プロローグ コップの水が踊る部屋
小刻みに揺れる木組みの部屋の中、壁に取り付けられた簡素なランプの光と円状の小さな窓から伸びる日光に照らされながら圭介はテーブルに置かれたコップを見つめていた。
ペットボトルから注いだ水はコップの容量を超過して尚、表面張力に支えられて器の外にはみ出すことがない。
その盛り上がった水を、圭介はグリモアーツを【解放】させずして【テレキネシス】で持ち上げる。
「いよっ……っと」
かなりの集中力を要しながらも、球状にまとめようとした彼の努力を嘲笑うかのように持ち上がった水は金平糖のように歪な形状を見せていた。
加えてその勢いでいくらか水が零れてしまい、思わず溜息を漏らしそうになる。
だがそんなことをしてしまえば今持ち上げられている分の水すら満足に操れはしない。
「ふぎいっ……」
声を絞り出すという行為にどれほどの意味があるのか定かでないが、やっているのは不慣れな力任せの魔術。
ほとんど無理に持ち上げた水の形状を変化させる暇もなく、徐々に形は崩れてテーブルの上にだらしなく広がった。
「……はぁ、やっぱ難しいってか無理に近いなこれ」
落胆の溜息をこぼしながら零れた水を拭き取り、コップも洗ってシンクに程近い位置にある棚へと戻す。
しょんぼりと落ち込む自分の顔をパンッと両手で引っ叩き、喝を入れた。
「いや、まだだ。できるまでやるんだ。諦めるわけにはいかない」
珍しく独り言を呟きながら彼が次に向かったのは、部屋に備え付けられている固定電話。
一般用ではなく限られた領域内でのみやり取りが可能となる電話回線を経由して圭介が連絡するのは、仲間であると同時にちょっとした憧れの対象でもある一人の少女であった。
『――はい、こちらユーフェミア・パートリッジです。えっと、ケースケ君でよろしいですか?』
ビーレフェルトに来て間もない頃は毎日聞いていたはずの彼女の敬語に多少の違和感を覚えつつ、「うん」と答える。
「そろそろ外装磨きの時間だから、しばらく部屋の電話出られないと思う。何かあったらスマホにかけてね」
『わかった。気をつけてね』
相槌を打って通話を切り部屋から出ると、やや狭い通路に出る。
この通路を部屋の扉から見て右側に真っ直ぐ進むと曲がり角に掃除用具入れがある。圭介はそこからデッキブラシとバケツ、雑巾を取り出して【テレキネシス】で浮かび上がらせながらまた先ほどの部屋へと戻った。
(いちいち取りに行くくらいならいっそ部屋に置いときたいよ僕としては……)
シンクの蛇口にホースを繋いでバケツに水を溜める。
魔道具であるこのバケツは常に中身を零さないという特性を持っていて、つくづく魔術の利便性を叩きつけられるものだ。
元の世界に戻りたいと願っている圭介としては、あまりこういった物品の扱いに慣れたくない。
部屋の隅には上へと続く梯子が備え付けられている。これを登ると天井が低く横に広いスペースに出るのだが、ここにも彼が持ち運ぶべき物が置かれていた。
「えー……っと。三つだったな」
言いながら隅にまとめられている四角い包みを三つ浮かばせて、その包みの山に近い場所から更に上へと続く梯子を登る。
頂点に達すると円状の蓋にも見える出入り口があり、これのハンドルを回して上へと持ち上げた。
開けた先に顔を出した途端、強風に顔を叩かれる。
どれほど高い位置にいるのか。少なくともそんじょそこらの家屋の屋根に上ったとしてもこの風には至るまい。
高層ビルの屋上と同等の高度と見られるその風景は、足場全てが金属板に覆われている。左右に視界を動かせば彼がいる場所が決して平坦な床ではない、緩く湾曲している場所であるという事に気付くだろう。
「【解放“アクチュアリティトレイター”】」
懐のグリモアーツを【解放】し、出現した“アクチュアリティトレイター”に足を乗せる。
「【天にも地にも理在り 故に境を並べて等しきを知る】」
そしてすぐに【コンセントレイト】も使用。街中の低空飛行ならまだしも、ここまでの高所ともなれば一瞬の油断が致命傷になりかねない。
恐怖を緩和し、これからの作業に没頭する準備を済ませた。
ふわり、と掃除用具もまとめて浮かび上がると眼下の景色が嫌でも目に入る。
「………………」
ベージュの砂ばかりが延々と続くその光景を、人は砂漠と名付けて呼んだ。
水気の無い場所で責め苦を与えてくる夏日の日差しは生半可なものではなく、自然というものが生命体の為に用意されたものではないのだと主張するかのようである。
つい先ほどまで冷房の効いた部屋にいたせいかまだ汗は滲み始めたばかりだ。
このままとっとと始めてしまえ、とバケツに雑巾を入れる。どうせすぐに乾いてしまうのであまり水が抜け過ぎない程度に絞らなければならない。
「しかしまあ」
デッキブラシを肩に抱えつつ、圭介はこれから自分が磨き上げなければならないそれを眺める。
「でっけぇよなあ……」
軋むような音を響かせながら砂漠を進む、煙と煙突と金属板の塊。あまりにも巨大なそれの全容は繭にも似ていて、付属するいくつもの硬く大きな車輪が前へ前へと進めている。
その中に一万人を超える住民が生活していると知った時には少年心を揺り動かされたものだ。
――移動城塞都市ダアト。
圭介が訪れた二ヶ所目の遠方訪問先にして、過酷極まる修行の場であった。




