婚約破棄を願う令嬢が望まぬ結末に至るお話
「ルインフォーラ、そう落ち込まないでくれ。僕もついている。きっとこれから上向きになるさ」
レストレンド・サーディズンは、悲し気に俯く婚約者に優しい声をかけた。
貴族の通う魔法学園。食堂には予約制の個室がいくつかある。この個室には音消しの魔法がかけられており、専ら婚約関係にある子息と令嬢が過ごすのに使用される。
周りからの騒音から遮断されたその中では、二人の学生が席に着き、沈痛な空気を作っていた。
男の名はレストレンド・サーディズン伯爵子息。鮮やかな金髪に精悍な顔。意志の強そうな瞳の色は青。身体はやや細めながら、その体つきはがっしりとしており、優男と言う印象は無い。
彼は目の前の婚約者を心配そうに見つめている。
令嬢の名はルインフォーラ・カティストゥルフ子爵令嬢。光を跳ねて輝く鮮やかな銀の髪。大粒の瞳の色は灰色。その身体は細く、扱いを間違えたら折れてしまいそうに思えるほど細い。ガラスの彫刻を思わせる美しい令嬢だった。
彼女はどこか緊張した面持ちで、テーブルの上のティーカップに視線をじっと見ている。
黙りこくるルインフォーラに声をかけはした。だがレストレンド自身、自分の言葉が空虚な気休めに過ぎないことはわかっていた。
ルインフォーラの実家であるカティストゥルフ子爵家は、今まさに没落の危機にあった。
カティストゥルフ子爵家は堅実に領地を経営してきた。だが、不幸が続いた。
天候に恵まれず、領地における農業で不作が続き備蓄が尽き、他の領地から農作物を買いつけたこと。魔物の増加により、その対応に追われたこと。それらに伴う領地内の治安の乱れに労力を割かれたこと。
ひとつひとつは対処に困るようなことではなかった。だが細かく連続して起きた小さな不幸は、やがて積み重なってカティストゥルフ子爵家を傾ける事態にまで至った。
この個室での時間は婚約者の義務としての面会だ。いつもは穏やかに過ごせた個室は、いまはただ、重い空気が支配していた。
しばらく沈黙が続いた。気まずさにレストレンドがティーカップを手に取ろうとしたところで、ルインフォーラはようやく顔を上げた。
「レストレンド様、お願いがあります」
ルインフォーラはそう言うなり、レストレンドの右手を両手で握りしめた。うるんだ瞳でじっと彼のことを見つめた。その頬は赤く染まっている。
こんなことは初めてだった。
ルインフォーラとは5年前から婚約関係にあった。物静かで、あまり感情を表に出さない令嬢だった。話せば応えるが、自分からはあまり話を振ろうとしない。そんな控え目な令嬢だった。
おとなしい婚約者のことを、レストレンドは大切にしようと決めていた。ガラスでできた精緻な彫刻のような、儚くも美しいこの令嬢のことを、自分が守らなければならないと思っていた。
だが今、目の前にいるルインフォーラは、普段の彼女ではなかった。手から伝わる熱い体温。染まる頬。うるむ瞳。吐息すら悩ましい。今の彼女は冷たいガラスの彫刻ではなく、熱を持った魅惑的な乙女だった。
この状況で願い事と言われて思いつくのは色仕掛けだ。窮状に苦しむカティストゥルフ子爵家は、レストレンドの伯爵家との婚約を失うわけにはいかない。ルインフォーラは家のために、自分の身体を差し出す覚悟を決めたのかもしれない。
そんな申し出を受け、彼女を守ると決めた自分はどうしたらいいのか。どうするのが正しいのか。
いや、そもそもこの個室は不埒な行いをすると警報を発する魔法がかけてある。ルインフォーラがそんなことをするはずがない。
いったいどういうことなのか。レストレンドはごくりと生唾を飲み込んだ。
そして、彼女は願いを告げた。
「どうかわたしとの婚約を破棄してください」
思いがけないその言葉に、レストレンドは冷や水を浴びせられた思いだった。熱にうだった頭が一瞬で冷えた。
彼女のその言葉に込めた覚悟は本物だった。
身を差し出して没落しつつある自分の家を救おうだなんてとんでもない。ルインフォーラは、レストレンドを巻き込まないために身を引くつもりなのだ。
なんと高潔な令嬢なのだろうか。
レストレンドは己を恥じた。
必死の覚悟を固める令嬢相手にみだらな考えを抱くなど、貴族として恥ずべきことだった。
ルインフォーラの手をぐっと握り返すと、レストレンドは力強く言い放った。
「心配することは無い! 君の家をみすみす没落させたりしない! 僕に任せてくれ! 父を説得して必ずこの危機から救って見せる!」
「そんな……もったいない言葉です。わたしのことなど、見捨てしまってください」
ルインフォーラは顔を伏せた。
こちらの差し出した救いの手にすがろうとすらしない奥ゆかしい姿。レストレンドは彼女のことが愛おしくてたまらなくなった。
「なにを遠慮することがある? 僕たちは結婚するんだ。生涯の伴侶のために力を尽くすのは当たり前のことだろう?」
「そこまでしていただくことはできません」
「心配することは無い! 君のことはきっと、幸せにしてみせる!」
「わたしのことを想ってくださるのなら、婚約を破棄してください!」
「え?」
「婚約を破棄して、どうかわたしを『破滅』させてください!」
「は、『破滅』? 君はいったい何を言っているんだ?」
どうにもかみ合わない。
レストレンドは彼女を救おうと、語るたびに熱が高まっていく。それなのにルインフォーラの方は、言葉を重ねるたびに熱が冷めていくようなのだ。
