第十八話 グレンデル
草木生い茂るブロンズパイル山脈の森林地帯は、遥か上で西に傾き始めた陽の光で矢印のような木々の影を竜都ロングウィットンに伸ばしている。
石の上で鳴く小さな秋の虫は鳥を恐れない。空は彼らを喰らうドラゴンの領域だと理解しているからだ。
そしてもしこの時この場に竜都の者が来ていれば、世にも珍しい光景を目の当たりにしただろう。
「ああ、どうすれば……どうして……皆……」
緑色の鱗を有するドラゴンが、怯えた様子でうろたえている。
竜棲領付近で案内役を務めていたユーヘドゥッギである。
彼は竜脈を通じて故郷が襲撃に遭っていること、招かれざる客が[デクレアラーズ]の幹部格であること、そして族長アーマミャーフの死に至るまでおおよその流れを伝えられ把握していた。
「私は……あんな、あんな怪物には……」
右往左往しながら情けない声を上げる彼を、他のドラゴンが見れば笑うだろうか。
同族として情けないと眉を顰めるか、無様を許さず怒鳴りつけるか。
ただ、彼の怯懦には原因があった。
かつて竜棲領の外で何者かに殺害された両親。
その末路を実は彼が直接その場で見ていたと知るドラゴンは、実のところどこにもいない。
「間違いないっ……赤い服を着て、赤い髪を携えた少女……!」
現実から庇うように頭を抱えて目を閉じるも、瞼の裏に浮かび上がるのは畏怖の根源となるあの日の記憶。
元を辿ればユーヘドゥッギの両親が一番悪い。
幼いドラゴンを外に連れ出すという竜棲領の禁忌を、彼ら夫婦は禁忌と捉えていなかった。
寧ろ子供を連れていった方がより効率的だというのに掟を守ってばかりいる同胞を、どちらも笑いながら小馬鹿にしていたほどだ。
より多くの成果を得るため、夫婦は幼き日のユーヘドゥッギを運び屋として働かせていた。
我が子への愛情などなく、ただ便利な手足の延長として利用するのみ。
それを当時のユーヘドゥッギは疑問に思わず、他の子供らと比べて体が弱いのだと周囲を騙しながらいつも親による下位種族への搾取を手伝っていた。
なので言ってしまえば両親の死そのものについて、彼は特に思うところもない。
親子の絆など知らない彼にとって、喪失を悲しむだけの家族愛など持ち合わせていないが故に。
「まさか[デクレアラーズ]には、あんな化け物が他にもいるのか……ッ!?」
一方、あの日抱いた恐怖だけは今もずっと彼の臓腑と脳髄を震えさせている。
当時もいつもと変わらず、両親は普段使っている隠された道から麓に来るようユーヘドゥッギに言っていた。
言われた通り体調不良を言い訳に家に閉じこもったふりをして、裏口から決められた道順に移動することで誰にも見つからず外に出る。
そこから先が普段と違った。
追想の中で父親のルータスは一瞬で樹木より長く伸びた腕を振るわれ、首をへし折られて絶命した。
しかもその亡骸は少女の顔面から生えた肉の筒に吸い込まれて、ごくりと一口で飲み込まれてしまったのだ。
それまではユーヘドゥッギも典型的なドラゴンとして、自分達を捕食する生物などあり得ないと信じていた。
だがドラゴンを丸呑みにして平然としていたその何かは、外見こそ人間だったが何をどう考えてもドラゴンすら凌駕する頂点捕食者である。
全身の細胞が屈服してしまう。
自分は食われる側だと。
やがて母のブラァマに骨の刃やら肉の鎚やら炎やら酸やら電撃やらで暴威の限りを尽くす少女は、飛び散る血と肉片の花吹雪を挟んでユーヘドゥッギの方を見た。
まるで路傍の石でも見るかのような退屈極まりない顔で。
今までドラゴン以外の生物が自分に向けたことのない顔で。
そしてきっと、他のドラゴンにも平等に向けるであろう顔で。
――頂点捕食者。
何もかもを食い殺せるであろうその少女にとって、何もかもが平等に皿に盛られた料理なのだ。
逆らうどころか抗うことすら許されない。相手が食うと決めれば絶対に食い殺され、食わないと決めれば見逃してもらえるだけ。
