第七話 たばこや
「ここが例の依頼主の家かー……」
校門を出て目の前にある大通りを右に曲がり、ひたすら道なりに歩いていく中でエリカに「通り過ぎてんぞ」と指摘された地点にて。
勇み足の圭介と呆れ顔の三人娘が到着したのは、件の常連客が住まう建物であった。
が、その外装を前につい先ほどまで浮かれていたはずの圭介は真顔になってしまう。
「…………あんまりだ、こんなの」
「どうしたよ」
「もう文字が横に流れていくタイプの電光掲示板と、そこに表示される店舗の宣伝や病院だの風呂屋だのの案内は許せるよ。川原に聳えるブルーシートハウスも汚い便所の臭いが漂ってくる工事現場も受け入れられる。でもさぁ、ゴリゴリのひらがなで『たばこや』ってのは流石に我慢ならねぇよ僕だって!」
鉄の骨組みによってピンと張られた赤い雨除けには、圭介の言う通り完全に日本のひらがな表記で店名が記載されていた。
白く印刷された文字はどことなく年月を感じさせるように所々が掠れており、布地の赤みもくすんでいる。
一応彼らを取り巻く風景は、何から何までもが現代日本のような色を帯びているというわけでもない。
もはや名残程度に残されているらしい遠方に見える高い壁は、恐らく国境をなぞる形に建築された城壁だろう。
コンクリート建ての学校を見てからだと石材で固められたカーテンウォールの佇まいには違和感を覚える。
こういった建築技術には圭介が住んでいた世界で表現するところの、古代ローマの文明レベルに通ずるところがあった。ゲーム的と言っても差し支えない。
反対に未来的な要素も細かいところで見られる。
街路灯らしき公共設備に誂えられた未知の原理で浮遊する緑色の立方体や、ターミナルスクウェアと思しき塔の側部中空に画面も無いのに表示される天気予報。
中でも最たるは浮遊島の周囲をぐるりと取り囲む形で回り続ける光の帯だ。圭介の読解能力では意味を読み取る前に文字がささっと流れてしまうが、内容としては近況のニュースを流しているものと思われる。
即ち、走っているのが昭和八十年代の車であろうと聴こえてくる言語が日本語であろうと、「異世界に来た」という実感を得るには充分な環境がそこには存在しているのだ。
それだけに『たばこや』の残念さが際立つ。
「ってことはやっぱり、ケースケの世界の建物を忠実に再現してるってことか」
「忠実も忠実だよ。探せばウチの近所に絶対あるよこの手の建物。どうしてよりにもよって日本語のひらがななんだよ……ちょっとアレンジ加えて形崩したアルファベットやキリル文字ならまだギリで許せたのに…………」
「何をそんなにカリカリしてるんだ。何? 男の子の日?」
「中途半端に自分の住んでた世界の要素出されてイライラするんだよこういうの見せつけられると! 正直言うともうちょっとこう、風車小屋とかでかいベル付きの教会とかそういう建物をイメージしてたんだよ僕としては!」
何度目になるかわからない異世界へのイメージ崩壊だったが、今回のはとびきり衝撃的だった。
海外の空港で日本語の案内板を見るのとはわけが違う。前人未到の秘境でピンク映画の広告を見つけたような圧倒的違和感が精神を汚染していた。
「風車小屋なら田舎に行きゃああるし、教会も郊外の方に出ればあるぞ? あんなところに寄り付くなんて相当熱心な信者くらいなもんだけどな」
「あんなところて、んな罰当たりな」
「あーやっぱわかってねえなコイツってば。いいかケースケ、よく聞くんだ」
エリカが真顔で圭介の両肩をがっしと掴む。その表情はいつになく真面目なものだった。
「そういうのって客人特有の勘違いらしいから今のうちに言っとくが、おたくらがいた世界がそうだったようにあたしらンとこの時代も変わるんだよ。今時マジで神様信じてるのは国民全体で見ても少数派、昔ダンジョンだのなんだのと言われてた迷宮は改築に改築を重ねてその大半がでけぇ駅や団地商店街に生まれ変わってる。エルフの森が排他的だったのもここ十数年で少しずつ改善されてユーちゃんみたく街に出てくるエルフだって珍しくねえし、馬車は金持ちくらいしか使わない効率の悪い乗り物として需要は低下する一方だ。つまりだ、お前らが期待してるような“異世界”なんつーもんはビーレフェルトじゃサブカル臭いフィクションの世界か歴史の教科書にしか載ってねえのさ」
