第十八話 ダグラス・ホーキーの魔術
エリカとテディがわざわざ部屋まで来てくれた日の夜二十二時、アスプルンドのアーケードを私服姿の圭介が一人で歩いていた。
腰のベルトにクロネッカーを納めた鞘を括りつけているものの、ワイシャツに薄いズボンという出で立ちは戦いに赴く身として違和感を拭えないような軽装だ。
彼の現状を知っていれば誰もがそれを愚挙、あるいは暴挙と呼んだだろう。
殺人鬼に身を狙われている立場にありながら人気のない夜の郊外を一人で歩くという自殺行為。到底褒められたものではない。
だがこの日の夜は警戒網を敷き詰めて常に街中を巡回している騎士の姿も見えなかった。
いっそ不自然なまでに彼の一人歩きを許容する夜の街で、コツコツという足音だけが響く。
向かうのはアスプルンドに来た際に通った出入り門ではなく、ルンディア特異湖沼地帯へと続く一般道。
調査隊に属する者が日頃ほぼ隊員共有の自家用車と化している社用車で移動するその道の前で、圭介は胸ポケットからグリモアーツを取り出した。
「【解放“アクチュアリティトレイター”】」
鶸色のカードが一瞬光り、柄を有する長い金属板となって一瞬空中に静止する。そして圭介の【テレキネシス】を受けてすぐにするりと彼の足元にまで移動した。
「全く、こんなの向こうの世界じゃ当たり前にできないってのに。毒されちゃったもんだなあ」
その声には嘗ての日常から離れつつある現状への哀愁が込められていた。
切なげな独り言を夜空に吸い込ませて“アクチュアリティトレイター”の上に足を載せ、ふわりと浮かび上がる。
自分の魔術以外に支えのない状況だが、もう恐怖心を紛らわせる為の【コンセントレイト】は使わない。
彼自身も驚くほど早い段階で、魔術を用いて空を飛ぶという行為に慣れてしまっていた。
* * * * * *
圭介が無言のまま着陸したのは調査隊が日頃朝礼をする為に集合している広場だった。
まだ本格的に特異湖沼地帯に踏み込んでいないこの場所なら防護を目的とした作業服やヘルメット、マスクの着用は必要ない。
それを知ってか圭介も特に何を厭うわけでもなく、“アクチュアリティトレイター”の先端を地面に突き立て柄に右手を添えた状態で自身が入ってきた現場への出入り口をじっと見据えていた。
「………………」
そのまま五分を過ぎた頃だろうか。
遠慮も警戒も感じさせない、スタスタという足音が耳を掠め始める。
少しだけ強張る圭介の表情と無関係に近づくその音は、やがて一人分の人影を伴って広場の内部に侵入してきた。
獰猛な笑みを浮かべる表情に被さるフード付きのパーカー。
強力無比な大矛のグリモアーツ“エクスキューショナー”。
何よりも、圭介に向けられた隠す気もない傲岸不遜な殺意。
「ちっす。早めに再会できて嬉しいじゃねえか客人」
最低でも五人の客人を殺害している排斥派の連続通り魔。
ダグラス・ホーキーがそこにいた。
「うっす。できれば一生会いたくなかったぜ排斥派」
まだ声が震えるものかと思っていたが、圭介自身にとっても意外なことに不思議と声は自然に出せた。
緊張を悟られずに済んだと喜ぶ以上に恒常的な生命の危機を受け入れつつある自身への悲しみが、一般的な感性を持っていた彼にとっては辛いところである。
「結構言うじゃん、お前も」
圭介の返しをダグラスは口笛まで添えて称賛した。
挑発混じりの軽口は通用しない。軽薄な態度から決して賢い相手ではないのではないかと油断しそうになっていたと圭介は自分で自分を戒める。
相手は客観的に持たれるイメージよりもずっと冷静であり頭も回る難敵なのだ。
「だがよかったのかよ? こんな場所まで来ちまったらどんなにデケェ声出したって助けなんざ来ねーぜ? お前弱いんだからさあ、無謀な真似しない方がいいってマジで」
「これからその弱い奴を殺そうとしてる奴が何言ってんだか」
