第五話 初めて入る教室の中
学生としてしばらく過ごすとはいえ、すぐに同級生らと席を並べるわけではない。
入学初日の午前中は特別教室に案内され、支給された学校指定の制服の採寸と基礎的な文字の学習時間に費やされた。
通うための制服と黒板に書かれた文字を読解する能力がなければ、そも授業に出られないという前提によるものである。
エリカは教員室で別れる際に「早く来いよー」と言っていたが、その要望には応えられそうになかった。
(寂しくて泣いてなければいいけどなあ)
益体もないことを考えながら圭介が歩いているのは、昼休みも終盤に差し掛かった校舎の廊下である。
前日エリカに案内された際にも感じたことだが、このアーヴィング国立騎士団学校なる学校施設の内装は、嘗て通っていた日本の学校と比べても意外と大きな差異は見受けられない。
リノリウムの床。ガラス窓に蛍光灯。緊急用の消火器。壁には貼り紙の貼られた掲示板。
(これは『花壇を踏み荒らさないで』っていう注意書き、こっちは何か偉い人の講演会の案内。……うげ、『校門前での悪質な呼びかけに注意』、でいいのかな? こんな微妙に生々しいのまであるのか)
この世界で生きていくために必須とまで言われた文字の習得は、当の(こちらの人々からしてみれば)異世界人である圭介本人が驚くほどの速度で進められていた。
最初は全く新しい文字の解読に強い不安を覚えたが、どういった原理かビーレフェルトにおいては口頭での会話が万人に通用するというのが大きかった。
会話にまで手を出す必要はなく、ひたすら文字と単語と文法の勉強に終始する。その事実がストレスの軽減に繋がったのである。
そして東郷圭介という人物は、ストレスさえなければそこそこ優秀な脳味噌の持ち主だ。
「いやあでもヴィンス先生が担任って聞いた時には正直ホッとしましたよ。ほら僕って人見知りする方ですからね、今も知らない連中に自己紹介するのがおっそろしくてしょうがないんです」
「そうかね」
先行するヴィンス・アスクウィスは圭介とエリカらが所属するクラスの担当教諭だという。
知らない相手というわけではなかったので安心して雑談を投げかけたのだが、どうにも返事が芳しくない。
「先生なんかよそよそしくないですか。もしかしてその年齢で男の子の日ですか」
「男の子の日なんてものは六〇年近い生涯を通して一度も迎えたことがないのだが。すまない、昨日校長に君の件での報告が遅れたペナルティとして夜遅くまで愚痴に付き合わされたものでね。少々疲れているんだよ」
なるほど、と圭介の脳裏に色々と溜め込んでいるものがあるだろう校長の顔が過ぎる。
「それは、また……ちょっと僕からは何とも言い難いところですね」
「いやいや。流石に君のような若者にするべき話ではなかったかな、ハハハハ。どれ、どうやら君も私も少しくたびれ気味な様子だ。これから数多くの出会いがあるであろう若人に、特別に教えてあげようか」
「? なんでっしゃろ」
不意にヴィンスは続く廊下の先を指さし、その指を更に右斜め下に逸らした。
「この廊下の一番端まで進んだところに階段がある。その階段を下りてすぐ左の方に学校の焼却炉へと続く扉があるのだが、そこから左側にある焼却炉の後ろに実はやや狭いが道が隠されているんだよ。木々に隠れて見つけづらいがね」
「ほほう?」
「そうしてその道をしばらく進むと開けた場所に出る。この開けた場所と言うのが校長先生ですら知らない秘密の広場だ」
「へぇ。そんなのがあるんですか」
「ふふふ、私がまだこの学校に通っていた頃に作っ……偶然見つけた秘密の場所さ。恋人との密会にも最適だぞ」
どうやら目の前にいるご老体は、想定していた以上にやんちゃな性格だったようだ。
「人と人との出会い、繋がりは確かに尊い。しかし一人でいる時間も誰かと共にいる時間も同じように必要となる時が来るからね。要はバランスだよ、バランス」