しかも言っていることがおかしい。
レストレンドは一度状況を整理することにした。
「……君の望みはいったいなんなのだ?」
「わたしはただ、あなたに婚約破棄されて『破滅』したいだけなのです」
レストレンドは困惑した。ルインフォーラの瞳は真剣だった。嘘を言っている様子はカケラも感じられなかった。
ただその言葉の内容だけが理解できない。戸惑いは深まるばかりだった。
「すみません……かねてからの望みが叶いそうになり、つい昂ってしまいました……」
ルインフォーラは繋いでいた手を離すと、胸にその手を当てて何度か深呼吸した。
それで落ち着いたのか、静かな声で語り始めた。
「順を追ってお話します。わたしは恋愛小説が大好きなのです」
「……ああ、それは知っているよ」
学園での授業の合間。ちょっとした待ち合わせの時間。ルインフォーラは時間が空くといつも本を読んでいる。聞いてもその内容は話してくれないが、背表紙やタイトルから恋愛小説だということだけはわかっていた。
しかし、レストレンドから話を振ってもあまり語ろうとはしなかったのだ。趣味には触れてほしくないタイプなのかと、気になりつつも踏み込まなかった。まさかこのタイミングで自分から語りだすなんて思わなかった。
「恋愛小説のなかでも婚約破棄ものの小説が好きなのです。特に婚約破棄の瞬間が好きで好きでたまらないのです。何の落ち度もないヒロインが、理不尽に婚約破棄を突きつけられるあの瞬間の輝きにどうしようもなく魅せられてしまうのです。
気に入った作品の婚約破棄の場面は、時間があれば何度も何度も読み返します。何度目だろうと、あの瞬間の輝きが色あせることは無く、常に燦然とわたしの胸の内を照らすのです」
レストレンドもそうした小説は知っていた。ルインフォーラが恋愛小説が好きなようだったので、話のタネになることもあるかと思い何冊か読んでみた。女性向けの小説だから自分には合わないと思っていた。だが読んでみると、ドラマチックで読みごたえがあり予想外に楽しめた。
だから流行りの婚約破棄物についてもそれなりに知っていた。貴族令嬢であるヒロインが、愚かな婚約者から突然婚約破棄を突きつけられる。悲しみにくれるヒロインは新しい縁談で良い出会いに恵まれ新たな愛を見出す。一方、愚かな婚約者はその愚かさに見合う報いを受ける。そういう筋立ての物が多いらしい。
令嬢たちにはこの報いを受ける場面が人気だと聞いていた。それなのにルインフォーラは物語の始まりである婚約破棄の場面が好きだという。それもここまで入れ込んでいるなんて、少々変わっているように思えた。
「そんな輝きに比べ、わたしの人生は実に素朴で暗いものでした。子爵家の令嬢として生まれ、特に不自由もなく育てられました。あなたという婚約者にも恵まれました。上位の貴族との婚約が組まれるなんて、光栄なことです。誰が聞いて幸せな人生だと感じることでしょう。
ですが、婚約破棄の鮮烈な輝きに魅せられたわたしには……なにもかもが色あせて感じられるてしまうのです……」
『現実と小説を混同するな』
そんな常識的な指摘が喉元までせりあがる。だが、口に出すことはできなかった。
語るうちにルインフォーラはぽろぽろと涙を零し始めたのだ。レストレンドは初めて見た婚約者の涙にうろたえてしまい、口を挟むどころではなくなってしまった。
言ってる内容については色々と思うところはあったが、彼女が本気で嘆いていることだけは間違いないようだった。
「そして、カティストゥルフ子爵家は没落の危機を迎えました。それすらも劇的な展開などひとつもありませんでした。小さな不幸が積み重なり、いつの間にか身動きがとれなくなりました。白アリにいつの間にか侵された家屋のように、ただ当たり前に倒れようとしているのです。わたしの人生に、特別で劇的なことなに何一つないのだと、絶望しました……」
そう言って、ルインフォーラは顔を伏せてしまった。彼女に握られた手から、小刻みな震えが伝わってくる。ぽたぽたと涙がテーブルにこぼれるのが見えた。
彼女は本当に嘆き悲しんでいる。しかしレストレンドは悲しい気持ちになれなかった。ルインフォーラの悲しみの原因があまりに特殊過ぎて理解が及ばず、戸惑うばかりだった。
どうしたものかと悩んでいると、ルインフォーラは唐突に顔を上げた。レストレンドを見つめる瞳はどこまでも真剣だった。
「そこで婚約破棄してほしいのです。家の窮地である今、婚約破棄されて『破滅』する。そうすれば、わたしの人生は初めて輝きを放つのです。だからお願いします。わたしのことを思ってくださるのなら、婚約破棄を突きつけてください……!」
ぎゅっとレストレンドの手を握り、ルインフォーラは一心に訴えた。
言っていることはなにもかもおかしいが、本気であることだけは確かなようだった。
レストレンドは慎重に言葉を選びながら、ルインフォーラに現実を伝えることにした。
「今、伯爵家との婚約関係が無くなれば、君の子爵家は周囲の貴族からの信用も失うことになる。そうすれば子爵家の没落は免れないだろう。君だけじゃない。一族が路頭に迷うことになる。領民の暴動の標的となり、無残な死を迎えることだって珍しい話じゃない。
小説とは違うんだ。『破滅』の先に救いは無い。君は自分の命が惜しくないのか?」