「これから殺す相手にこうしてアドバイスしてやってんだっつの。メッチャ優しいじゃん俺、尊敬されるべき人格者と思うんだがどうよ?」
「とりあえずメッチャ優しい人格者はそんな笑いながら理不尽に人を殺したりしないと思うんだ僕」
警戒を怠らないままではあるものの、流石の圭介も目に余る独善的な物言いには呆れ果てた。
「つーか僕がこれから一方的に殺されるのが確定してるような言い方やめてくんないかな。こっちとしてはお前をぶっ飛ばして騎士団に突き出す気でいるんだからさ」
追われる側の圭介も、窓の穴を見た時からある程度正面衝突する覚悟は決めていた。
というより、いざという時に反撃する為の準備をヴィンスの襲撃以来怠らずにいたのだ。
懐には日本円硬貨、服の袖には先日秘密の場所に展開した罠に用いて尚余らせた折り畳み傘の骨組みを数本仕込んである。
「ハン、よく言うぜ。それだけ吠える以上は俺の魔術が結局何なのかわかったのかよ? あれからしばらく経つだろうがよォ」
今度はあちらから挑発が飛ぶ。
圭介とて忘れていない。彼の言葉に気を取られ、一度死にかけたのはつい先週の出来事だ。
見知った顔の訃報と比べればこの程度の煽りは涼風に等しい。
「合ってるかどうか不安だけど、まあある程度『これかな』っていう推測はしてるよ」
瞬間、ダグラスから漂っていた殺意が少しだけ揺らぐ。
どうやら見破られまいとしていた自分の手の内が露見した可能性に、仕事人として興味を持ち始めたようであった。
「……へぇ。言ってみろよ、見事正解してたらご褒美にちったぁ楽に殺そうって気になるかもしんねェ」
「絶対嘘だろ。まあいいや」
一応は左手をクロネッカーの柄に当てつつ、圭介がこれまでに見てきたダグラスの行動から組み立てられた簡単な想像を口にする。
「あの日、最初にお前の蹴りを喰らった時に僕は違和感を覚えた。膝を一度折るだとか足を一旦後ろまで引くというプロセスも踏まずにただ真っ直ぐ突き出しただけの蹴りなら、あんな威力にはならない」
「お前が特別打たれ弱かっただけなんじゃねえの?」
せせら笑うダグラスに圭介も嘲笑で返した。
「舐めんな、実家にいた頃は小学校低学年の時点で母さんから日常的に暴力を受けてたんだぞ僕は。高い威力での蹴り技くらいそれなりに精通してるし、その辺歩いてる連中よりはずっと痛みに慣れてるんだよ。疑うならまだちょっと痕が残ってるとこ見せてやろうか?」
「お、おう……別にいいわ。遠慮しとく」
「そこでドン引きすんのやめろや。とにかく、お前の魔術は身体強化系じゃない。ここまでは騎士団でもある程度固められてた結論だ」
『ここまでは』。即ちここから先は騎士団でも及んでいない領域の話になるという合図である。
事実として圭介ですらその先に踏み込んだのは自宅待機中での偶然が切っ掛けだった。
「次に、僕が硬貨を【テレキネシス】で投げつけた時のこと。あの時お前は全ての硬貨を避けるどころか防ぎすらせず、当たった一円玉は触れた先から力を失って地面に落ちていった」
使ったのは命と比べれば安い買い物とばかりに捨てるつもりで投げ飛ばした一円玉数枚。軽いそれらは威力など期待できなかったが弾速は他のどの硬貨よりも速かった。
それほどの軽さなら、とある必然があるはずだった。しかしそれが無かったという事は、どこかに不自然が紛れ込んでいたのだろう。
「そんで鉄砲代わりに使った硬貨はその軽さから考えると不自然なくらいに跳ねることなく地面に縫い付けられた。あの大きさと材質でアスファルトの上に落とされて、一度も跳ねないってのはおかしい」
「おいおい、勿体ぶった言い回しして時間稼ぎかよテメェ――」
「お前は力関係を変えたんだ」
結論を急ぐように促す声を迂遠な結論に遮られ、しかしダグラスは言い返さない。
目の前の客人が本当に自身の魔術を看破している可能性を見出したが故に。
