愛と哀
人間だ。
私は、俺は、僕は、アタシは儂は、◼️◼️◼️・◼️◼️◼️◼️◼️は……人間なんだ。
それは、何もかもを無くしてしまった私に残った、拭い難いなにか。記憶とすら呼びがたい、ナニか。
でも、私は、化け物だ。涙も血も流せない人間以上の能力を持つ者を他になんと言えるだろう?
人間ではない、化け物のイヴ。……イヴ。
聖書を読んだ。ウィリアムのセンスを疑う。私には酷く皮肉な名前だ。年中白衣の優男、アダムに改名すればいい。いや、アップルかな。
イヴはリンゴ食べて知恵と原罪を得たけれど、産まれながらに賢しく、罪深く呪われた私は、だから、これから楽園を追い出されるところなのだろう。
深夜、ウィリアムの腕の中で目を覚ます。
一日中、彼の愛に包まれながら過ごす事に、耐えられない時がある。
静かにベットを抜け出し、チラリと振り返る……起こさなかったみたい。
駆け出す。本気で走る私には風も追い付けず、大地だって気付けない。
深い森の奥の、奥。
月が美しく見える、微かに開けた場所。
喚く、叫ぶ、流れろ涙よ。尽き果てろ血液よ。自分で自分を殺せない生命なんてあっていいんだろうか?
呪わしきはこの生命。憎らしきはウィリアム。……だけど。
好き、大好き。
私を見てくれる、触れてくれる、抱き締めてくれる。そして、いつかは私という醜い化け物を一体この世に残して死ぬ、正しい人間。
ここならどれだけ大きく鳴いても屋敷までウィリアムまでは届きはしない。
……ああ、ああ! ウィリアム! 彼を思うと私の中の激情は熱をますばかりで口から、全身から放出してなお余りある。思えば、この場所も広くなった。
ウィリアムに抱くこの気持ちをなんと名付けよう? 愛? 嫌悪? 悲哀? 憎悪? 依存?
女が男を思うより重く、子が親を慕うよりも強い気持ちが身を焦がす。
この箱庭で私は彼を独占している。醜い化け物に過ぎない私が!
「今すぐに私を棄てて、人の中で幸福を探すべきです」
創造主のことを真に思うなら、発すべき言葉が、どうしても、朝、昼、夜、何時になっても、幾つかの季節を跨いだ今に至るまで、口に出来ないのだ。
この楽園を失うのが恐い。ウィリアムがいなくなることに、きっと耐えられない。
ああ、何故に私はこんなにも弱いのか。悍ましい上にこれでは正に救いがないではないか。
今日も朝がくる。屋敷に帰らなければ。
「神よ、願わくば、荒野に旅立つ勇気を与えて下さりますよう……」
踏み出す一歩ごとに、祈り、思い、心を奮いたたせる。永遠は無い。有ってはならない。夢のような夢を、終わらせなければ。空模様は曇り空、晴れ渡るどころか、嵐になりそうな気配がある。
屋敷に帰ると、珍しくウィリアムが起きていて、私を探していた。
「イヴ! なんだ外にいたのか! 散歩かい?」
「ええ、ウィリアム、あの、私、貴方に言わなければならないことが……」
「悪いけど、後にしてくれ! いつになるか分からないから黙っていた研究が、実を結んだんだ!」
「……え?」
「きっと驚くぞ、これを見てくれ!」
子供のように目を爛々と輝かせるウィリアムの手の中には、分厚い雲の下でも赤々と煌めく……試験管?
「これは?」
「進化薬だよ!」
私は、私の中でナニかに罅が入る音を聞いた気がした。
「ゼロから造るのは不可能に近いけどね、君の血液から培養することは出来ると思ったんだ」
「……」
「いつ結果が出るか分からないから期待させるのも悪いと思って黙ってたんだ。悪かったね」
「……それ、を」
「うん?」
「それをどうする、つもりですか?」
「……おかしなことを聞くんだねイヴ、そんなの……こう」
「……あ」
茫然とする私の眼前で、ウィリアムは全く躊躇わずその、悪魔の薬を飲み干してしまった。それから、顔をしかめて。
「不味いなー流石に味は考慮してなかった」
「何故……なんで飲んだの!」
「え、なんでって」
「貴方は誰より知ってるはずでしょう! 飲んだら、人間じゃなくなるのよ! 二度とは戻れない!永遠に生きる羽目になるのよ!」
「だって、イヴがいるじゃない」
……ああ、ウィリアム。
「大したことじゃないさ。生きているなら僕は僕だろ」
私のため、私のせい、なの?
どうしよう、どうすれば?
このままで、いいわけがないのよでも、手の施しようが……待って。
「今日は素晴らしい日だ。地上に二人目の新種族の……どうしたの?」
予想、疑惑、躊躇、時間が、惜しい、蓋をする。
ああ、神よ、願わくば……。
「……イヴ?」
私に、勇気を。