきた。
三月の中盤をちょっとすぎたくらい。もう小学校の六年生以外も春休みになっているころだ。そして楓も春休みだ。
彼女は紺のリボンのついた例の麦藁帽子と、黒いロングコートを着ていた。
最初に会った時と、似ている服装だ。
そう、そして僕は楓から貰った、あの赤いリボンの麦藁帽子をかぶっている。
お互いが麦藁帽子をかぶっているのは、別にしめしあわせていたわけじゃなくて、ただの偶然。たまたまお互いが同じことを考えていたというだけ。
それがとても嬉しかった。
「楓、おはよう」
「おはよう、貴理」
そのまましばらく無言。
それから楓がいった。
「さよなら、だね」
思っていたよりもその言葉は僕の心にざくり、とささった。
不覚にも泣きそうになった。
でも泣かない。
「うん、そうだね」
いや、でも泣きそう。
「あはは。貴理、泣いてるの?」
「泣いてない」
「声がちょっとつまってるし、目に涙うかべてるし……かわいいなあ」
楓からかわいいなんて言われたことは無かった。
だけどけっこううれしい。うれしかったから、そのまま言葉が出ない。
「こらこら、泣かないの。別れがつらくなるでしょ」
そう言って、ちょっと彼女は背をかがめて、僕の涙をぺろっと舐めて綺麗にしてくれた。
大胆だなあ。
「もう……貴理が泣くから……ちょっと、泣けてきちゃったじゃないのよ」
つうっ、と楓のほほに涙がすべった。
まだあふれてきそうだったから、僕は伸びをして、楓がしてくれたみたいに、ぺろっ、と彼女の涙をなめた。
しょっぱかった。
まだ、少し心が哀しみに壊れそうだったけど、涙は止まった。
楓も止まったみたいだ。
「ねぇ、貴理」
ベンチに座りながら、彼女は言った。
僕もベンチに座る。
「好きだよ」
「うん、僕も好きだよ」
「でも、どんなに好きだっていってもあたしの転校は変えられないよね」
「………そうだね」
ちょっと悲しいことを言ったので、少し言葉が出るまでに時間がかかった。
僕が答えた後、楓はさらに続けた。
「どうしてもかなわないことってあるよね」
「あるね」
「あーあ……まいっちゃうね」
「まいっちゃうね」
馬鹿みたいに楓の言葉を繰り返す。
「でも、愚痴言ってもしかたないし、希望を持って生きてかなきゃ駄目だよね」
「……………そうかもしれないね」
僕には希望を持って生きていかなきゃ駄目なのかどうかわからなかった。
別に持っていなくてもいいような気もした。
「一杯楽しいことしたね。楽しかったよ」
「うん、僕も」
僕がそう言ったら、彼女は僕の麦藁帽子をとりあげた。
そしてかわりに彼女の麦藁帽子を僕にかぶせる。
「こっちがブルーになりそうだから、赤いのもらうよ」
そう言って、一歩さがった。
「ばいばい」
「またね」
また会いたかったから、その希望をこめて、僕はまたね、と言った。
「さよなら」
でも、彼女は、「またね」とは返してくれなかった。
「また、会いたいから、またね、って言ったんだよ」
言って欲しい、という意味をこめて、そう言った。
「さようなら」
それでもかたくなに彼女はそう言った。
そして、麦わら帽子を脱いで、僕を急に抱いて、キスをした。
それから彼女は、もう一度麦藁帽子をかぶりなおして、ひらひらと手をふって去っていった。
僕は何も言えず、ただ彼女、一度も僕の方を振り返らなかった彼女を見えなくなるまで見送った。
それで終わり。
あっけない、僕らのお別れだった。
そして僕はどうしても頭から離れないのだ。
彼女が、かたくなにさよならと言いつづけたことが。
僕がまた会いたいからと言ったのに、またねと言わなかったことが頭から離れない。
別に怒っていない。ちょっぴり悲しい、さみしいかなとも思うけれど、大した事は無い。別にいいかという気がする。
ただ、かたくなに彼女がまたねと言わなかった、その姿勢が僕に強く印象づけられて、僕の記憶に残っている。
なぜ言わなかったのか、それは彼女でないからわからないけれど、ただそれが深く印象に残っている。
そしてもう一つ。
別れの場面の、黒いコートにあの麦藁帽子の赤いリボン。
それがどうにも目に焼きついて、はなれない。