第770話 調印 ーリュウインシオン視点ー
私、リュウインシオンは第二御所の自室の椅子に座り、数年ぶりの安心と安らぎの時間を過ごしていた。とにかくこんな奇跡が起きるなど夢にも思わなかった。つい数日前までは自らの命をかけた特攻を覚悟していたというのに、今は自国の慣れ親しんだ部屋でお茶を飲みながら休んでいる。
今は国政の準備や動きを全てヘオジュエに任せている。というのも私では、ほぼ力になる事が出来ないからだ。こうなる前は何も国政に携わったことが無いので、むしろ足手まといにならないようにしているのだ。
「ここは変わってないんだ」
部屋の調度品は、私が王都から逃げた時と全く変わっていなかった。白地に金の装飾が施されたテーブルと椅子も棚もそのまま、青く透明感のある青磁器の壺も置いてある。建物内に敷かれた、青地に白い模様の入った毛足の長い絨毯もそのまま。王城に王として巣くっていた化物達は、ここの装飾品などには一切手を付けていなかったのだ。そんなものには価値を見出していないのかもしれない。
そして今。私が思い出しているのは、あの不思議なラウルという少年。魔人国の王子だと言った彼は不思議な人だった。正体を明かすために、最初に鎧から出て来た時には驚いたものだ。恐らくは自分より年下の幼い少年だったからだ。特徴的なのはその白い髪と赤い目。そんな彼は特に威圧感があるわけでもなく、優しい目で国の未来のために虹蛇の威光を十分に利用しろと言った。
自分が救った国の者に対し、とても寛大な施しをしてくださったのだ。アラリリスなど彼の力にかかれば一瞬にして滅びるだろう。それなのに国をよこせとも言わず、民が普通に暮らしていけるようにしろと私に言ってくれた。
「不思議な人…」
なぜかひと時も忘れる事が出来ない。だがヘオジュエは、彼には心を許さぬようにとくぎを刺してくる。その気持ちもよくわかる。ヘオジュエは私が幼少の頃より面倒をみて武術も教えてくれた、育ての父親のような存在だ。いきなり一緒に風呂に入ろうなどと言った男の事を、簡単には認められないのだろう。
だがラウル王子は、あれを魔人国の交流の方法だと言っていた。このアラリリスでは異性と風呂に入って言葉を交わすなど、契りを交わした夫婦だけに限られる。そして不思議な事に彼は、風呂に入ってから私をジロジロ見る事も無く目をそらし続けていた。照れたような仕草さえ見せる彼には、決して下心があるようには見えなかった。やはりあれは魔人国の会話の手段なのだろう。ヘオジュエもそう理解しているはずなのだが、やはり自分の感情の方が勝っているらしい。
更にあの魔人国の方達は、欲のない真っすぐな人達だった。魔人国の利の為にいろいろな事を言って来るかと思いきや、アラリリスの未来のためにいろいろと提案をしてくださった。そのような配下達を従える、ラウル王子の求心力の凄さに脅かされるばかりである。あんな若い彼が、彼らを完全に従えているのだ。私があの年ごろに、そんな事が出来たかと言えば絶対に無理だ。
「ふうっ」
私は軽くため息をつく。
しかし気が重い…本来私は末っ子で王位継承権など無かった。だが王族が居なくなってしまった以上は、私が王となる事が決まってしまったのだ。これからの国政をどうやって行くか、ほとんど考えたことが無い私には難しい事だらけだった。
「虹蛇様ご一行がいらっしゃいました」
「はい」
「失礼します」
扉を開けて、昔働いてくれていた侍従の一人が入って来る。既に侍従長はいなくなってしまった。恐らくはドゥムヤにされて死んでしまったと思われる。新しい侍従長は一緒に洞窟に逃げていたリユエという少女だった。洞窟に逃げた後もずっと私の世話をしてくれていた娘である。彼女が名乗り出て、私の身の回りの世話をすることになった。リユエと数人の女性が入って来て私の準備を手伝ってくれる。ラウル王子の前に出る為に、身だしなみを整えなければならないからだ。だがあまり待たせるわけにもいかない為、急いで準備を整えた。
廊下を出て階段を下りて行くと、鎧を来たラウル様と魔人国の皆が勢ぞろいしていた。
「遅くなりすみません」
自分の準備で待たせてしまったかと思い、すぐに謝罪をする。
「いや、待ってはいないぞ」
鎧を脱いで二人で話した時とは、ラウル王子の言葉遣いが違う。周りに虹蛇様だという認識でいさせるために、わざと鎧を着たまま振舞い続けているのだ。そのおかげで市民達にも、虹蛇様から王族に天祐が授けられたと思わせられている。
「では、リュウインシオン様。応接の間に」
私の後ろについていたヘオジュエが言う。私はラウル王子に気を取られすぎて、周りの事が見えていなかったらしい。護衛の十人の騎士も既に私の後ろにいた。
「それではこちらに」