レストレンドも何もしなかったわけではない。なんとかカティストゥルフ子爵家のことを救えないかと、自分なりに少しは調べていたのだ。
その過程で知ったのは、没落した貴族の辿る悲惨な末路の数々だった。ルインフォーラに考え直させるためにも、あえてキツい結末を伝えた。
だが、ルインフォーラはまるでひるまなかった。
「このまま大きな不幸のない色あせた人生を送るくらいなら、一瞬でも輝ける鮮烈な体験をして『破滅』したい。
それだけが、わたしの望みなのです」
ルインフォーラはためらうことなくそう言い切った。
もう完全にレストレンドの理解を越えていた。
おとなしい令嬢だと思っていた。ガラス細工のように繊細で儚い娘だと思っていた。
その胸の中にまさかこんなにも異常で情熱に満ちた願望があるとは思いもしなかった。
レストレンドは今度こそ本当に言葉を失った。
ルインフォーラはそんな彼のことをしばらく見つめていたが、やがて何かに気づいたようにハッとした。
「……失礼しました。どうやらわたしは、少し急ぎ過ぎたようです。今日はこれで失礼いたします」
そう言って、ルインフォーラはハンカチを取り出し涙を拭き取ると、手早く身支度を整え去ってしまった。
レストレンドは引き留めることすらできなかった。しばらくの間、ただ茫然としていた。
「先日は大変失礼しました」
一週間も経った頃。レストレンドとルインフォーラは、学園内の食堂の屋外テラスに着いていた。
前回使った個室は予約が詰まっており、そう自由には使えない。定期的な婚約者の義務としての面会のために予約はとってあるが、その日はまだ先だ。
屋外テラスは席の間隔が大きく開いており、大声で話さない限り隣に聞き取られることはあまり無い。
密談をするなら個室の方が適している。だが二人っきりの密室であんなルインフォーラと話をするのはちょっと怖い。そういう意味ではちょうどいい場所ではあった。
レストレンドとルインフォーラの逢瀬は、まず彼女の謝罪から始まった。
「あのときは家が大変なことになって気が動転していました。お恥ずかしい限りです……」
そう言って恥ずかし気に俯くルインフォーラ。俯きに合わせてさらりと涼やかに銀髪が流れる。その儚げな様はレストレンドのよく知る婚約者の姿だった。
レストレンドには呑み込み切れないものがあった。あのときの彼女はむしろ、見出した真実にまっすぐに突き進んでいるように見えた。それは動転とはまるで逆の、迷いのない姿だった。
だが、こうして反省の意を示し、顔を俯かせたままの令嬢の姿を見ると、罪悪感が湧いてくる。
ルインフォーラは美しい令嬢であり、レストレンドの婚約者なのである。
「……わかった。僕は別に怒ったりしていないよ。だから顔を上げておくれ」
「はい、ありがとうございます……」
顔を上げると、儚げな笑みを浮かべたルインフォーラと目が合った。それはレストレンドのよく知る顔だった。
あれはやはり、一時の気の迷いだったのかもしれない。レストレンドはそう思うことにした。
「レストレンド様。突然ですが、あなたにご紹介したい令嬢がいるのです」
「紹介したい令嬢?」
ルインフォーラはすっと手を上げた。
すると食堂の一角から、ぱたぱたと小走りにやってくる令嬢の姿があった。
制服のリボンの色からすると同学年の少女だ。小柄だった。同学年と言うより、この学園に入学する前の令嬢のような印象だ。
肩まで届く艶やかな黒髪。大粒の青の瞳のかわいらしい令嬢だった。
「こちらは男爵令嬢マシェマティア・スタディグッドです」
「よ、よろしくお願いします」
「僕は伯爵子息レストレンド・サーディズンだ。よろしく頼む」
男爵令嬢マシェマティアは大げさなくらい頭を下げた。
レストレンドは席に着いたまま挨拶を返す。爵位が下の者の挨拶に対し、わざわざ席を立ったりはしない。貴族としては当たり前の作法だ。
マシェマティアはその後も何度もペコペコと頭を下げた。随分と生真面目な性格のようだ。
その素朴な様子は好ましく感じられた。だが今日この場で紹介される理由はまるで思いつかず、首を傾げてしまう。
その疑問を察したように、ルインフォーラは説明を始めた。
「わたしがおかしな言動に駆られてしまったのは、家の財政状況が厳しいためです。その詳細を知らないからこそ、余計に不安な気持ちになってしまったのです。
知らないことで不安になるなら、知ることで不安が解消されるはず。そう思って、こちらのマシェマティア嬢に相談を持ち掛けたのです」
「は、はい! 私は数学が好きで、領地経営の書類も少しはわかるのです!」
「マシェマティア嬢は謙遜していますが、その知識は確かなものです。彼女の助力を得て、カティストゥルフ家の状況について理解を深め、少しは対策も思いつくようになってきました。そこで、レストレンド様にご相談があるのです。
いっしょに領地経営について学んでいただけませんか? 婚約者であるあなたがいっしょに不安を分かち合っていただければ、もっと安心できると思うのです」
レストレンドは衝撃を受けた。
ルインフォーラの家のことを案じていた。だが所詮は学生の身、できることなどないと諦めていた。
しかし、ルインフォーラは違った。力が足りないとあきらめず、学んで力をつけながら、自分にできることを模索しているのだ。
儚い令嬢には似つかわしくない、なんと前向きな取り組みだろう。
