平穏、或いは……
それからは穏やかな日々だった。
イヴの状態が安定していると見てとった僕は彼女を上の屋敷へと移して一緒に暮らし始めた。
深い森の中、隣家までは車でも三十分はかかる僻地の古びた先祖伝来の石造りの屋敷。祖父が存命の頃は気味が悪くて、僕の方から尋ねることはついに無かった。……悪かったとおもってるさ。
文明という物とはほとんど無縁の生活ではあれど、イヴにとっては刺激的なものらしい。
水に、泥に、葉に、コンロの火に、表情をコロコロと変えてはウィリアム、ウィリアムと呼び掛けるイヴの姿に、僕の心はここ数年であり得なかった高揚と安らぎを得ていた。
もちろん、日々の検診と研究にも余念は無い。変異、あるいは再生、進化は順調だ。
イヴは初日と違って滑らかに歩くことができている。ヒレからもエラからも、寝ている間に卒業できてよかったねイヴ。
採血はとても重要だけど、針を抜いたあとに酒精綿で拭う内に傷口が消えてしまうのにはいまだに困惑してしまう。そもそも君に消毒とかいるのかな、イヴ?
知能面についても記しておこう。
過去の記憶はほとんど喪われたとみていい。名前、家族、どこに住んでいたのか、職業や年齢に関することすら彼女の中には無いようだ。最初の内は性別すらも不安定だったのだから、自然ではある。不慣れながら催眠療法にも手を出してみたが、少なくとも現時点でイヴに過去の記憶が芽生える可能性はゼロだ。
新しく知識を蓄えることについては素晴らしいものがある。まず間違いなく人間並かそれ以上。
祖父の持ち本、僕の持ち込んだ本や書類にDVDを見て、理解に困ったら聞きにくる。そんな時間が僕には何より尊く……おや?
「ねえ、ウィリアム」
「なんだいイヴ?」
「分からないことがあるの」
「僕に分かることなら、なんでも教えてあげるとも」
「私は誰? いえ、なんなの?」
「君は、イヴだろう」
「ええそうね、でも答えになってないわよ。日本足で歩いて高度に考えて高度に道具を使い、言語で意志疎通する……そんな種族は人間だけ、そうでしょウィリアム?」
「そうとも」
「でもねウィリアム、どんなバカらしいフィクション以外のどんな本を読んでも、人間は岩を砕いたり、二階まで跳んだり、火傷をすぐに消したり出来ないのよ。この矛盾はどういうことなのかしら?」
「……」
意外と、遅かったかな、早かったかな、あんまり楽しすぎて時間が流れるのを気にしていなかったから、覚悟していた「いつか」が来たというのになんだか実感が湧かないな。
「話をしよう……コーヒーを淹れよう」