彼らを連れて応接の間に移り、それぞれ椅子に座っていただいた。ラウル王子の隣りには女性が、そしてその隣には魔法使いの老人が、そしてその隣には不思議な雰囲気の老婆が座る。魔人国の使者という事だが座った席の順番を見ると、ラウル王子の隣りに座られた美しい方はかなりの地位にあるのだろう。その女性はまるで女神のように美しく癒しを与えてくる。優しそうな中にも、憂いを秘めたような表情で私を見るのだった。
「皆様もぜひ」
私が他の配下の方達にそう伝える。
「いえ、我らは虹蛇様とは肩を並べては座りません」
そう言ったのは、とても凛々しい顔をした赤い髪の偉丈夫だ。ただ一つ人間と違うのは、そのおでこに猛々しい角が生えている事。
「わかりました」
そして私がそこに座ると、ヘオジュエ達騎士も私の後ろに立った。もちろん騎士が王族の話し合いに同席する事は無い。だが虹蛇に扮したラウル王子が声をかけて来る。
「ヘオジュエも座るがよい」
「私はこのままで」
「いや、国政にかかわる事に宰相が同席せぬのはおかしいぞ」
「…わかりました」
ラウル王子がヘオジュエを宰相と言った。そしてそれに異を唱える者がいないので、そのままヘオジュエも私の隣りに座った。これでみんなはヘオジュエがこの国の宰相になったと認識するだろう。
「では良いでしょうかな?」
モーリス様が話し始めた。どうやらラウル王子が話すのではないらしい。国同士の取り決めに、虹蛇様が話すのはおかしいので代役を立てているのだろう。
「はい」
「これから、虹蛇様の命を受け魔人国の軍隊がここに来ることとなる。それは既に了承してもらえているとしてよろしいかな?」
「私は了承しております。ヘオジュエはどうか?」
「もちろん了承いたしております。ただ、我が国には貴国の軍事力にあらがう術が無いため、という事も付け加えさせていただきます。手放しでそれを受け入れると言う事ではありません」
普通に考えればそう言う事だが、私の本音はラウル王子を信頼しての事だ。我が国の国民の命を救ってくれた英雄に対し、信じていないなどと言う事は無い。だがヘオジュエは自分達が尻尾を振って、魔人国の属国になるわけではないと意志表示をする。
「ふむ…、わしら魔人国は貴国を属国にするつもりはないのじゃ。それは分かってほしいのじゃ。虹蛇様のご指示の下で、国の復興の手伝いをさせていただくだけですじゃ。そしてシン国とも結んだ和平条約と安全保障条約を、アラリリス国とも結ばせていただければと思います」
お互い戦争をしないと言う事と、アラリリスの国の安全を魔人国が保証する条約を結びたいと言っている。私達アラリリスにとってはもちろん渡りに船だ。するとヘオジュエが答える。
「それは分かりました。ですが見ての通り、アラリリス国はやっと国を取り戻したばかりでお返しできる物がございません」
「今すぐ何かを返してくれとは申しておりませんですじゃ。それよりも貴国の復興のために、魔人国の兵士を都市内に入れる事を了承していただく必要がありますのじゃ。よろしいかな?」
「一つよろしいでしょうか?」
「なんですかな?」
「なぜにアラリリスにそこまでしていただけるのでしょうか?歴史的にも友好的な関係を結んできたわけでもなく、遥か北の魔人国に利があるとは思えません」
「ふぉっ?そうですかな?魔人国には大いに利がありますぞ」
「それはどういった事でございましょう?」
確かにヘオジュエの言うとおりだった。いきなり国を救ってくれた挙句に、復興の助力とその後の平和の為の派兵までしてくれる。どう考えてもそれに見合った利益が、魔人国にあるとは思えなかった。魔人国側がかなりの物を持ち出す事となり、アラリリスにその恩を返せるだけの財があるわけでも資源があるわけでもない。
「デモンの存在を知りましたな」
「はい。それは知りました」
「あれは恐らく、まだまだおります。それは伝えておった通りです」
「にわかには信じられませんが、この目で見たからには信じざるを得ません」
「その、デモンを長い間かけて追い詰めて来たのもお話したのですじゃ」
「はい。北大陸が壊滅状態にあったのを、今は復興に向けて動いているのだと聞きました」
「奴らは間違いなく、南に逃げてきたのです。それは神託としてアトム神から告げられた事実なのですじゃ」
「アトム神?」
「アラリリス国の方は知らないでしょうが、北の大陸で信仰される神様ですじゃ」
「神託ですか?」
「そうです。虹蛇様もそれは聞いておりますのじゃ」
そして私とヘオジュエが虹蛇様に扮するラウル王子を見る。するとラウル王子が頷いて私達に話し始める。
「事実だ。北の大陸を追われた奴らは、南の国モエニタで反撃の準備をしているだろう。我々はそれを討伐する必要がある。国ごと壊滅させるような悪を見過ごしてはおけないのだ。この国とて一歩遅ければ全滅していただろう?」
