第八話 この世界にサンマは無い
メティス郊外に位置するアドラステア山は、午後八時半まで観光客や登山家の出入りが許されている、王国内でも有名な緑に恵まれた山である。
休日ともなれば一日に訪れる人間の数は約三百人前後で、その多くがロープウェイを使用して中腹地点まで移動していた。
が、圭介らが立っているのはロープウェイの乗り場からやや離れた位置にある麓に近い獣道の入口だ。
メモに記載されている山菜の中には、中腹以上の高度では群生していないものもいくつかあるからだという。
未だ読めない言葉や文章もある圭介だが、パーティ一同が集結した場所のすぐ横に立てかけてある看板からは『立ち入り禁止』という雰囲気をひしひしと感じた(『禁止』は一応読めた)。
「すんげー勢いで主張してくる看板が立ってるけど、ここって僕らが入っていい所なの? 道間違えてたりしない?」
「一般人は麓から中腹までのエリアには進入禁止ってことになってる。野良のモンスターが外から侵入してきたりもすっからよ」
「一応そういうのを防止する意味で国境の警備も機能してるけど、人間のやることだから完璧とはいかないし」
「ですので私達のような一定水準の戦闘能力を有する者のみが事前に許可を得る形で中に入れるんですよ。今回は麓からのコースだけパトリシアさんに手続きをお願いしてあるので、中腹地点までは自由に行き来できます」
「はあ。まあ合法なら特に問題ないか……それで僕は何をすればいいのかな?」
「おう、とりま籠全部持てや荷物係」
「パーティに入って早々いじめかよ慣れてるけど」
高校に入学した翌日からいじめに巻き込まれた身としては日常である。
「アッハハ、別にエリカも意地悪で言ってるわけじゃないよ。滅多にないこととはいえ山の中でモンスターに遭遇したりするからさ。もしもの時に戦闘力のないケースケ君を両手の空いた万全の状態で護衛できるようにっていう意味もあるんだよ」
「そうですね。ゴブリン一匹が相手でも魔術が使えないとなると厄介でしょうし」
「ゴブリン以下なのか僕は……」
「まあまあ、客人が魔術使えないのはあくまでもこっち来て間もない最初の頃だけだから。しばらくしたら私らよりも強くなるって話だし、今は我慢しなよ」
「……そもそも魔術魔術って言うけど、具体的にどんな感じなの。やっぱ火の玉とか出すの?」
その一言に他二人が反応するより先に、エリカが胸ポケットから一枚のカードを取り出した。
赤銅色のそれには黒い文様が描かれており、絵柄の傾向を見るにアガルタ文字とは異なる未知の文字で花を模したものであると推察できる。
そのカードをエリカは右手の人差し指と中指で挟んだまま、頭上にかざした。
「習うより先に慣らしとくか。【案内人に告ぐ 導を示せ】」
詠うように口ずさんだその言葉に呼応するかの如く、カードを中心として風も吹いていないのに何処からか湧いて出た燐光が渦巻いた。
直後にそれらの光は宛がわれたように線の形へと収束し、線は捻じ曲がりながら複数の図形を描いていく。
最終的にまとまったらしいそれら図形の集合は縮小して、カードの表面に何らかの図面を示すように貼り付いた。
「……相っ変わらずマイナーで実用性のない術式ばっか使って全くこの子は…………」
「んだよ。詠唱は短い、消費魔力は少ない、日常で役立つ。いいことずくめじゃんか」
「スマホのアプリで代用できちゃうけどね……」
何が何だかわからない圭介にしてみれば「スゲー」の一言しか出てこないのだが、他二名からの反応は芳しくない。怪訝な表情を浮かべる圭介に、ユーからの説明が入った。
「今のは【マッピング】という魔術で、第六魔術位階という部類の術式です。とはいえ現代では機械の方が同じ効果をより簡易に発揮するので、使う人はそう多くありませんけどね」
「なるほど。アプリで代用できるっていうのはそういうことか。……魔術位階、っていうのは魔術の難しさとか威力とかの段階って認識で合ってる?」
「はい。第一から第六まで存在し、番号が若いほどより高度な術式として扱われます。第六は普段魔術にあまり接点のない人でも簡単に使えるものが多い印象ですね」