「バランスですか。これまでの人生で考えたことなかったなあ」
「よくその歳まで生き残れたね、君」
そうこうしている内に、圭介が所属することになるというクラスの教室前に到着した。
流石に時間も差し迫っているため教室外にはほとんど生徒がいないが、聞こえてくる賑やかさが室内の密度を伝えてくれる。
ここに至って今更ながら、圭介は初対面に等しい相手との交流に緊張感を覚えた。
加えて転移初日の女子更衣室での一件も彼の中で未だ尾を引いていた。「いつまでも女々しいことだ」と呆れるなかれ、時間の経過と共に許されていく類の事柄ではないのだ。
加えて大正時代の女学生もかくやと言わんばかりに奥ゆかしい貞操観念を持つ圭介である。事によっては、二度目の土下座すら厭わないつもりでいた。
(それでダメなら僕も脱ごう。そうすりゃお互いに恥ずかしい思いして平等だな、うん)
彼の暴挙が土下座に始まり土下座に終わることを祈るのみである。
「ではまず私が先に入って君の説明を簡単にだが済ませておく。その後こちらから合図するから、適当に入ってきて適当に自己紹介と挨拶をしてもらうよ」
「了解っす。超絶イケメンが来たって伝えといてください」
「ははははは」
肯定でも否定でもなく渇いた笑いだけで返答しながらヴィンスが教室に入る。同時に学生らが各々雑談を中断し、大人しく席に着くのは異世界でも現代日本でも変わらぬ光景であった。
しばらくしてしわがれた声が聞こえてくる。その内容は無難な会話から入り、徐々に圭介の話題へと移っていった。
「君達は既に知っているだろうが、現在我が校には一人の客人が来ている。昨日の女子更衣室の一件で覚えている者も少なくないだろう」
あまり触れないでもらいたい部分を当然のように語られて圭介は若干イラッとした。
「えー、客人たる彼の身柄を保護及び監視する意味も込め、当学校にて彼を一生徒として迎えることとなった。同時に彼はこれより君達のクラスメイトとなるので、仲良くするように」
そうしてちょいちょい、と手招きされるのを確認して圭介が教室に入る。
その瞬間に向けられる数多の視線を浴びながら、教卓付近で立ち止まった。
「どうもどうも、昨日こちらにお邪魔させていただきました東ご……」
「あ、まだ私が喋るからちょっと待ってて」
「おいクソジジイそりゃないだろ」
二時間前から考えていた挨拶の内容が吹き飛んだ瞬間であった。
思わずツッコミを入れる圭介を無視して、ヴィンスが話を進める。
「彼はトーゴー・ケースケという客人で、現在学校側で管理している宿泊施設に住んでいる。今後は個人のプライバシーも関わるので、当該施設に何某かの用事がある者は学校側だけでなく彼にも声をかけること。はいそれじゃ改めて、自己紹介どうぞ」
「はい、こちらのくたばり損ないに出鼻を挫かれた東郷圭介です。えっとですね」
ぐるりと教室を見回すと。
やはりというか何というか女子からの視線がやや痛い。
咎めるようなそれではなく、どう対応すべきかがわからず困惑している様子である。様子の違う女子は続く言葉をまだかまだかと待ち受けるエリカ、笑顔で手を振るミア、静かに微笑むユーの三人。
対して男子生徒の反応は様々だ。
下卑た表情でニヤニヤと圭介を見る筋肉質な色黒のヒューマン、ムスッとした表情で睨みつけてくるエルフ、一切の関心を示さず呆けたように窓の外を見やる獣人。中にはイヤホンを耳につけて目を瞑り、圭介のみならず教室内の諸々を意識から遮断している狼藉者までいる始末だ。
とりあえず男には気を遣わずに済みそうだな、と圭介は若干安堵を覚える。
「先にこれだけ言っときます。僕、元の世界に戻るつもりでいます」
横でヴィンスが瞠目するが、あえて見えないふりをした。