「…それは重々承知しております」
「もう一歩なのだ」
「わかりました」
「ヘオジュエ。我がアラリリスも悪の討伐の為に魔人国と同盟を組むというのは、悪い事ではないのではないですか?」
私が言うとヘオジュエも頷いた。だが少し険しい顔をして答えて来る。
「ただし、それには我が国の軍の再編と国力の増強が必要かと思われます」
確かにそうだ。このままでは魔人国の足手まといにしかならない。
「…はい」
私は自信なく答えた。どうすればいいのか皆目見当がつかないからだ。軍の再編に関しても、国力の増強にしてもどうすればいいのか分からない。確かに何の力も無いのに、対等に同盟など結べるわけはなかった。自分の考えの至らなさに申し訳ない気持ちになる。ヘオジュエはそういったすべてを考えて話しをしているのだ。
「ヘオジュエ殿。わしら魔人国は、アラリリス軍の助力を必要としてはおらんのじゃ。軍事力での共闘ではなく、ここに派兵してくる魔人軍の生活環境を支えて欲しいと思うておるのですじゃ」
「遥か北の国から、軍を連れてくるとなれば何カ月、いや…何年かかるか分からないのではございませんか?それとも、まさかここに居る十名そこそこの魔人で、モエニタに攻め入ろうとしているのですかな?」
「そうではありませんが、実際にアラリリスにはこの人数で攻め入りましたぞ」
「確かにそれは驚異的な力でございました。ですがモエニタはアラリリスなど比べ物にならないほどの強大な国です。このような小都市とはわけが違ういます。そこには更に多くのバケモノがいる可能性もございます」
「ふむ。実はそれも含めての話なのですじゃ。我々魔人軍はモエニタを全く知らんのですじゃ。そこでなのじゃが」
「なんでしょう?」
「ヘオジュエ殿には参謀の一人として、魔人軍に助力してほしいのじゃ」
「なるほど…それはやぶさかではありません」
「それは良かったのじゃ。そして魔人軍兵じゃが、もちろんこの数でとは言っておらんよ」
「それでは何年もかけて軍備を整えられるのですかな?」
モエニタは強国だ。しかしアラリリスは過酷な環境のおかげで属国にならずに済んだ歴史がある。わざわざ灼熱地獄の砂漠に軍を派兵して、攻めようとは思わないからだ。アラリリス国には北との中継地点という利点以外に利用価値は無い。資源も無いためせいぜい観光地としてしか利用されていなかった。同盟を組んでいるという訳ではないが、アラリリスが侵略してくる事は過去になかった。
ヘオジュエは魔人国に対して、アラリリスが出来る事を模索してくれているのだ。私ならば何も考えずに、ただ魔人国の言いなりになっておんぶに抱っこだったかもしれない。だがヘオジュエは筋金入りのアラリリス軍人、見ず知らずの魔人国に全てを任せてしまおうとは思っていない。自分達が出来る事を、魔人国とすり合わせをしようとしてくれることに感謝するのみだった。
「いや、何年もはかけないのですじゃ」
「ではどのくらい?」
ヘオジュエが細かい所を聞く。こちらにも準備というものがあるので、そのあたりを確認しておかないと自分たちが出来る事が分からない。
「遅くても一カ月、いや…三週間ですかな?早ければ二週間ほどで完了するでしょうな」
「な!そんなに早く!既に進軍でもしておられたのですかな!」
「いや、まだ北の大陸におるのですじゃ。千ほど砂漠の基地におりますがの、そこの基地も引き続き任せねばなりませんのでな。北から大量にこちらに連れてくるつもりなのですじゃ」
「大量にって…そんな短期間に?」
「まあそれは魔人軍の方で手配しますのじゃ。もたもたしておったら、モエニタのデモンに逃げられてしまう可能性がありますしの」
「…わかりました。そんなことを可能にするのは虹蛇様のお力でしょうな?」
ヘオジュエが言うとラウル王子が答えた。
「まあ、そんなところです」
「そうですか」
それから話を進めていくと様々な問題の確認もでき、アラリリス国で何をすべきかが分かって来た。大体の話が終わった時、ラウル王子が言った。
「では、魔人国とアラリリス国の条約調印といこう」
「わかりましたのじゃ」
ラウル様が目配せをすると、モーリス様が自分の鞄から二枚の羊皮紙を取り出した。そこには全く同じ文言が記載されており、条約の内容が箇条書きで記されていた。
「リュウインシオン、ヘオジュエ。我とモーリス以外の人払いをしてもらえるかな?」
ラウル王子が言う。
「わかりました」
「お前たちも、いったん席を外せ」
「「「「「「は!」」」」」」
ラウル王子が言うと、我が国の人間と魔人国配下の皆が席を外して応接の間から出て行った。部屋に残ったのは我々四人だけとなる。するといきなりラウル王子の鎧の後部が開いた。
ガパン!