「まあ最新式の機械とかで代用されちゃうことも多いんだけどね。普通は魔術って言ったら第五か第四からの話になるんだけど。細かい分け方はまた追々教えてあげるよ」
「あ、ありがとう。思ったより面倒臭そうだな魔術……」
「それよりとっとと移動すんぞ。【マッピング】だってずっと出しっぱなしにしてっとくたびれるんだから」
地図が記載されたカードを手にエリカが先導する。続けてミアとユーも歩き始め、追う形で両手いっぱいに籠を持った圭介も足を動かす。
魔力と思しき燐光で象られた地図もどきは四つの点を示しながら、周囲の光景の移り変わりに合わせて他の図形を動かしている。パーティ四人と森に群生するクルミ科らしき名称不明の樹木を表示しているようだ。
「そういえばそのカードも気になるんだけど。それで魔術を使えるようになるの?」
「グリモアーツのこと言ってんのか?」
聞き慣れない固有名詞が飛んできた。
「魔術を行使するのに必要なデバイスだよ。役所で書類書いて血と一緒に提出すれば誰でも作れるぞ。ケースケも初日に伯母ちゃんに書かされてたじゃん、血印と一緒に」
「……ああ、アレそういうのだったんだ!」
「マジで来たばっかの客人ってなんつーかホント、危険だな。文字読めない相手に書類書かせる伯母ちゃんも人としてどうかと思うけど」
「そこはほら、校長先生も来たその日のうちに最低限の手続きを終わらせておきたかったっていうのもあるだろうから……」
「そりゃそうだけどもさぁ……。グリモアーツでできることって他にも色々あるから、ケースケのが発行されたらちゃんと説明聞いとけよ」
「わかったよ。ありがとう」
接していけばいくほどに、エリカが案外他人に気を遣う性分であることが見えてくる。
普段の行いは決して褒められるものではない。
口は悪いし下ネタも飛ばす、ホームの一件のような大事な話も当人がいない場所で勝手に決めようとする。圭介がこれまで出会ってきた変人共と互角に競える問題児である。
だが彼女の言葉や行いで自分が傷つくところを、どうしても圭介は想像できなかった。
彼女は人を傷つける行為と、傷つけ過ぎる行為の線引きが絶妙なのだ。
他人の心にストレスを芽生えさせるものの、それを長引かせないように振る舞うことで怒りや呆れといった感情を保つことなく人間関係を継続させることができる。
ある意味で大物になれるだけの器はあるのかもしれない。品性はともかくとして。
そしてそんな彼女の態度が押しの強くない圭介にとってはありがたくもあり、気を遣わせてばかりで申し訳なくもあった。
そんなこんなで会話を交わしながら歩くこと十分ほど。
先頭を歩くエリカが声を上げた。
「ケースケ、ちょっとこっち来てみ。ミドリノサラだ」
「お、実はどんなのか気になってたんだよね。どれどれ」
圭介が覗き込んだ先にあるのは、なるほど間違いなく緑の皿であった。
形状は海洋生物のテーブルサンゴに近い。翡翠のような光沢を僅かに放つ鮮やかな緑色の多肉植物で、平らな面は栗鼠の四人家族が団欒を楽しめる程度に広い面積を有する。
根元を見ようとするもそれこそ平坦なテーブルに置かれたマグカップよろしく肉が土中に埋まっていて、全容はわからないままだ。
「……これ食えるの?」
「皮剥いて灰汁抜きして茹でないと食べられないよ。それさえ済ませれば揚げ物だろうとサンドイッチの具材だろうと色々使えるけど。食感は豆と芋の中間って感じかな」
「私は好きですけどね、ミドリノサラ。蒸して細かく潰してから蜜を練り込んだものはジェイド・スイーツと呼ばれて多くのパティシエに幅広く愛好されていますし」
「本当に芋とか豆みたいな扱いだねえ」
事実、これを餡子のように調理してプロが上手く飾り立てれば大層見栄えはするだろう。食紅では決して真似できない、植物が再現できる自然な緑色の極致とも呼べる鮮やか且つ玄妙な色合いは目にも優しい。
「他に鴉草とアブラダケも採らなきゃだし、どんどん持ってけ」