だからここで逃げなければ自分も殺されてしまう、とユーヘドゥッギの理性が叫んだ。
そこから先、家に着くまでどうだったか彼はあまり憶えていない。
死という根源的な恐怖を前に幼い彼はそれでも最後の勇気を振り絞り、必死に走って来た道をそのまま辿り竜棲領に戻った。
がむしゃらながらもスムーズに帰還を果たした彼は、幸いにも他のドラゴンにその様子を悟られることなく二度と両親が帰らない我が家に飛び込む。
しばらく震えて、怯えて、いつ自分の番が来るかそればかり考えてから外の騒がしさに気付く。
そこでついに彼は、母たるブラァマの末路を見たのだ。
「頼む、逃げてくれ、逃げてくれ皆……!」
竜脈を通じて仲間達に逃亡を促すも、激しい戦闘を繰り広げている彼らに弱々しいユーヘドゥッギの声は届かない。
「このままじゃ全員、殺されてしまう……!」
至極当然の話だが。
離れた場所で直接口にした言葉も竜脈同様、ついにどのドラゴンにも届かなかった。
* * * * * *
ロザリアとの戦闘は圭介にとって、これまで経験してきたどの戦いと比較しても腑に落ちないものだった。
(何だコイツ)
エリカの魔術が何らかの作用を引き起こし、彼女の本領を発揮させまいとしているのはわかる。
それに対しロザリアが激しく苛立っているのも、それが演技ではないことも理解できた。
だが未だに優位に立てた気がしない。
どころか彼我の差を示すが如く、彼らアガルタ王国から来たパーティとドラゴン達との連合軍は彼女を倒せていないまま疲労を蓄積させていた。
「あーもー、イライラする……!」
全身を歪に捻じ曲げ変形させるロザリアの胴体部分が、ドラゴンによる神速の拳を受けて砕ける。
直後に肉と骨が生えて元通りの姿に修復されるも、直後にユーの【弦月】が腹部に直撃して今度は体が上下に分かたれた。
空中に躍り出た上半身をエリカが魔力弾で何発も撃ち抜き、下半身はドラゴンのブレスに焼かれて砕け散る。
「メチャクチャ当たるし、ホント鬱陶しい……!」
そんな状態になっても着弾の衝撃で空中に留まるロザリアの口からは、蚊虻にたかられた程度の言葉しか出てこない。
撃たれたロザリアの上半身はそのまま全身から肉の棘をぐちゅりと生やし、魔力弾の衝撃とは無関係に空中で固定された。
そこかしこ穴だらけとは言っても美少女の姿である。それが赤黒い棘でサボテンかウニにも似た姿となった様は、奇怪にして不愉快なものだ。
生理的嫌悪感が一瞬だけ見る者の思考を奪い、その一瞬を隙として彼女の体が爆散した。
「気持ち悪っ!」
降りかかる無数の棘をミアの【パーマネントペタル】が防ぐ。
花弁の量のみならず防御力も強化された今の彼女なら、咄嗟の判断でも味方への被害を最小限に抑えられるのだ。
ただし見方を変えればそれは、彼女による防御が少し薄くなるという意味も内包している。
好機と見たのか、後衛を務めるミアとエリカの前にロザリアが無傷の状態で現れた。
「はい終わり!」
「わっ!」
「ぬぐぉっ!」
突如ワゴン車ほどもあろう大きさに肥大化した腕が振るわれ、咄嗟に“イントレランスグローリー”を構えたミアとエリカがまとめて殴り飛ばされる。
流石にその程度で【メタルボディ】を発動しているミアは深刻なダメージを負わないはず、と圭介が油断して即座に考えを改めた。
肥大化したロザリアの腕にいくつか穴が開いており、そこから深紅の煙が立ち上っている。
そしてその煙を正面から浴びたらしいミアは、レオが“フリーリィバンテージ”で編んだ網に受け止められたまま熟睡していた。
「ミアさん!」
「ミアちゃっ……!」
「しばらく寝てなさいな。用があるのはドラゴンと東郷圭介だけなんだから」
毒ではないらしい。
苦しむ様子は見受けられず、ただ純粋に眠ってしまっている。