「ふう!」
ラウル様が唐突に鎧を脱いで出て来た。
「どうじゃった?」
モーリス様がラウル王子に聞く。
「いやあ、先生のおかげでいい感じになりましたね」
「そうかそうか」
「ヘオジュエさんもありがとうございます。こんな感じで堅くやれば皆も納得するでしょう?」
「そうですな。皆も歴史的な一場面に立ちあえて良かったのではないでしょうか?」
えっ?えっ!どういうこと?なになに?
私はいきなり打ち解けた会話についていけなかった。さっきまでは厳かに話し合っていたと思ったのに、いきなり友達みたいに話し始めるヘオジュエとラウル王子に驚いてしまった。
「ヘオジュエ…これは?」
「ええ、何も無くいきなり条約とか言っても、騎士達も民も納得しませんでしょう?ですから形式だけでもこう言う事をやっておこうと、ラウル様から言われましてな」
「そうなのですか?」
「ああ、やっぱ形って大事でしょ?あとは彼らが騎士達に伝えていくでしょ」
「…はぁ…」
「という訳で一応、条約の書類に血判を押そう。それをみんなに見せて終わりだ」
ラウル王子にモーリス様がペンを渡すと、彼は二枚に署名をした。
「はい、リュウインシオン」
すると、ラウル王子は自分が署名してから私にペンを渡してくださった。
「は、はい」
「一応内容に目を通してね。まあさっきまで話した事だけど」
「は、はい」
そして私はじっくりと条約が記された紙を見る。私としては問題の無い内容が書かれていた。ヘオジュエも私に囁く。
「リュウインシオン様。これは既に私も目を通しております」
「そうですか」
「じゃあリュウインシオンも署名してくれ」
「はい」
そして私も二枚の紙に署名をした。
そしてラウル王子が手を差し出すと、手のひらにいきなり黒いナイフが出現した。この能力…いつ見ても理解が出来ない。一体どこから出てくるのか?土魔法でもないようだが…不思議だった。
するとラウル様が取り出したナイフで、自分の親指にプツッと軽く傷をつけた。プクッと血が出てきて親指に伸ばした。それを自分がサインをした一番最後のあたりに押し付ける。
「悪いがリュウインシオンもやってもらえるかな?」
そうしてラウル様は私にナイフを渡した。私も同じように親指に傷をつけて血判を押す。すべてが終わるとモーリス様が私の手を取り、手に持っていた液体の入った玉を割ってふりかけた。見る見るうちに親指の傷が治ってしまった。
「ラウルはどうする?」
「こんなん、舐めときゃ治ります」
「というか、もう止まっとるようじゃが」
「あ、自然治癒したみたいです」
「そうかそうか」
信じられない。今傷つけた親指の傷がもう治っている。一体どういうことなのだろう?まあ…今更この方の能力に驚く事もないだろうが、どうやらヘオジュエも驚いているようだ。
「これで調印式は終了じゃな」
「はい。リュウインシオンもヘオジュエさんもこれで良いね」
「はい」
「私も異存はございません」
「じゃ、一緒に悪魔をやっつけるって事で」
ラウル王子が手を差し伸べて来たので、私はその手を握りしめた。少年の手は思いのほか力強く、私に安心をもたらしてくれるのだった。そして次にヘオジュエにも手を伸ばして、握手を交わす。ラウル王子はすぐに鎧のそばに歩いて行かれた。
ガパン!
そう音を立てて鎧の背が閉まり、ラウル王子はまた鎧を着た。ここからは再び虹蛇に戻るらしい。私が国政をしやすいようにここまで気を使ってくれたことに、私はただただ心服するのみだった。