「全然この世界のことも皆さんのことも知らないし、ぶっちゃけ女子更衣室の件もあって昨日の夜から結構精神的にしんどいっす。自分で言うようなアレでもないんでしょうけど小心者なんすよ僕。さっきまでも、今だって自分がこのクラスのみんなにどう思われてるか怖いんすわ」
僅かに教室の中がどよめく。
「だもんで、僕に気を遣うくらいなら文句でもなんでもぶつけて下さい。昨日の件で何だかんだ納得できてない人も絶対にいると思うから。見たもんは見ましたしね。喜ばなかったなんて言ったらそりゃ嘘になりますよ。男ですもん」
でも、と付け足して。
「ムカついたら言い返します。殴られたら殴り返します。んで、仲良くしてくれる人とは友達になりたいです。そうやってどうにかこうにか一緒にやっていけたらと思ってます。なんかすみません、あまり話すことまとまってなくて変な言い方になってるかもしれません。ただ、嘘だけは言ってないっす」
教室内がしんと静まる。
やっちまったかな、という懸念が圭介の中に生じたが、何分この異世界に長居するつもりなどないのだから人間関係に頓着することもない。それよりも言いたいことを言っておく方が精神衛生上健全であると判断しての発言であった。
自分の立場からしてみれば味方に引き込んでおくべき少女らの反応を見てみる。
まず目に入ったのは教卓に程近い位置に座るミア。
顔に「あちゃー」と書いてあるのがわかる。昨日話していて抱いた印象から推察するに、彼女の感性は圭介が知る極めて一般的な女子高生のそれだ。
このヨーロッパじみた人名が並ぶ異世界においては不思議な話だが、どこか集団全体の和を重んじる日本人的な性格があるように思えた。
次に教室の後方、出入り口付近の席に座るユー。
ミアほどではないにしろ、圭介の自己紹介に少なからず衝撃を受けた様子である。
ミアやエリカを貶める意図はないが、ユーだけがあの三人娘の中では突出してお嬢様然としているように感じられた。その関係もあってこういった物言いをする人間自体が珍しいのかもしれない。
最後に窓際後方、教室内においては端の方の席に座るエリカだが、
「プピュピィーッ! くっくっく」
思い切り吹き出していた。純粋に失礼である。
何がおかしいのか机に突っ伏して笑い声を必死にごまかそうとしている。だがごまかし切れていない上に机の上にこぼれた涎で小さな水たまりまで作り出す始末。
彼女の奇行によって圭介の発言のインパクトが薄れたのは幸か不幸か。
「ってことで、自己紹介終わりです。皆さんこれからよろしゃっす」
「はい、少なくとも小心者っぽくはない自己紹介をありがとう。後ろのエリカ君の隣りが空いてるから、そこに座りなさい」
「はい」
教室に入った時点でエリカの隣りの席が空いているのは確認していたので、圭介からしてみれば案の定といったところ。
まっすぐに席に向かって座ると、口の周りを涎で湿らせながらニヤニヤ顔のエリカが話しかけてきた。
「なあなあ、何さっきの自己紹介。中二病かお前」
「るっさいなあ。口元拭きなよ、涎臭いよ」
こうも人懐っこいバカ犬に邪気の欠片もない笑顔を向けられると、細かいことはどうでも良くなってしまうものだ。
現に圭介は彼女とほんの一言二言交わしただけでクラス内での自分の立ち位置について一切執着する気が失せてしまった。
「さて、ではエリカ君はトーゴー君に教科書を見せてあげるように。授業を始めますよ」
ヴィンスが白チョークを手に取り、黒板にアガルタ文字で何事かを書き始める。
読解能力を得た圭介は、その文字列を見て今から始まる授業が苦手科目であることを知って辟易した。
そうして嫌々ながらもエリカに教科書を見せてもらっている間は、「自分が異世界にいる」という実感を忘れることが出来た。
その事実に彼が気付くのはもう少し先の話である。