先日、婚約破棄を願われたときはどうなることかと思った。だがどうやらカティストゥルフ子爵家の危機は、ルインフォーラにいい変化をもたらしたようだ。
「ああ! ぜひとも一緒に学ばせてほしい!」
レストレンドは快諾した。
そして、三人の領地経営の勉強会が始まった。
主に放課後、三人で集まり、集めた様々な資料を検分して領地経営への理解を深めていく。
領地経営について、授業である程度は学んでいた。レストレンドは成績のいい優秀な生徒だった。しかし実地の資料から状況を読み取るとなると、次元の違う難しさがあった。
例えるなら馬術だ。練習場でいかに上手に乗りこなせたところで、馬で遠方まで旅できるかといえばそんなことは無い。基礎的な技術は同じでも、要求される知識や判断は別物となる。それと同じようなことだった。
レストレンドとルインフォーラの二人だけで挑んだら、その難しさに挫けていたかもしれない。
だがマシェマティアの助力のおかげでなんとか学んでいくことができた。
ルインフォーラが評した通り、マシェマティアは数学に秀でていた。複雑な計算もほぼ暗算ですぐに答えを出した。何より、数字から状況を読み取る能力に長けていた。
ある領地の数年分の収穫物の資料を見ていた時の事。マシェマティアは収穫量の変化から、局地的な川の氾濫があったことを読み取った。その領地の過去の記録にあたってみたところ、彼女が想像した通り、実際に川の氾濫が起きたことが分かった。
週末に時間が取れれば、カティストゥルフ子爵家に赴き、実際の領地経営の資料を見せてもらった。いかにルインフォーラの実家と言えど、学生の身で閲覧が許されるものは限られてくる。しかし実際の領地経営で使われている資料から学べることは多かった。
そうして学んでいくうちに見えてきたことは、カティストゥルフ子爵家は危うい状況にあるが、致命的なところには至っていないということだった。
カティストゥルフ子爵家が財政的に厳しくなったのは、農耕の不作が続いたこと、魔物の出現数の増加などが一時期に集中して起きたためだ。
だが、子爵家はそれまで実に堅実に領地経営を続けてきた。土台がしっかりしている。今の難局を乗り切れば、十分立て直せる。再び安定した状態に戻れば、大きな利益を見込めることがわかってきた。
そして難局を乗り切る鍵は、やはり資金だった。
「父上。報告したいことがあります」
レストレンドは学んだ成果を父に報告した。これまでの領地経営の勉強会で調べ上げたカティストゥルフ子爵家の状況。それが資金援助によって回復しうることを熱弁した。
所詮は学生の身で調べたことだ。伯爵として長年領地を治めてきた父には通用しないだろう。それがわかっていてもなお、希望が見えているのに何もせずにはいられなかったのだ。
「……驚いた。お前たちが独力で私と同じ結論に至るとは思わなかったぞ」
「同じ結論……?」
「その通りだ。私の調べでも、カティストゥルフ領は今の苦境を乗り切れば将来的には大きく発展すると見ている。伯爵家としても援助は惜しまないつもりだ。そのための大事なつながりだ。ルインフォーラ嬢との婚約は大切にしなさい」
そうきっぱりと告げられて、レストレンドは脱力した。父はすべてをわかっていたのだ。
「僕たちの心配は杞憂に過ぎなかったのですね……」
「その若さで私と同じ結論にたどり着けたのだ。大したものだぞ」
「そんな……僕の力だけでは、とてもここまでできなかったでしょう。勉強会を提案してくれたルインフォーラと、それを支えてくれたマシェマティアのおかげです」
「ルインフォーラ嬢はいい伴侶になってくれるだろう。それにマシェマティア・スタディグッド男爵令嬢か。随分と優秀な令嬢のようだな。覚えておこう。
貴族にとって人との縁は重要なものだ。大切にするといい」
レストレンドの胸は温かな思いに満たされた。
カティストゥルフ子爵家の没落はほとんど心配は無くなったが、領地経営の勉強会はその後も続けることにした。将来の役に立つことだし、三人とも学ぶのが楽しくなっていたのだ。
だが、いいことばかりではなかった。
領地の状況に詳しくなり、ルインフォーラ自らが金策や事態の対応に奔走するようになった。三人の勉強会のはずだったのに、ルインフォーラを欠き、レストレンドとマシェマティアの二人きりとなることが多くなった。
そんなある日の事だった。
「……ルインフォーラは領民への税率の調整の話し合いに行ったそうだ。急に決まったことで、夜まで帰ってこないらしい」
週末、ルインフォーラの実家、カティストゥルフ子爵家の一室。
今日は三人でカティストゥルフ子爵家の資料をもとに改善策を検討する予定だった。
レストレンドとマシェマティアは時間通りに集まったが、ルインフォーラは欠席となってしまった。
「残念ですが、仕方ありません。私達で調査を進めて、ルインフォーラ様を驚かせてあげましょう!」
「はは、頼りにしているよ」
カティストゥルフ子爵家の領地経営の資料は何度も見せてもらった。だが所詮、見ることができるのは許可されたものだけだ。それでもその内容を知り尽くせてはいなかった。
領地に関する資料は膨大な量があり、見えてくるものが違ってくる。調べるたびに様々な発見があった。
今探っているのはこの危機の根本原因だ。カティストゥルフ子爵家が危機に陥ったのは、不作とモンスターの増加だ。それらについてもっと事前の対策を整えることができれば、同じことが起きるのを防げるかもしれない。
