第四話 鍋の湯気
第三資料室での出来事から一夜明けて翌日の昼。
場所は圭介が住まう学校管轄の宿泊施設、その一室。
溜め込んだ課題の量を見て、いっそ退学したい気持ちが圭介の脳裏を過ぎった。
「命がけで戦うのとは別のキツさがあるねえ……」
『しみじみと言っている暇があるなら手を動かすべきかと判断しますが』
「ムカつくねえ……」
ベッドの上に積み上げられたドリルや教科書からとりあえず得意科目のものを手に取り、机に置いてプリントに筆を走らせる。
排斥派や[デクレアラーズ]の騒動に巻き込まれる度、彼はこうして学業に苦しめられてきた。
それでもやらないわけにはいかないのだ。
元の世界に戻ろうとしている身である。戻れば一応は日本の高校生としてやり直す形となろう。
であれば高校生としての勉学に励めるこの環境を利用しない手はない。
戻った時、同世代と比べて学力の面で大きく遅れることのないように。
「異世界の文字で書いてある問題読んで異世界の文字で答え記入するから、なんかもう頭おかしくなりそうだよ」
『いっそこちらの世界に定住する道もあるかと思いますが。多くの客人はそうしているようですし』
「……ダメだね。そりゃダメだ」
『そうですか』
それ以上はアズマも言及せず、勉強の邪魔にならないようベッドボードの上で退屈そうに眼を閉じた。
この異世界に定住する道も少し前までの圭介なら考えていただろう。
そうもいかなくなったのは、エルランドから異世界転移の原理を聞かされてからだ。
宇宙線を念動力魔術によって操作できれば理論上は帰れると知った以上、何としてでもその方法を模索しなければならない。
そしてこれはもはや圭介一人の問題でもなかった。
こちらの世界を支配した後はあちらの世界にも手を伸ばすという[デクレアラーズ]は、既にその方法を知っているらしい。
ならば双方の世界を護るためにも、圭介自身が帰還手段を入手する必要がある。
そんな義務感とは別に、家族の顔を長らく見ていないからまた会いたいだけというささやかな理由も当然ながら変わらず存在していた。
「……数学とか物理も当然、ちゃんと基礎からやんなきゃだよなあ」
『念動力魔術を扱うのならそういった学問も修学しておいた方が何かと有利でしょうね』
「カレンさんに教わった方が早いかな?」
『わざわざ勉強を教わるためにダアトまで……?』
アズマが珍しく理解できないものに対する態度を見せたところで、【ベッドルーム】の索敵に数人分の反応が自室前に集まるのを感じた。
「ん?」
遅れて鳴り響くインターフォンと、無遠慮なノックの音。
「圭介くーん! いるっすかぁー?」
「レオ?」
「ど、どうもー……」
「中にいるならもう俺らが来てるのわかってんだろ? 両手塞がってんだ、開けてくれや」
レオだけではない。
控えめなエルマーの声とくたびれた様子のモンタギューの声も聞こえてくる。
玄関に向かいながら同時に【テレキネシス】で鍵を開けドアノブを回すと、ドアの向こうから三人が買い物袋を持って中にずかずかと入ってきた。
「遊びに来たっすよ!」
「なんで?」
約束したわけではない。
ただ少なくともレオの表情を見るに、受け入れられることを前提としているようだ。
「最近ずっと排斥派やら[デクレアラーズ]やらで張りつめてたし、男ばっかで集まる機会も減ってたじゃないっすか。アポなしだけどたまにはこういうのも気分転換になるかなって」
「僕はせっかくだから、お料理作ろうと思って来ました」
「エルマー君めっちゃ料理上手いんすよ。ほら、呆けてないで一緒に手伝うっす」
「急に来て急に顎で使いやがる……」
どうやらただパーティを開くためだけに来たらしい。
もちろん心遣いは圭介としても嬉しいが、一応は騎士団学校の敷地内である。あまり騒ぐのは望ましくなかった。
嬉しいのは間違いなく、嬉しいのだが。
「……んじゃ、とりあえず中に入って。言っとくけどあまり大きな声は出さないでね」
「うるさくするつもりはねェよ。ただ俺としちゃあ第三資料室とやらでどんな情報を仕入れたか聞きたいところでもあるがな」
『国家機密などもあるようでしたらマスターが反逆罪に問われますが』
「どうせなあなあで終わるだろ、王族と仲良さそうだし」
モンタギューの言い分は身も蓋もないものの、確かに何となく厳重注意程度で終わるだろうとは圭介自身も思う。
もちろん相応の代償として何らかの要求はされるだろうが。
「なあなあで終わらせるためにまたぞろあんな連中と顔合わせなきゃいけない圭介君の気持ちも考えろ。何なら昨晩もちょっと会ったぞ、資料室で」
「会ったんかい。詳しい話は後にして、まずは飯の準備済ませちまおうぜ」
三人が買ってきた食材を見るに、どうやら鍋料理を作ろうとしているらしい。何なら土鍋とカセットコンロらしき魔道具もレオが持参してきていた。
折り畳み式のテーブルを囲めば四人で仲良く食べられるだろう。
メインとなる食材は異世界でもテレビ番組でしか見たことのない未だ名前がうろ覚えの魚に、普通の鶏肉。
野菜はオーソドックスに白菜、ジャガイモ、ニンジン、各種キノコ。
かつてパトリシアのクエストで存在を知った鴉草とアブラダケまで入っている。
味付け用のスープは何らかの豆類をすり潰して作ったもの。