レオが必死に“フリーリィバンテージ”をミアの体に巻きつけて、覚醒を促す第六魔術位階【レッドフルーツ】を発動していた。
しかしそれでも眠ったままだ。
相当強い催眠魔術か、あるいは魔術で対処できない類の成分を吸わせたか。
見当もつかないが少なくとも油断できる状態にあらず、レオ一人に任せるべき事案ではないのだろう。
ミアが眠りについたところでロザリアも本調子を取り戻したようだ。
少なくとも奇妙に変形し続けていた肉体が、今ではすっかり元の美少女の姿に固定されていた。
「ふぅ、やっと落ち着いた。くすぐられるのには弱いのすっかり忘れてたわぁ~、戦ってる最中にそんな真似してくる相手いなかったし」
「【乱れ大蛇】!」
「そうそうこういう感じ、これだったら何ともないんだけど」
屈折を繰り返しながら標的に向かって突き進むユーの斬撃【乱れ大蛇】を、本調子に戻ったらしいロザリアは余裕の表情で動かず受け止める。
細い首の左側から心臓にかけて深々と食い込んだ魔力の刃は、求められた結果を導き出しながらも彼女の命に届かない。
ロザリアは傷口から骨と臓器を露出させて血を噴き出しながら、構わず小さな口から挑発的な言葉を紡いだ。
「王城騎士様はまだ様子見ー? それともさっき言った通り東郷圭介以外のメンバーをどうこうするつもりがないのバレてる?」
「……貴様のようにわかりづらい相手は私としても初めてでな。こちらも迂闊に動けないんだよ」
セシリアの言うわかりづらさとはきっと、先ほどから圭介も違和感を抱いている相手の力量を指す言葉だ。
ロザリアはここまでの戦いで圭介に殺意を向けていない。
ただ、当たれば死ぬ攻撃なら幾度も繰り出している。
それも修羅場を乗り越えた人間でなければ避けられないであろう、絶妙な速度と威力で。
恐らくセシリアはただ様子見に徹しているわけではない。
今のロザリアに慣れてしまわないよう、圭介達を信じて待機しているのだ。
各々の場慣れから生じる油断をいつ突かれるか、そこに今まで同様殺意を込めずに放たれる致命的な一撃がいつ繰り出されるかを懸命に見守っていた。
もしここでセシリアまでもがロザリアの攻撃に悪い意味で慣れてきてしまえば、今度こそ誰かが殺されてしまう。
戦場に慣れている者ほど、この底知れない相手に対して迂闊な判断を下せない。
「まるで歯磨きでもするかのような顔で殺しに来るものだ。よほど屍を積み重ねてきたと見えるな」
「アハハ、凡人の発想ね」
おかしげに笑うロザリアが次の瞬間にはドラゴンのブレスに飲み込まれ、全身を焼き焦がされる。
だが炎と煙が散った先で自分自身の焼死体を踏み砕きながら、また無傷のロザリアが出現した。
「せっかくなら見せてあげるわ。屍という資源がどれほど有用な素材足り得るか」
言って自身を一度焼いたドラゴンがいる方を指差し、
「はばがぐっ……!?」
その先におぞましい光景が広がっていた。
ブレスを吐き出すため開いたドラゴンの口に、どこから来たのか長く赤い触手が体内へと潜り込んでいく。
まさか視界の外から自ら食われに来る存在などこの戦いの場では想像もできなかったらしく、咄嗟の判断ができないままドラゴンはそれを嚥下してしまう。
結果。
ドクン、と。
何か良くないものが腹の中で蠢いた。
「ぐ、ごぇ」
「おい、大丈夫か!?」
親しい間柄だったのか、別のドラゴンが思わず駆け寄る。
駆け寄るべきではない、と圭介の勘が叫ぶ。
「ダメだ、離れろ!」
「えっ――」
索敵魔術【ベッドルーム】でようやく感じ取れる微細な振動。
触手を体内に宿したドラゴンが、別の生命体として内部から上書きされていくのが圭介には伝わった。
遅れて竜脈から何らかの叫びを受け取ったのだろう。
圭介の言葉に足を止めた一体以外の全てのドラゴンが、一斉に様子のおかしいその個体から距離を取る。
「――がァぅっ!」
だがどうしても、一瞬呆けてしまった隙だけはどうにもならなかった。