所詮学生の考えることだ。実際の領地経営では役に立たないだろう。それでも何かの足しになるかもしれない。
ルインフォーラのために少しでも力になれるなら、それは素晴らしいことだ。そう思うと、自然と熱が入った。
資料を検分しながら、意見を交換し合う。そうして一時間も過ぎた頃のことだった。
不意にマシェマティアが首元のボタンを外していった。首から胸元にかけての肌があらわになった。
婚約者のいる上位貴族の前で断りもなしに肌をさらすなど、令嬢としてあるまじき不作法だった。
レストレンドは咎めるべきだった。しかし彼は今、何も言えなかった。ただ吸い込まれるようにその白い肌を見つめていた。
その視線に気づき、マシェマティアは真っ赤になって胸元を隠した。
「な、何だか暑かったもので……見苦しいものをお見せして申し訳ありません!」
「い、いや。こちらこそ、不作法な視線を向けてしまった。すまない」
二人して真っ赤になって視線を逸らす。
今まで資料を見るのに集中していて意識していなかったが、言われてみれば随分と暑く感じられる。自分もかなり汗をかいていることに、レストレンドはようやく気づいた。
「確かになんだか暑いな……今日は大して気温は高くないはずだが……」
「ほら見て下さい、私こんなに汗をかいてしまっています」
そう言ってマシェマティアは胸元を見せた。仄かに赤く染まった滑らかの肌の上を、汗の一粒がつうっと服の下に滑り落ちるのを見た。レストレンドはその行く先を確かめたくてたまらなくなった。
愕然となった。そんなことを考えることなんて、初めてだったのだ。
明らかに異常な状況だった。
しかし、異常と言うなら、これまでなにもしなかったことの方が異常なのだ。初めは三人の勉強会だったが、ルインフォーラが抜けてマシェマティアと二人きりとなる機会も多かった。
若い男女が密室で二人きりで長時間過ごす。これで何も起きないことの方が、明らかにおかしい。
その有能さにばかり目がいってしまったが、マシェマティアは可憐でかわいらしい令嬢だった。艶やかなしっとりとした黒髪は美しく、大粒の青い瞳は晴天の空を思わせる澄んだ青。初めて見たその肌は、彼女の無垢さを示すかのように白い。
こんな令嬢と何度となく二人きりとなる機会があったというのに、今まで手を出さなかった自分はどうかしている。レストレンドはこれまでの自分の不甲斐なさを恥じた。
「違ーう!」
レストレンドは自らの両頬を叩いて正気に返った。
明らかに思考がおかしな方向に行っていた。
婚約者のいる身だ。色欲に負けて他の令嬢に手を出すなど許されることではない。
そもそもこれはルインフォーラを助けるための勉強会なのだ。それで彼女を不幸にさせる関係を築くなど、本末転倒もいいところだ。
なぜか普段のように自制できない。妙に暑く感じる。流れる汗は止まらず、動悸も激しい。息もなんだか荒くなる。
自分の身体がまるで制御できない。まるで何かの魔法にかけられたような気分だ。
そこまで考えて、レストレンドには思い当たることがあった。そうした状況を生み出す魔道具を知っていたのだ。
乱れる心を無理やり整え、魔力を感知するよう意識を集中させる。特に部屋の四隅に注意する。想像が正しければそこに魔道具があるはずだった。
そしてレストレンドは、部屋の四隅から魔力を放つ物体を感知したのだった。
「ルインフォーラ、これはどういうことだ?」
日も暮れ、夕食時も過ぎたころ、屋敷に帰ってきたルインフォーラを、レストレンドの冷たい問いが迎えた。
レストレンドは勉強会のために用意された一室でずっと彼女が来るのを待っていた。
マシェマティアは先に帰らせたので、今この部屋にいるのはレストレンドとルインフォーラだけだ。
机の上には四つ、チェスの駒ほどの大きさの、ハートを形どった黒い置物があった。
魔道具『一夜限りの熱愛』。
このハートの置物を部屋の四隅に設置し、魔力を注ぎ起動すると、部屋の中にいるものにはいくつかのデバフを受ける。
デバフの内容は「自制心の低下」「体温の上昇および発汗」「脈拍の上昇」。
一言で言えば「ドキドキして歯止めが利かなくなる」のだ。催淫の魔道具としてはささやかな効果だが、部屋の中に男女が二人きりという状況において、その効果は絶大だ。
媚薬や催淫の魔道具を利用する貴族は少なくない。
例えば、不仲なまま望まぬ結婚をした夫婦。例えば、世継ぎを儲けねばならない年の離れた夫婦。例えば、子宝に恵まれないまま倦怠期に入しまった夫婦。家を存続するために必要となる事があるのだ。
媚薬の中には理性をなくし性欲の獣と化すようなものもある。そうしたものは、その強力さと引き換えに、後遺症や副作用、依存性といったリスクがある。
『一夜限りの熱愛』は催淫の手段としては良心的な方だ。気分が盛り上がるだけで、実際に事に至るかどうかは両者の意思で調整できる。手軽で安全と言うことで幅広く使用されていた。
レストレンドとマシェマティアを興奮状態に陥らせ、不埒な関係を結ぶ一歩手前まで追い込んだのは、この『一夜限りの熱愛』だった。
よく知られた魔道具だからこそ、レストレンドもまたその効果を知っていた。だから自分の状態から『一夜限りの熱愛』の影響下にある可能性に思い至り、魔力探知ですぐさま発見することができたのである。
「ここに来るまで使用人からなにがあったのかを聞きました。