「色々とズタボロだよ! ごめんね変な期待しちゃって!」
長ったらしく同時に世知辛い話だった。
「もうちゃっちゃと仕事始めようよ。すいませーん、アーヴィング国立騎士団学校の者ですけどもー」
ミアがノックと同時にそれなりの声量で挨拶すると、はぁい、という呑気そうな声と共に『たばこや』の扉が開いた。
出てきたのはやや小太りの老婆だった。顔に走る皺の様子から見て年齢は七十代半ばととれるが、ぴんと立った背筋にしっかりと胴を支える両足からは事前に聞かされていたような足腰の不便は感じられない。
両の頬を覆うように下がった白い巻き毛の隙間からは、老いと肥満を伴いながらも損なわれない可愛らしい相貌が見える。
ただし圭介の視線は彼女の頭部に生える羊にも似た二本の角と、蝙蝠のそれを想起させる双翼に注がれていた。
サキュバスである。
サキュバスのおばあちゃんである。
サキュバスのおばあちゃんが、とても優しげな微笑みを浮かべている。
「まぁいらっしゃい。今日も来てくれたのねえ、ありがとう。やっぱり年を取ると足腰からダメになっちゃっていやぁねホントに。あらま、まあまあそちらが噂の客人さん? 可愛いお顔してるわあ、若い頃の主人そっくり」
「えっ、あっ、はい。どうも、東郷圭介って言います」
サキュバスの老婆はずずいと圭介に接近してきた。よほど客人と出会えたのが嬉しいのか、背中の羽がぱたぱたと激しく動いている。
「いけない私ったら年甲斐もなく興奮しちゃったわ。自己紹介が遅れてごめんなさいねぇ」
朗らかな人柄が滲み出ている微笑みはどこまでも親しみやすい。
「こちらの『たばこや』を経営しておりますパトリシア・ケアードです。ウチの主人もあなたみたいに黒髪の客人だったのよぉ。それに優しくて強くて、も、あの頃は女同士で取り合っちゃったりして。んもう大変だったんだから。特にハーフエルフのマーシーなんてメンバーの中じゃあ一番おっぱいが大きいんだもの。あの人が胸よりも内面を見てくれる人で良かったわあ」
「そ、そうスか」
「ばーちゃん、ばーちゃん! 客人見て浮かれてんのはわかったから、雑談やめて仕事の話してくれよ」
老婆のマシンガントークに圧倒されていると、珍しくエリカから助け舟が入る。
「あらあら、ごめんなさいね。それじゃあ中へどうぞー」
「お邪魔しまーす」
完全なる圭介の偏見ではあるが、サキュバスにあるまじき優しい笑顔と共に室内へと通される。
様々な煙草のケースがしまわれた棚同士の狭間を抜けるように進み、辿り着いたのは圭介も薄々想像していた和室だった。
日本人にとっては馴染み深い畳の床に漆塗りの箪笥、天井から吊るされる紐付きの電灯。座布団に不慣れなビーレフェルトの住人に配慮したのか、部屋の中央には掘り炬燵が設置されている。
ここまで徹底されると夢見がちだった圭介も流石に諦めがつくというものだ。
主要なメンバーが揃って掘り炬燵に座ると、パトリシアは続いて座りながら懐から手の平大ほどの紙を取り出した。
「さて、じゃあ依頼内容の確認からしましょうか」
紙に書かれている文字列は勉強によっていくらか知識を得た圭介でも理解できない単語が縦に並んでいる。とはいえ恐らく山菜の固有名詞なのだろう、という予測は可能である。
「今日貴方達に採って来てもらうのは、ふきのとう、ノビル、ヨモギ……」
一つ一つの単語を指差しながら読み上げるのは、客人である圭介に向けたパトリシアなりの思いやりであると思われる。
「あと客人さんにとっては聞き慣れないと思うけど、ミドリノサラ、鴉草、アブラダケもね。後で籠をいくつか渡すから、紙に書かれているものを入れられるだけ入れてきちゃって。それ以外にも何か容器が必要なら言ってちょうだい。決まった量以上採れたら天ぷらにしてあげるし、余った分は持って帰っていいから」
「マジっすか! ちょっとタッパーあるだけ貸してもらっていいですかね、意地汚くて申し訳ないんですけど」
「許してやってよばーちゃん。コイツ昨日こっちに来たばっかで金が無いんだ……」
エリカの憐れみなど耳に入ったかどうかさえ疑わしい。それよりも食い逃しを生じさせないほうに、圭介の神経は動いた。
先に挙げられた食材のいずれも寡聞にして知らない。