パッケージを見るに、恐らく味噌かごまだれに近いのだろう。少なくともエルマーが持ち寄ったのなら鍋に合わない味ではあるまい。
「んじゃ、早速調理に取り掛かるっすよ」
「その前に手をしっかり洗おうね。……あれ、ケースケ君ごめん。勉強中だった?」
「アホほど学外であれこれやらされてるから課題が全然進まなくてね。ていうかそうじゃん、エルマー君いんじゃん。後でちょっと教えてね」
「あ、うん。ご飯食べたらね」
言ってエルマーが洗った手を口に咥えたハンカチで拭き、台所に立つ。
手伝うとは言ったものの、鍋料理は食材を切って鍋に入れれば後は火加減を見守るか灰汁取りくらいしかやることがない。
凝り性の料理人なら食材ごとの下処理などもあろうが、ここにはそんなものに意味を見出す者がエルマーを除いていなかった。
結果、エルマー一人がテキパキと進めるのを間抜け三人が後ろから見守る図式となる。
「……で? 第三資料室で王族に会ったって話はどうなったよ」
「初めて見る顔だったね。ちっこい王女様で、お姉さんとは真逆のどこもスレてない純粋無垢な美少女だったよ」
「ちっこい、ってなるとケイティ第三王女殿下かね? まあまだ子供だし変に生臭いあれこれとは関わっちゃいないんだろ」
「あそこまで純粋だと向き合ってて不安になるけどね。正直もう二度と関わりたくない」
「純粋無垢な美少女相手にケースケ君がそこまで言うっすか……」
王族ともなればどこかしらが歪んでいるものなのかもしれない。
少なくとも王城を出入りしている時点で凡人の類ではないのだから。
と、同じく自由に出入りを許されている圭介が思ってしまうのも皮肉な話だった。
「あと資料漁ったところでまだまだ僕の方に知識が足りてない。念動力魔術で異世界転移用の出入り口を作るっても、なかなかどうして人の力でやるのは難しそうだし」
「異世界転移を魔術で再現するってなるとなあ……」
『空間転移術式がある以上、理論的には不可能ではないはずですが』
「こないだ勉強しようとしてた亜空間魔術も相当勉強しなきゃ基礎すら使えやしねぇしな」
「亜空間魔術? 何すかそれ」
モンタギューの言葉にレオが疑問を呈す。
応じたのはモンタギューではなく、ジャガイモの皮を剥くエルマーだった。
「亜空間魔術、っていうのはここじゃないもう一つの空間を作り出す魔術の一つ、だね。結界と違って最初は中に何もなくて、そこに物を収納したり、中に入って別の場所まで移動したりするんだ」
「へー、便利な魔術もあったもんっすねぇ」
エルマーが短くまとめた情報を咀嚼し、レオの口から出てきたのはそんな程度の感想だった。
「便利っつーほど簡単に扱える代物じゃねえよ。危険過ぎて特殊な免許を持たないと使えないし、そもそも適性が無けりゃフォーク一本隠せるかどうかくらいの空間しか作れねえ」
「そりゃ実質空間転移と似たような真似できる魔術だし、上級者向けではあるのか」
日本で異能力が登場する漫画やアニメに触れてきた圭介から見ても、空間に直接作用する魔術など軽々しく使えるものではなさそうに思える。
適性に大きく左右されるだけでなく免許まで必要だとは思わなかったが。
下拵えを済ませたエルマーが鍋に水を入れ、着火する。
「【焦熱を此処に】」
中身が沸騰するまでの間に今度は自身のグリモアーツから火を出して、そこでキノコ類を炙り始めた。
香ばしさを増すための措置らしい。
まさか調理に炎の魔術を使うと思っていなかった圭介は、少し不安げに火災報知器の位置を【ベッドルーム】による索敵でチラチラと確認してしまう。
今日ここでの会話の流れでたまたま亜空間魔術の存在を知ったらしいレオが、神妙そうな顔で鍋を見つめながら呟いた。
「亜空間魔術、ねえ。それについて勉強すれば、多少は異世界転移するためのヒントに繋がるんすかね」
「あんたら客人の世界じゃ魔術を使えねえって話だし、下手すりゃ無駄に終わる可能性もあるぞ」
『最悪無駄にしたくなくなったらこちらに永住するのも手ですよ』
「手より足を動かしたいんだよ、帰りたいんだから」
言いながら考える。
口にこそしなかったが、圭介としては遠からず元の世界に戻る未来が来るのではないかと予想していた。
ただしそれは「放っておいても帰れるだろう」という楽観から成るものではない。
圭介が何も学ばずとも[デクレアラーズ]はこちらの世界を制圧後、元の世界をも攻略するつもりでいる。
となれば彼らがこちらの世界に圭介を置いて再度の異世界転移を果たした時、同じく転移を果たせないままでは対抗する手段が無いのだ。
(なんて話、今するこっちゃないか)
せっかく友が部屋を訪ねてきてくれた以上、この空気をいたずらに白けさせるのも申し訳ない。
不確定な未来の話だ。急いで話す必要性も感じられなかった。
「帰る上で使わなくたって話のネタくらいにはなるだろ。あんたらの世界じゃ魔術が使えないらしいし、土産話としては上等なんじゃねえのか」
「向こうの人らにこっちでの生活語っても狂ったと思われて終わりっすけどね」
「やっぱりそうなるよね。魔術がない世界じゃ、わけわかんないよね、こっちの世界……」
『そもそもマスターに話すような相手がいるのか疑問ですが』
「ブッ飛ばすぞ」
それでいい。
魔術が存在しない世界で構わない。
それこそ圭介の記憶している、彼が生きてきた世界の在り方なのだから。