『一夜限りの熱愛』はレストレンド様との関係を進めるために用意したものです。それが誤作動したせいで、レストレンド様とマシェマティア嬢にご迷惑をかけてしまったようです。まことに申し訳ありません」
謝罪を述べると、ルインフォーラは深々と頭を下げた。
その殊勝な態度に、しかしレストレンドは違和感を覚えていた。
『一夜限りの熱愛』の設置されていた場所だ。あの部屋は勉強会のために用意されたものだった。
勉強会には毎回マシェマティアが参加する。彼女を先に帰せば使うチャンスがあるだろうが、それなら別室を用意すればいい。
部屋内の調度品にしても、テーブルにソファはあったがベッドは無い。異性を誘惑するのに適した場所とは思えなかった。
「いや、いい。まずは頭を上げてくれ」
「はい……」
美しい銀の髪に灰色の瞳。いつも通り、ガラス細工のように儚く美しいルインフォーラの姿だ。
「このような不手際をしてしまったのです。どのような処罰も受ける覚悟です」
実に潔い姿だった。貴族としてあるべき姿と言えるのかもしれない。
だが、その姿にレストレンドは絶望した。
ルインフォーラを待つ間に、彼女の思惑を考えていた。悪い想像が浮かんでしまった。それが間違いであって欲しいと願っていた。
しかし彼女の潔すぎる態度がその想像を肯定していた。魔道具の誤作動などではない。すべては、ルインフォーラの仕掛けた計略だったのだ。
そう思う理由は二つあった。
一つ目の理由は、今回のことで婚約関係が決定的に壊れてしまいかねないということだ。
ルインフォーラが『一夜限りの熱愛』を使ったことは、おそらく父には隠せない。
立て直す見込みがあるとはいえ、カティストゥルフ子爵家は苦しい状況にある。その状況を知るために、父の手の者がこの屋敷には何人かいるだろう。父は有能で抜け目ない伯爵なのだ。
『一夜限りの熱愛』で婚約者を繋ぎとめようとした事実を、父は重く見るだろう。そこまでのことをしたのだ。カティストゥルフ子爵家には何か表に出ていない危険な要素があると疑うに違いない。
そしてマシェマティアの存在も問題だ。男爵令嬢でありながら領地経営に対して優秀さをみせる才媛。危ういルインフォーラより、有能なマシェマティアの方が婚約者として相応しく見えるはずだ。もしレストレンドが手を出していたら、責任を取るという名目で伯爵家に取り込むことになっただろう。
そういう視点で考えると、彼女の存在はあまりにも都合が良かった。
二つ目の理由は領地のことだ。
領地経営の勉強会を通じて、レストレンドたちは領民たちの暮らしを垣間見た。毎年の収穫高が、どれほどの血と汗と涙の結晶であるのかを知った。領地を治める貴族の立場の重さを知った。
婚約破棄してカティストゥルフ子爵家が没落すれば、その治める領地に混乱が生じる。カティストゥルフ領は、欲に駆られた周辺の貴族たちによってバラバラにされるだろう。そうした領地の扱いは多くの場合過酷なものになる。多くの領民が苦しむことになるだろう。
勉強会を通じてそうした悲劇が来ることが分かった。人の心があるのなら、それは決して潔く受け入れていいことではないのだ。
婚約関係が壊れてしまいかねないこと。領地のこと。二つの理由を考えれば、ルインフォーラの今の態度はありえない。
本当にレストレンドとの仲を進めるつもりだったのなら、悲しまなければならない。
領民のことを思うのなら、泣きついてでも婚約を維持しなければならない。
それなのにルインフォーラは潔く、婚約破棄と言う罰を受け入れるつもりなのだ。
たった一つだけ、その異常を説明できることがある。
自ら婚約破棄を望んだ、数か月前のあの日のルインフォーラの異常性だ。
領地経営の勉強を通して彼女は前向きになったと思った。『破滅』を望んだことは一時の気の迷いだったのだと思うようになっていた。
だがそうではなく、ルインフォーラがあの日の情熱を失っていなかったとしたら。
無理のない婚約破棄を導くために、領地経営の勉強会を提案し、マシェマティアを紹介したとしたら。
勉強会を欠席し、レストレンドとマシェマティアとの二人きりの時間を意図的に増やそうとしていたら。
最後の仕上げとして、『一夜限りの熱愛』を意図的に作動させたとするならどうだろうか。
レストレンドはルインフォーラをじっと見つめた。
表面上は潔く罰を受け入れようとする気高い貴族令嬢の姿だ。
しかしその瞳は、自ら婚約破棄を望んだときと同じ輝きを放っている。謝罪の場なら顔色も青くなりそうなものなのに、彼女の頬はほのかに朱に染まっている。
その口元に浮かぶ小さな微笑みを見出した時、ついにレストレンドは確信した。
ルインフォーラは婚約破棄による『破滅』に至るために、全てを画策したのだ。
胸の中で少しずつ大きくなっていた愛情は砕け散った。そこにできた空白は、しかし一瞬で埋まった。どす黒い何かが、胸の中を満たした。
「穏やかなおじい様にそんなことがあったとは想像もしませんでしたわ……」
ルインフォーラが婚約破棄を望んでから数十年後の事。
年老いたレストレンドは、孫娘アメジフィア・サーディズンに若い頃のことを語っていた。
サーディズン伯爵家の自室。部屋の中はレストレンドとその孫娘アメジフィアの二人きりだ。
レストレンドはベッドに横たわっている。五年前、長年連れ添った妻を亡くしてから、ベッドの中で一日を過ごすことが増えてきた。