バキリ、と小気味良い音を響かせてエリカがミドリノサラを地面から引き抜く。抜く、というより根ざしている部分からもぎ取るような形である。
フリスビーほどもありそうな植物性たんぱく質の塊は、相応の重量を伴って圭介が持つ籠の一つに載せられた。
「少し歩けばタッパーに入るぐらいのちっさいやつも見つかるだろ。行こう」
「お、おぅ」
籠から伝わるミドリノサラの重みが、圭介に「これから重労働が始まるぞ」と伝えていた。
* * * * * *
クエストは極めて順調に進んでいた。
鴉草やアブラダケも難なく見つかり、持たされた籠は早々に満杯になった。
今は完全に圭介のためにタッパーへ詰め込む時間が設けられているが、それでも予定より早く終わりそうだというのだから余程の収穫だろう。
「帰りに調味料も買わないといけないね圭介君。いやあしかしこんなに見つかるとは」
「お前ら【マッピング】さんにお礼言えよ。これまでに採れた山菜全部、この【マッピング】さんが見つけたようなもんだぞ」
「はいはい、ありがとね」
「お世話になります」
「ウン、ドウイタシマシテ!」
裏声で腹話術しながらグリモアーツを振り回すエリカを横目に、圭介はタッパーに詰められるだけ詰め込んだ本日の成果を確かめた。
食いでのありそうなミドリノサラは椎茸の傘程の小さいものを十一、二個。
黒く鴉の頭部にも見える花蕾を有する鴉草は二十個ちょっと。
ミョウガに類似しているような気もするが、聞けば風味はアスパラのそれを少し強くしたものに近く、塩を軽く振りかけて茹でるだけでも素材本来の旨味が強く主張するという。
一旦火を通せばそれなりに日持ちもするのは圭介にとって嬉しい話だった。
かさばる為に五つほどで観念したのがアブラダケ。
これは豚肉の脂に似た襞を幾重にも重ね合わせたような外観の白い茸だ。食感はバリバリと頼もしく、アブラという割には汁物を吸う性質があることからスープの具に適しているとのことである。
素朴で優しい甘味を持つが子供からは「見た目が気持ち悪い」、高齢者からは「噛み切れない」と不評らしい。
両腕にかかる籠の重みが少し辛いが、その辛苦を食欲と知的好奇心が上回る。
「結構な量を確保できましたね。これならパトリシアさんも喜ばれるでしょう」
「僕としても楽しみだよ。向こうの世界にはない食べ物だからね。……逆に、こっちの世界にない食べ物とかってある?」
「先に言っておくとサンマはねーよ?」
「うわああああぁぁぁ…………マジか!!」
思わず大声が出た。
というのも、圭介は白身魚をこよなく愛する日本人舌の持ち主なのだ。特にサンマの内臓は人によって好き嫌いこそあれど、他の白身魚には見られない独特な苦みでもって彼の嗜好に絶妙に応えてくれていた。
それが、この異世界では食べられない。
好物が存在しないという事実は、食欲旺盛な十五歳男子にとって耐えがたい苦痛であった。
「何でよりにもよってサンマなんだよ! 鱈と鯖とかならどっちかなくてもあんま味違わないからもう片方で代用できるのに!」
「それは両方あるんだよねぇ……」
「そんなにサンマという魚は美味しいのでしょうか。少し気にはなりますけれど……」
「ああビーレフェルト、マジでビーレフェルトくっそ! 絶対に元の世界に帰ってやるからな!」
声高らかに宣言したところで、グリモアーツの【マッピング】を見ていたエリカが何かに気付いたようにピクリと眉を動かす。
「……ケースケ、静かにしな。他の二人も、ちょっとこっち来て隠れろ」
「え、何?」
誘われるままに草むらに潜り込む。四人で入るとなると男子として気になる密着状態が発生したが、他の三人はそれほど意識していないように見えた。
「もしかしてゴブリン? それとも隠れるほどってことは熊?」
「いんやちげぇ。もっと厄介なのだ」
一体何が、と圭介がエリカの視線の先を追うとほぼ同時に。
「おい、この辺りにいるんだよな?」
「間違いないよ。入っていくところを見たからね」
複数名の男が山道からわざわざ外れて、声が届く距離まで来ていた。
そして圭介は知ることとなる。
異世界には、自分を歓迎する者しかいないわけではないのだと。