「下から上に向かう力と、僕の【テレキネシス】によって生じた前から後ろへと向かう力。普通に発生している重力や運動量に気を取られがちだけど、その力はあらゆる動きが発生する場所にある」
もしも圭介が自宅待機を言い渡されず、退屈凌ぎに荷物の整理をしなければその解答には辿り着けなかったかもしれない。
もしも圭介の黒歴史ノートが中学時代に授業用として用いていたものでなければその発想には至れなかったかもしれない。
「だからあの一円玉は射出した時以上の威力を得て僕に飛んで来た。僕の力だけじゃない、重力すらガン無視して飛ばされたんだから」
最大の幸運は使い回したノートが理科のノートであったことだろう。
中学時代、一応は真面目に授業を受けていたのが功を奏した。
そこに大きなヒントが、解釈によっては解答が書かれていたのだ。
「お前は魔術で“抵抗力”を操るんだ」
その言葉を受けて、今度こそダグラスは明確に瞠目した。
物理現象において発生する抵抗力とは、端的に言えば外力に耐える力を意味する。
例えば人が椅子に座るとした場合、重力が働いていなければ座ろうとした体と椅子とが接触した瞬間に抵抗力だけを発生させて互いを遠ざける。
逆に抵抗力が働いていない状況で座れば、重力に従った肉体が椅子へとめり込んで体と椅子のどちらかあるいは双方が破壊される結末となるのである。
ダグラスは魔力付与に該当する第五魔術位階【リジェクト】によって自身に衝突する物体に働く抵抗力を増幅し、手足を動かさないままに事実上の防御を実行できる。
圭介の一円玉を防いだのもそれによるものだ。
次に地面から一円玉硬貨に向けて発生する抵抗力を調整して跳ねさせずに留める。
その後自身への抵抗力と重力への抵抗力を合わせて圭介に放つことで、より凶悪な威力を有する弾丸としたのである。
更に圭介の体と自身の足が接触する瞬間にも発動することで足に発生した抵抗力を飛躍的に増幅させ、触れる程度の挙動で蹴りに匹敵する攻撃力を獲得した。
これを魔力で一時的に作り出した足場にも応用して空中での跳躍移動をも可能とするのである。
のみならずグリモアーツ“エクスキューショナー”にも第四魔術位階【タッチチョッパー】を付与してありとあらゆる物質に発生する抵抗力を無効化、刃を一方的に沈み込ませるという力技による絶対的な切断を実現した。
一見してまとまりのない彼の魔術は、全て圭介の言う通り“抵抗力”によって実現されたものだったのだ。
「筋肉を硬質化させるヴィンス先生がお前に殺されたと聞いた時にはそんなに力が強いのかと思ったけど、ただ相性が悪かったんだ。その魔術相手に防御力をいくら上げてもどうしようもないもんね」
「…………クハッ」
圭介の話を聞き終えたダグラスは、舌打ちと聞き違えそうな小さな笑いを零した。
「クハ、ハハハッ、カヒャハ、ヘェハハハハハハッハッハッハアハハハ!!」
大矛を持たない左手で腹を抱え、耐え切れないとばかりに顔を上に向ける。同時にフードがずるりと落ちて、白い髪と狼のものと思しき耳が露呈した。
白狼族の生き残りという説は間違っていなかったようである。
「ああ、いいなあ! 最っ高だなあ! 初めてだ、今までいなかったぞそこまで突き止めた客人はァ!」
よほど隠してきた自身の魔術を見破られたのが面白かったのか、“エクスキューショナー”の先端を乱暴に地面に叩きつけてまだ笑う。
一しきり笑ったことで、落ち着きを取り戻した様子のダグラスがニヤつきながら答え合わせに入った。
「おうよ、お前の言う通りさ。俺の魔術は物体に働く抵抗力に干渉するってモンだ」
あっさりと正解である事を認めたダグラスに今度は圭介が怪訝そうな顔になったが、続く言葉が余計な会話を封じた。
「あー畜生こりゃ認めるわ。お前は強いし賢いしおもしれぇ。改めて名乗るぜ、俺の名前はダグラス・ホーキーってんだ。お前は?」
元々場違いなまでの馴れ馴れしさだったのが、より強まったようだった。
