5. ノノ
ウィズは平然とした顔で、フレンドリーにこう言った。
「やあ。シェイドくん、久しぶり。
君がこんなところにいるなんて珍しいね。
よかったら、一緒に一杯どう?」
私はびっくりして言った。
「あんた、なんでここにいるのよ。
休憩中のはずなのに……。
まさか、ずっと尾けてたの?」
「おれはあなたの言いつけ通り、のんびり部屋で休んでましたよ。
ところが、旦那様がいらして……。
『娘が遊び人と遊び歩いてて、パパはとっても心配なんだよ。だから、シェイドくん、なんとかして』と、涙ながらにおっしゃいまして。
あなたのおかげで、今日は10分もオフを満喫できました。おまけに残業までつけてくださって、どうもありがとうございます」
私は激怒した。
「な……っ。なんて過保護な親父なの!?
もういいわ、シェイド。こんな時間まで、ご苦労さま。あんた子どもなんだから、家に帰って、早く寝なさい」
クズ野郎も激怒した。
「そうだよ、シェイドくん。
昔の偉い人は、こう言ったものだ。
『今日の仕事は、明日のためにとっておけ。そうすれば、明日も仕事ができる』 。
真に賢い人間は、勤務時間中にも、サボる方法を見つけ出すものだ。
真面目に働くのは、バカのすることだ。
ましてや、休み返上で働くなんて……。そんなのもはや、犯罪だよ」
ウィズは顔の前で手を振りながら、しょうもない語りを熱く続けた。
「悪いことは言わないから、早く悔い改めるんだ、シェイドくん。
君は今、この瞬間にも、とんでもない過ちを犯しているんだよ。
そんな悪行は今すぐやめて、これから私と一緒に、とっても楽しいお店に行こう。
なに、心配はいらないよ。支払いは全部、この綺麗なお姉さんが持ってくれるから」
シェイドは淡々とした声で言った。
「お二人の温かいお心遣いには、感謝の言葉も浮かびません。
今すぐ帰らないなら、あなたの大事なスクラップ帳、燃えるゴミに出しますよ」
……わあ、すっごい笑顔。
あんたのそういう顔、初めて見るわ。
シェイドは私の腕を掴むと、強引に立たせた。
さらに、お札をテーブルに叩きつけ、無言で私を引っ張って行こうとする。
「ちょっと! あんた、なに邪魔すんのよ。私はまだ、あいつと話が……」
シェイドは立ち止まり、振り向くと、唇をキッと横に結んだ。
それから右手を振り上げて、その手を勢いよく振り下ろし――突然、ピタリと動きを止めた。
……ああ。
こういうパフォーマンス、私、前世で見たことあるわ。
へえー。ちょっと見直しちゃった。あんたって、結構器用だったのね。
シェイドの芸を見ていた私は、奇妙なことに、気がついた。
こんなに長く止まってるのに、腕が全く、プルプルしない。まるで人形になったみたいに、瞬まばたきすらも止んでいる。
あわてて辺りを、見回すと。
にぎやかだった店内は、死んだように静まりかえり……ロウソクの火の揺らめきも、写真みたいに止まってる。
私がポカンとしていると、女たらしの怠惰なクズが、能天気にこう言った。
「いやあ。うまくいって、よかったよかった。この間の実験では、ひどいことになったものだが」
「……ひどいことって、どんな?」
「うん。実験は人形でやったんだけどね。
こう、スイッチをポチッと押したら、首がねじれて、足のところに……」
「そんな危ないもん、お気楽に使うんじゃないわよ!!」
「まあまあ。
成功したんだから、いいじゃないか。
それより、早くここを出よう。あまり長くは、もたないからね」
私はフンと、鼻を鳴らすと。
危ないマッドサイエンティストと、時の止まった店を出た。
―――――――――――――――