ベッドのわきで椅子に座って話を聞いているのは孫娘のアメジフィアだ。祖母譲りの美しいストレートの銀髪。やや吊り目がちな瞳の色は黒。利発で気の強そうな令嬢だった。年のころはちょうど話の中のレストレンドと同じくらいだ。
彼女は祖父レストレンドから学生時代の話を聞いていたのだった。
「それで、その後どうしたんですか?」
「彼女のことを愛していた。だが彼女が未だ『破滅』を望み、そのために友人を囮にし、領民の辛苦すら顧みないと知った時……どす黒い感情に支配された。そして彼女がもっとも傷つくことを言ったんだ」
「何て言ったんですか!?」
アメジフィアは目をきらりと輝かせた。レストレンドは老いた身体には不似合いな力強い声で叫んだ。
「『君がこんなことをするくらい不安にさせてすまなかった! でももう心配することは無い、結婚して君のことを必ず幸せにする! 婚約破棄など絶対にしない!』
……こう言ってやったのだ」
祖父が滅多に出さない大声とその内容に、アメジフィアは目を丸くして驚いた。
しばらくすると、目をぱちくりさせて祖父に問いかけた。
「てっきり愛が憎しみに変わったのだと思いました。それはまるで愛の告白ではありませんか」
「そんな美しいものではないよ。なぜなら彼女にとって最大の望みは『破滅』だったんだ。そのことを理解した上で、あえてそれを完全に断つ言葉を叩きつけたのだ。告げられたルインフォーラの顔は絶望に満ちていたよ。
青ざめた頬、揺れる瞳、震えるくちびる……なにもかもが美しかった」
「そうなんですか……でもそのあとは結局、おばあ様は幸せになったわけですよね?」
祖父母の中の良さはサーディズン伯爵家でも語り草だ。
常に穏やかだった祖父。彼はその才覚で伯爵家をより大きなものにした。領地経営は順調。領民との関係もよく、社交界での交友関係も幅広く良好なものだったという。
祖母のルインフォーラもまた評判だった。銀色の髪にグレーの瞳。ガラスの彫刻のように儚く美しい婦人。彼女はいつもどこか寂し気で、憂いに満ちた目をしていたという。
ルインフォーラは若い頃から診療施設に出資し、週に一度は慰問していたという。幸せの中にありながら世にある哀しみから目をそらさないその姿と銀髪から、『慈愛に満ちた白銀の貴婦人』と呼ばれ讃えられた。
誰も彼もが二人は幸せな夫婦だったと言っている。アメジフィアも子供のころから、祖父母たちのように幸せな結婚をするように言われていた。学園に入学してからも、祖父母の夫婦仲の良さはよく話に上がる。
だが、老いたレストレンドはゆっくりと首を振って否定した。
「宣言した通り、私はルインフォーラに普通の幸せを与えた。愛を語り、毎日キスをかわした。伯爵夫人として社交の場ではふさわしい立場を与え、それに見合う装飾品を与えた。彼女の望む大抵のことは叶えたし、間違えれば叱って諫めた。
五年前、彼女がその命尽きる瞬間まで、可能な限り幸せを与え続けたつもりだ。しかし彼女が本当の意味で満たされたことなど無かったことだろう」
「わかりません。『破滅』したいというおかしな願望があったとしても、そこまで愛情を注がれたら、おばあ様は幸せになったんじゃないんですか?」
「ダイヤを望む者が、同じくらいの価値のあるガラス製の芸術品を与えられて満たされると思うかい?
ダイヤに金銭的な価値しか見出さない者ならそれでも満足するだろう。だがダイヤの輝きに魅せられた者は、どれだけ精緻で技巧の凝らされたガラスの芸術品を与えられようと、満たされることは無いのだ。
ルインフォーラはの見つけた『破滅』という輝きは、他の何かで代替できるようなものではなかったのだ。そして彼女は最後まで妥協することは無かった。『破滅』を望み続けた。彼女は幸せな生活を送りながら、ずっと満たされない思いを抱え、いつも物憂げな顔をしていたよ」
そう言って、レストレンドは部屋に飾られた大きな絵を見つめた。
そこには結婚したばかりの頃のルインフォーラが描かれている。涼やかな銀の髪。灰色の瞳。微笑みを浮かべたその顔はどこか寂しげだった。その姿は儚く、ふとしたことで消えてしまいそうに思える。幻想的な美しい絵だった。
その姿が、『破滅』への望みを満たされない姿だと、誰に想像できるだろうか。
「そんな満たされない願望が抱えて苦しんでいたから、診療施設に出資したんでしょうか? 誰かを救うことで、自分も救われた気持ちになりたくて……」
人は自分が満たされないとき、他の人を満たすことで満足を得ようとすることがある。代償行為と呼ばれるものだ。
アメジフィアのそんな想像は、しかしレストレンドによって笑みと共に否定された。
「ふふっ、それは誤解だ。彼女は経済的に『破滅』させてもらえないとわかると、今度は重病を患うことで『破滅』することを考えたようだ。だから出資を口実に、病気の蔓延る診療施設に通ったのだよ。
彼女が診療施設に行くときは病よけのアミュレットをいくつもつけさせた。そこでうっかりアミュレットを落とすことが何度もあった。だけど、念入りに病よけの魔法もかけておいたからね。彼女は結局、風邪すら引かず健康に過ごした。私もすっかり病よけの魔法の名手になれたよ」
アメジフィアは絶句した。
『破滅』を願い続ける祖母は異常だった。しかし祖父の徹底した対応もまた、あまりにも異常だった。