まるで教室で近い席に座る相手と会話するかのような態度に戸惑いつつ、圭介も応える。
「……東郷、圭介」
「トーゴー・ケースケ、な。客人の名前をこうもしっかりと覚える日が来るなんてなぁ……クックククク」
また笑いそうになるのを必死に抑え、ダグラスは大矛“エクスキューショナー”を構えた。
「んじゃ始めようか。お前とならどこまでも楽しめる気がしてならねえ、期待してるぜ」
結局殺そうとするその一貫性に感心しつつ、圭介も右手に“アクチュアリティトレイター”、左手にクロネッカーを持って二刀流の構えに入った。
が、まずは口を動かす。
「あのさ、ダグラス」
「あ? ンだよ、興醒めするような話なら無視すっからな」
「いや、無視はできないと思う」
何だ、とダグラスが先を促そうとするのとほぼ同時。
彼の背中に突如飛んできた何かが接触した。
その際にダグラスが行った対応は、これまでの経験から培われたほぼ反射に近い速度での自己防衛。
触れた瞬間に自分の体から外側に向かう抵抗力を増幅して一旦はその未知なる存在を静止させるという、彼にしてみれば何よりも信用できる最高の対応手段。
だが圭介はその無意味さを知っている。
「ガハァッ……!?」
結果としてダグラスは背中を叩く強い衝撃に吹き飛ばされ、圭介の足元まで転がり込んだ。
「あ、ぁああ!? 何だ、何が……」
「まあ僕がこれから戦うってタイミングで声かけたのもお前を油断させる為だったんだけどさ」
圭介の声に呼応するかの如く、暗い広場を唐突な白い照明が照らした。
そこにあったのは、三台の車両。
一つはワゴン車、二つは軍用車と思われる頑強そうな四輪。
ルンディア特異湖沼の地質調査隊が持つ社用車と、メティス、アスプルンド各々の騎士団が持つ戦闘用車両であった。
「てっめ、まさか仲間ァ呼んでやがったのか……!?」
「そうともさぁ! お前を罠に嵌めたんだよぉ!」
武器を握ったまま両手の人差し指を驚嘆するダグラスに向けつつ、圭介が愉快そうに笑う。
「僕のケツ追っかけるのに夢中になって、遅れて後ろから僕が声かけといた人達がゆっくり近づいてたことも! あの人達がお前に追いついて、ちゃんと戦闘準備に入れるように長々とお話して時間稼ぎしてたことも! お前は気付かなかったみたいだけどゴメン僕も形振り構ってらんないんだわ! だって死にたくないもんよ!」
いい笑顔だった。
「そしてどうやらテメェの魔術に絶対の自信があったみたいだが、あたしという天敵がいることを想定してなかったようだなぁ」
高揚した気分をそのまま声にしながら、今度は地質調査隊の社用車からエリカが飛び出した。
「着弾をトリガーに炸裂する魔力弾は初見かよ通り魔坊や。安心しな、二度と見なくて済むようにしてやる」
そう言って懐からラップに包みこまれた小さな棒状の何かを取り出した。
「この便所掃除に使った歯ブラシを全身の穴という穴にぶち込んで、社会復帰不可能なレベルで精神崩壊させてやっからそう思え! 因みについさっきアパートの裏に落ちてた犬か何かのウンコをぺたぺたしてきたから臭いも汚さもやべぇぞ!」
「それは持ってくるなっつったじゃん! 僕もこんだけ調子に乗っといて言うのアレだけどさあ!」
そんな下らないやり取りに挟まれて、尚もダグラスは立ち上がった。
“エクスキューショナー”を持った手を圭介に向けつつ、エリカ達の方を睨みつける。
「へ、へへ……こりゃすげえ、歓迎されてんだな俺」
未だ殺意を保つそのど根性に感服しながら、容赦なく圭介も“アクチュアリティトレイター”とクロネッカーを構える。
「覚悟決めろよ。お前が吹っ掛けたこの喧嘩、相手が僕である以上はルールとかそういうの無いからな」
「ああ、正に今それを実感してるわ」
その言葉の応酬を最後に、“エクスキューショナー”の切っ先と“アクチュアリティトレイター”の先端が交差する。
戦いと呼ぶには戦力の偏り著しい衝突が始まったのだ。
 