恐らく意図せず振るわれた腕は心配して近づいた同胞の体に深い傷をつけ、今も現在進行形で元の姿からかけ離れた肉体へと変貌していく。
「あの子、さっき私の片腕を奪ったから意趣返しがてら使わせてもらうわね」
朗々と語るロザリアに言われ、ようやくあの体内に飛び込んだ触手の正体が圭介にもわかった。
圭介を仕留めるために手刀を放ち、当たる直前に爪で斬り落とされた彼女の腕。
それがまさしく斬り落としたドラゴンの口に侵入し、内部で何かをしているのだ。
きっと肉体を奪い、怪物へと変えてしまう何かを。
「ま、せっかく頑張ったんだもの。その分強くしてあげる」
言っている間にも変異は進行していく。
刀剣ほどの長さだった爪は今や小型船舶の大きさとなり、大木のようだった腕は列車よろしく太く長く、それに合わせて体躯も全体が膨らんでいった。
そればかりではない。先ほど傷つけたドラゴンに爪の先を食い込ませ、まるでフォークを刺した肉の切れ端が如く軽々と持ち上げた。
次いで、異形と化した顎がベリベリと裂けて大きく開いていく。
「やめろ!」
思わず止めに入ろうと飛んだ圭介の頬を、ロザリアの腕が不可思議に伸びて殴りつけた。
「っぐぅ!」
「まあ見てなさいな。理論ばっかり突き詰めてて、人前でお披露目するのはこれが初めてなんだから」
圭介の速度に追いつく拳は当然相応の威力で当たる。
涼しげな顔で放たれたその一撃は、生身で受ければ顔の下半分を吹き飛ばされていただろう。
そんな恐るべき攻撃をどうにか【コットンフィールド】で防ぎはするも、スピードを的確に殺されてしまった。
体を起こした時には何もかもが手遅れだ。
異形のドラゴンが、かつての仲間を裂けた口で丸呑みにしている。
「確か私が作ったサンドワームの変異種には、アガルタの王女様がゴグマゴーグって名付けたんだっけ?」
伸びた腕を元の常識的な長さまで縮めながらロザリアが言った。
「だから次の命名権は生産者の私がもらうって決めてたんだけど、どうせなら統一感欲しいわよね」
異形のドラゴンは滂沱の涙を流す。
単なる反射的な生理現象か、肉体を強引に変形させられた痛みか、同郷の仲間を食わされる悲しみか。
「あっちがアルビオンの伝承に伝わる巨人の名前なら、こっちも同じく巨人の名前にしましょう」
ただわかるのは、もう元のドラゴンではないという一点だけ。
「それもとびきり残忍で、とびきり強くて、とびきりかわいそうな名前」
やがて彼を心配して駆け寄った友の想いが、歪な形で現れる。
腹部から彼とは異なる、食われたドラゴンのものと思しき腕が大きく膨らんだ状態で生えてきた。
双翼の狭間である背中からは長い尾が、首の右側と左脇腹からそれぞれ後ろ脚が次いで生え、しまいには後頭部から別の頭部が姿を現す。
二体のドラゴンは今ここに、子供がおもちゃのパーツをバラバラに組み合わせたような悪夢めいた造形の生物として生まれ変わる。
どちらも理性を失ったまま、ドラゴンが素材となっているだけの奇抜な造形の肉塊としてそこに存在した。
アンバランスな見た目の割に転ばないのは、全身のそこかしこから新たに生えた触手が肉体を支えているためだろう。
「私の片腕を持っていったわけだし、それにちなんで……」
圭介も仲間達も、他のドラゴン達も絶句し硬直する。
ここまで命というものを冒涜した存在を、彼らは今まで生きてきて一度も見たことがなかったから。
「……グレンデル! この変異種の名前はグレンデルとしましょう!」
名付けを誉れとしたわけでもなかろうが、ロザリアの笑顔と喜びの声に応じてブロンズパイル山脈に咆哮が轟く。
ドラゴンの変異種――グレンデルは触手を振り回しながら、二つの頭からそれぞれ別方向に深紅のブレスを吐き出した。
理性を失いながらも悲哀だけは感じさせる、断末魔としか聞こえない鳴き声とともに。