タラシ野郎の家に着くと、私は寝室に通され、ベッドに腰かけろと言われた。
ウィズはグラスと瓶を取り出し、サイドテーブルに載せると。
まったく何のためらいもなく、私の隣に腰かけた。
「ここに来たということは、君も私と同じ気持ちだと、思っても構わないのかな」
「さあ? それはどうかしら」
「やれやれ、つれない人だなあ。……だが、まあいいさ。夜は長い。
まずはこいつで、一杯やろう」
ウィスキーの水割りで、私たちは乾杯した。
……うーん、さすが飲んだくれ。
紅茶は薄くてマズかったのに、酒はいいのを出してくる。
私は酒を一気飲みすると、男を殺す熱い目線を、女タラシに送ってやった。
「……ねえ、ウィズ」
「なんだい?」
「私と勝負しない?」
タラシは肩をすくめて言った。
「腕相撲なら、遠慮しておくよ」
「もちろん、そんな弱い者イジメしないわ。
正々堂々、飲み比べで勝負よ」
「別にいいけど、私は強いよ?」
「言ったわね。
それじゃ、私が勝ったら、さっきの契約書にサインしてもらうわよ」
「ああ、分かった。その代わり、私が勝ったら……分かっているね?」
――――――――――――――
「……あんら、絶っ対、ズルしてるれしょ」
「心外だなあ。ズルなんか、してないよ」
あれから私たち二人は、何杯も酒を飲み交わした。
飲んで飲んで飲みまくり、私はトイレでちょっぴり吐いて、必死に酒を飲み続けた。
なのに、ウィズの野郎ときたら、強い酒をグビグビやって、「水をいっぱい飲みました」みたいな、涼しい顔をしてやがる。
「嘘よ。
あんられったい、ズルしてる。
わらし、こう見えれも、飲みくられれ負けらころないのよ。……あんらが飲んれるそれ、貸しなさぃょ」
「これかい? やめておいた方がいいと思うけど……」
「どうれ、中身わウーロン茶れしょ。
いーから、ろっろろ寄越しなさぃ!」
インチキ野郎の汚い手から、私はグラスをひったくる。そして、犯行を暴いてやろうと、中身を一気にあおってやった。
強烈なアルコールの刺激が、私のノドに襲いかかる。私は激しくむせた。
「あーあ。だから言ったのに。
それはウィスキーのスピリタス割りだよ。
そんな度数の高い酒、私ぐらいしか飲まないよ」
ちくしょう。ちくしょう。
この私が、こんな奴に負けるだなんて。
ちくしょう、ちくしょう。マジちくしょう。
クズはにっこり笑いやがった。
「私の勝ちかな? ……それじゃ、さっそく」
そして、私をベッドに押し倒した。
「ちょっと! わらしはまら、負けれなぃわょ。もっかぃ! もっかぃ、始めから勝負しなさぃよ!」
「ははっ、可愛いなあ」
「あんらね、分かっれるの。わらしは王子の婚約者なのょ」
「もちろん、それは分かっているよ。だけど、君たちの場合は……単なる政略結婚だろう?」
凍った空気をスルーして、クズは容赦なく続けた。
「お互い家の都合でくっついただけで、愛情なんて欠片もない。
結婚したら、彼はお飾りの妻なんかには目もくれず、他の女にうつつを抜かすんだろうね」
「よぅもミひャエりゅたまを、ぶちょくしたわね。あんらなんか、ぶっコロりれやる!」
「私は事実を言ったまでだよ。
それに、こんなの貴族や王族はみんなやってることだろう? だから、君も自分の好きなようにやって、人生を楽しめばいいじゃないか」
クズは私の髪を撫で、甘い声でこう言った。
「今日はくだらないことは全部忘れて、私と気持ちいいことをしよう。
……もしよかったら、これからも、時々こうして会えないかな。めんどくさい恋愛は抜きにして、純粋に気持ちいいことをするために」
冴えない日常を送る私の前に現れた、とんでもないイケメン。