昨日までに圭介が口にした食物と言えばガーリックライスと燻製肉、夕飯にエリカが持ち込んでくれた焼きそばらしき何か、朝食にその焼きそばの余り。
昼食はレイチェルが用意してくれていた菓子パンを二つ。
いずれもありがたくはあったが「次の飯はどうするんだ」という不安は正直なところあった。
そこに舞い込んだ山菜の話は、現状その日暮らしを半ば強いられている圭介にとって天から垂れる蜘蛛の糸だ。
「知らない山菜については女の子達の方が詳しいだろうから、聞きながら集めるといいわ。あと最近山の方ではちょっと危ない人達が出入りしてるって話もあるから、なるべくそういう人には近寄らないようにね」
「何それ怖い。山賊とかは僕らの管轄じゃないとか言ってなかったっけか。避けて通った方がいいんじゃないの?」
「あー山賊というか……まあ、現地で遠くから見ればわかるよ。もし近づいちゃっても命のやり取りとかにはならないから安心して」
歯切れの悪いミアと苦笑するユーはその”危ない人達”なるものに心当たりがあるようだ。
本格的な危険人物というよりは七面倒な厄介者といった扱いが透けて見えたことから、圭介は「そういう意味」で危ない人種なのかと勝手に得心した。
「そんじゃ行こうか。先に外出て待ってるから、ケースケ君は早くタッパー借りてきなよ」
「あいよー。すんませんパトリシアさん、このご恩は必ず返しますんで」
「いいのよぉそんなにお気になさらず」
早く来いよ、と言い残してエリカ達は一足先に外に出る。
圭介の方は一旦パトリシアと共に台所まで移動した。水垢一つ見当たらない清潔なシンクは圭介の実家のものよりも気を遣って管理されているのが見て取れる。
「主人は生前水回りのあれこれにうるさい人でねえ。なんでも向こうの世界では清掃関係のお仕事をしていたとかで」
「ああ、僕の父親もその辺はうるさかったな。あっちは専業主夫でしたけど」
エプロンを身に着けた父親の姿を思い出す。「水一滴でさえシンクには一生モノの傷がつくんだよ」と懇切丁寧に説明してくれた。その内容の大半は聞き流していたので思い出せそうにもないが。
しかしその父親をも上回る清掃能力を配偶者に与えるとは、やはりプロなのだなと圭介は感心した。
「ケースケ君、でよかったかしら」
「はい」
「あの娘達とはまだ会って日も浅いでしょうに、仲良しさんねえ」
「いやあ、結構前のめりにコミュニケーション取ってくるのが一人いますんで。多分あいつのおかげっすね」
「エリカちゃんね? あの娘はねぇ。本当に明るくて、誰とでも仲良くなろうとするから」
言いつつパトリシアは壁掛けの棚から大きめのタッパーを三つほど取り出した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。これでしばらくはどうにか食いつないでみます」
「食べるのに困ったらいつでも来なさいな。若い人向けのおかずを作るのは苦手だけれど、腕によりをかけて待ってるから。代わりに向こうの世界でのお話を聞かせて欲しいわね」
「……はい、そんなんでよければいくらでも」
つくづく人に恵まれた異世界転移だ、と圭介は破顔した。
最初こそ軽犯罪の汚名を被せられても逃れられないような状況から始まったが、それを気に掛けることもなく話しかけてくれる同年代の学生の面々。
多少厳しくも生活面でのサポートからメンタルへの配慮も欠かさずしてくれる教師陣。
そして目の前にいるクエストの依頼者にしてもそうだ。多少の社交辞令もあるだろうが、圭介の食生活を案じてくれている。頭は上がらず足を向けて眠れない出会いが充実していた。
「本当に色々とありがとうございます。んじゃ、僕も行ってきますわ」
「はい、いってらっしゃい。気を付けるのよ」
「気を付けて」というこの簡単な一言。
幼い頃、友人が母親に言われているのを見て「羨ましい」と思っていた言葉だ。小さい内から悪戯ばかりしてきたせいで殺しても死にそうにないと思われてきた圭介にとって、彼女の言葉は少し胸に来るものがある。
「エリカちゃんとは仲良くしてあげてね。きっと、そうした方がいいと思うの」
不安定になってきた精神に周囲の優しさが沁み込んだからか。
「? はい、もちろんですよ」
続けて投げかけられた言葉に込められた意味を、この時の圭介はまだ掴めなかった。