「……そこまで憎かったのですか? 何十年もの間、おばあ様がお亡くなりになっても許せないほどに、憎んでいたのですか?」
「いいや。私はルインフォーラを愛していた」
レストレンドは先ほどまでの笑いを消し、真剣な表情で言った。
「ルインフォーラは美しかった。婚約破棄を完全に断たれたときの彼女は、例えようもないほど美しかった。私が心を奪われたのは、あの瞬間だったのだ。あの時、私を満たしたのは、そんな薄暗い愛情だったのだ。
愁いを帯びた美しい彼女の姿をいつまでも見たていたかった。悲しみに暮れる彼女の姿が愛おしくてたまらなかった。だからこそ彼女が一番に望んでいる『破滅』を遠ざけた。普通の幸せを与えることで彼女の満たされぬ思いを浮き彫りにした。私はそうやって、一生かけて彼女を愛し続けたのだ」
レストレンドの言葉には後悔や後ろめたさはまるでなかった。暗く歪んでいて、それでもただひたむきで真っ直ぐに向けられたそれを、はたして愛情と呼べるのだろうか。しかし愛以外にこれほど人を狂わせるものなど存在しない。ならばそれはきっと、愛情と呼ぶしかないものなのだ。
アメジフィアはそう理解した。そうした感情を、彼女は知っていたのだ。
「……なぜ私にこんなことを話すのですか?」
祖父母の関係の真実はきっと誰も知らない。おそらく祖父はこのことは一生秘密にするつもりだったはずだ。話したところで理解は得られず、祖母の名声を穢すことになるだけだ。
なせ今になってこんなことを話すのか。アメジフィアには心当たりがあった。そのための確認の質問だった。
「私はルインフォーラのことを愛した。そのことに後悔は無い。だが、彼女のことを愛することはできたが、本当の意味で愛し合うことはできなかった。そのことだけが心残りだ。
孫には同じ轍を踏んで欲しくない。だから話したのだ」
きっぱりとしたレストレンドの言葉に、アメジフィアは改めて確信した。誰にも打ち明けたことのないアメジフィアの想いは、祖父に覚られていたのだ。
だが、アメジフィアは納得もしていた。祖父は「同類」だったのだ。
「……今日お聞きしたことは参考にさせていただきます。それではこれで失礼いたします」
それだけを口にすると、アメジフィアは祖父の部屋から去った。
アメジフィアには婚約者がいた。顔は整っているが、ちょっと気の弱い子爵子息だった。
一目見た時から気を引かれた。おどおどとするその姿が、とてつもなくかわいく見えた。
そんな恋心を知られるのがなんだか面白くなくて、婚約者には冷たく当たった。アメジフィアの厳しい言葉に怯える彼は、この世の何より愛しく思えた。
いくら気が弱いと言っても、冷たい態度をとり続けては愛想を尽かされるかもしれない。他の令嬢に恋することもありうるかもしれない。
だから監視した。
友人を使い、使用人を使い、時には自分自身で張り込み、彼のことを徹底的に観察した。
友人関係がどうなっているか。どんなブランドのアクセサリーを好むか。朝起きて最初にすることは何か。湯につかるとき身体のどこから体を洗うか。朝昼晩のメニューはなんで、どの料理をどれくらいの時間をかけて食べたか。およそ思いつく限りの情報を集め続けた。彼のことを深く知ることもまた大きな喜びだった。
彼に近づく不埒な令嬢があれば、あらゆる手を使い妨害した。時には冤罪をかぶせて退学まで追い込んだことすらあった。もちろん自分がやったという痕跡は残さない。発覚して彼といられなくなるのは困るからだ。
罪悪感はまったく無かった。邪魔者を排除するのは、アメジフィアにとってちょっと頭を使う楽しい娯楽でしかなかった。
自分のしていることが異常なことだと自覚していた。しかし一般的な恋愛で自分が満たされないこともまた、わかってしまっていた。彼への想いは、普通に恋愛して体を重ねる程度のことで満たされるほど浅いものではないのだ。
歪んだ愛情に駆られ、自分の望む姿を相手に押し付ける。そういう意味で、祖父レストレンドは「同類」だったのだ
だが、祖父の話を聞いて考えてしまった。
今は楽しい。この喜びを否定する気は起きない。それでもこれが数十年も続くとなると、少し考えてしまった。愛するばかりで愛してもらえないというのは、寂しいことなのではないかとだと思ってしまった。
彼のことは独り占めしたい。彼が何かに愛を向けるというのなら、それもまた独り占めなくてはならない。
愛する努力は続けてきた。これからは愛される工夫をしてみるのも悪くない。
そうと考えると、なんだか楽しい気持ちになった。
寮から学園に向かう通学路。偶然を装い彼と出会うタイミングは把握しているし、既に身体が覚えている。
新しい挑戦への期待に胸を膨らませながら、アメジフィアは学園へ向かう一歩を踏み出した。
終わり
婚約破棄を自分から望む令嬢のお話を書こうと思い立ち、あれこれ設定を考えてお話を組み上げたらこういう話になりました。
当初はちょっと異常な令嬢にふりまわされる子息のお話でした。
気がついたら子息も令嬢に引けを取らないくらいの立派な異常者になっていました。
おかしい、どうしてこんなことに……?
お話づくりはままならないですね。
2023/12/12 誤字報告ありがとうございました! 読み返したら報告いただいた箇所以外にもちょっとおかしなところをいくつか見つけてしまったので、いっしょに直しました。
2023/12/18 細かな誤字等を修正しました。