彼の口から飛び出した、突然のセフレ宣言。
あまりの展開に呆然とする私に、クズは容赦なく追撃を浴びせた。
「私も人間だから、たまる時はあるしね。
君は性格はアレだけど、美人で胸は大きいし、男好きって評判だから、後腐れがなくて楽そうだ。
大丈夫。君のことだから、一度寝てしまえば、夫なんかどうでもよくなるよ。
私も幸い、一人の女の子には拘らないタイプだし。お互い、手軽に済ますには、ちょうどいい相手だと思わないか?」
そのお綺麗な顔で、こんなにも薄汚いセリフを吐けるだなんて……。
あんたって、ほんと、大した奴だわ。
なんていうか、ある意味すごい。
私はクズの顔面に、パンチを叩き込もうとした。
だが、しかし。
クズの顔は3つもあって、どれを殴ったらいいか分からない。
……くそっ、卑劣な魔術師め。妙な術を使いやがって。
「もう観念しなよ。
君はこれから、私に抱かれるんだ」
「ふじゃけんらないわょ。誰があんらみたいなクズなんかとぉ……。わらしは、みヒャえぅたま一筋なんだかりゃ」
「もしかして君、本気であの王子が好きなのかい? やめておいた方がいいと思うけどな。
――だって彼は、自分の母親を死なせた男だよ?」
思いもよらないことを言われて、私の酔いは、すっかり醒めた。
クズは余裕の顔をしている。
ハッタリかましてるんじゃなく、マジで「あれ」を知ってるらしい。
「あんら……。ろうりて、そのことを……」
「私は顔が広いからね。新聞には書けないような話も、こうして耳に入ってくるのさ」
私はクズの綺麗な顔を、真正面から睨んでやった。
「言っろくけろ、わらしの気持ちは、何があっれも変ーらなぃわよ。
られを敵に回りれも、わらしはミひゃエゥたまの味方なんらから」
クズは少し目を見開いた。どうやら、本気で驚いたらしい。
それから、氷みたいに冷たい、嘲るような笑みを向けてきた。
「へえ……。
どうやら君は、本気であの男が好きらしいね。
だけど、よく考えた方がいい。
今、あの男が君にやさしくしてくれるのは、目的があるからだ。
用が済んだら、君も簡単に切り捨てられるよ。
……なにしろ、あの王子様は、自分の母親を殺して、平然としてる男なんだから」
私の中で、何かがプツンと切れた音がした。
―――――――――――
「いたたた、あたたた……!
分かった、私が悪かった。
だから、頼む。それだけは止めてくれ!!」
私はか細い左手で、クズの頭を押さえつけ、右手をそっと、ゴミの手に添えた。
それから、悪魔の契約書の、サイン欄のところまで、やさしく持っていってあげた。
「痛い、痛い! 骨が砕ける……!」
まったく、もう。男って生き物は、いくつになってもガキなのね。
レディが手伝ってあげなきゃ、自分の名前も書けないんだから。
「ちょ……っ、やめ! やめやめやめ!
ギブギブ、ギブ! ギブアップ!」
ああ……。
なんだかとっても、いい気分。
体が軽くて、フワフワするし。
頭の芯がスーッと冴えてて、今なら何でも出来ちゃう気がする。
私、やっと分かったわ。
愛で人は救えないし、話し合いは何も生まない。
人間は分かり合えないんだから、対話は時間の無駄無駄無駄。
しょせん、この世は弱肉強食。
強い者が弱い者を食らい、欲しいものを奪い取る。
筋肉こそが、私の力。
そして、力こそが正義。
圧倒的な暴力だけが、腐った世界を救えるんだわ。
それが世界の真理ってやつで、たった一つの真実なのよ。
……まったく、私ともあろう者が。
こんな簡単なことに、どうして気づかなかったのかしら。
明るい月夜の下町に、世界一の魔術師の、悲痛な悲鳴が響き渡った。