第二十八話 飢餓より生まれし怪物
とある時代の中国で、極めて大規模な飢饉が起きた。
人類史上最悪と称されるそれは長期間に亘り人々を苦しめ、巨大な国家に多く住まう人々の平均寿命を“飢え”というたった一つの要因により著しく低下させた。
専門家でさえ現代に至るまで具体的な死者数を割り出せていない。
それほどまでに命という命を臓腑の空虚が奪い去った、あまりにも凄惨な厄災であった。
蔣光清もその時代を生きる者として影響を受けた一人である。
「ごめんねぇ、ごめんねぇ」
泣きながらひたすらに謝る母。
泣きながら娘の首を絞める父。
泣きながら家族に殺される妹。
光清はその光景を、泣くこともできずに眺めていた。
彼の故郷においては珍しくもない光景である。未来の働き手である息子を殺すわけにもいかない両親が娘を殺し、遺体を調理して食料とする。
そして娘が死んだなどと言わず、死んだ家族の分まで配給される食糧を受け取るのだ。
そうでもして、それでも次に家族の中の誰かが死んでもおかしくない。そんな家庭がそこかしこにある時代だった。
「ごめんねぇ、ごめんねぇ」
暴れていた妹の足が段々と大人しくなっていく。
以前も下の妹が同じようにして死んでいった。
死んだから、食べた。それが彼らの摂理だった。
品格、矜持、礼儀、親愛。
どこにそんなものがあっただろうか。少なくとも腹の中にはない。
あの地獄を知る者全てが、人と獣に差など無いのだと思い知らされた。
妹が死んでまだ飢えるようなら、次は病弱な祖母だろう。
それが終われば二人いる弟のうち、小さい方。
その次は上の弟が鍋の肉となる。
「ごめんねぇ、ごめんねぇ」
いつも尊大で身勝手なところがあった父親だ。家族の命を繋ぐため、己の肉を捧げるなどとは考えられない。
となれば最終的には光清が食われる日も遠からず来るのだと、薄々察していた。
彼自身、肉などもう見たくも触りたくもない。飢えて死ぬならそれでもいい。
それを言ってしまえばこれまで手を汚してきた父に殴られるに違いない。だから光清はひたすら口を噤む。
死ぬのは楽そうだし構わないが、痛いのは嫌だ。
こうした環境もあり、彼が自身の吃音に気づくまで相応の時間を要した。
「ごめんねぇ、ごめんねぇ。幸せな暮らしをさせてあげられなくて、ごめんねぇ」
いつの間にか父親の両手が妹の首から離れていた。
確信がある。ここまで家族を殺すことに慣れてしまった以上、きっと次から父は泣けない。
母親のこれから死にゆく者へひたすら謝り続けるという非生産的な行為も、あと一度子供が死ねばそれ以降は途絶えるだろう。
弟二人は既に自分がどう楽に死ぬかしか考えておらず、それはきっと光清もそうだった。
楽しかった過去が消えていく。
数多の未来が閉ざされていく。
在るのは、無い方がよほど気楽な今この瞬間だけ。
「ごめんねぇ、ごめん……」
不意に、母親の声が大きく遠ざかった。
彼女の泣き声に苛立った父親が床を殴る音も遠い。
まるで自分がその場から引き離されている、ような。
「災難だったね。だがもう心配はいらない」
すぐ後ろから聞こえてきた声は、どこか他人事のように響く。
「助けられる人数には限りがある。その中で君を選んだのがボクだ」
夢でも見ているのか。
疑いながらもぼやけた視界を再度見つめて周囲の景色を見てみると、そこは自宅ではなかった。
深い青色の石板で覆われた床。いかなる素材かわからないが、少なくとも均等な大きさで揃えられているのなら安物ではあるまい。
どうやら屋外らしく、天井らしきものはない。見上げたピンク色の空には陽光を受けて漂う綿雲の群れが浮かぶ。それが朝焼けなのか夕焼けなのか、光清にはわからなかった。
何せ、今いる場所がどこなのかも定かではなくなってしまったから。
やがて背後にいた少女が目の前に歩いてきて、手に持った器から何かを掬い上げて差し出す。
「君はこれを躊躇せず食べる。何せ空腹だからね。毒の可能性など考えもしない」
不自然なほど断定的に言い切る少女が彼に突きつけたのは、木製の匙。
そこには温かい湯気を伴って、一口分の粥が鎮座している。
「……あ、あ!」
言葉ではなく声だけを出し、何も考えず口に含んだ。
上唇で粥を口内に引き込むと同時、絶妙な力加減で匙が引き抜かれる。
まるで相手の口がどう動くかを最初から知っていたかのように。
夢中で次々に差し出される匙を口に入れては粥だけ吸い取っていく中、光清でも少女でもない男の声が聞こえてきた。
「僕を呼んだということは、つまり彼が……?」
「まだ幼いがね。少しずつ成長させて、冷静になったところで指定のカリキュラムを履修させる」
「そうですか。……つらかったでしょうね。食べられないというのは」
「地獄というものをボクは観測したことが無いけれど、多くの人々が終わらぬ空腹を地獄そのものと思っているよ」
じんわりと舌に広がる飯の甘味と出汁の風味。
久しく口にしていなかった、真っ当な食事の味。
それすら感じ取れず、ただ体にぽっかりと空いた穴を埋めるかの如く粥を胃に送り続ける。
やがて粥の器が空になったところで、少女の後ろにいた男が話しかけてきた。
「初めまして。僕の名前はヘイス・レーメルと言います。こちらは……」
「アイリス・アリシアだ。今は何もかもが急過ぎてわからないだろう。急いでわかろうとする必要もない」
アイリスと名乗った少女が右手をふわりと優しく振るうと、天蓋付きの豪奢なベッドが何も無い空間から出現した。
空腹を満たして冷静になった蔣は、常識の範囲から大きく逸脱した事象を前に戸惑うのみである。
この状況が何であるのか、彼には何もわからないからだ。
「君は今からこのベッドで眠る。何か途轍もなく大変なことに巻き込まれているのではないか、という疑念ごと柔らかく温かい毛布に吸い取られて一瞬で夢の中へと旅立つ」
変わらず決めつけるような口調だが、不思議と抵抗を覚えないのは命の恩人であるためか。
「君は寝ながら悪夢を見る。家族の肉を最初に食べた日の記憶が、そのまま君の頭脳により忠実に再現される」
そう、初めて人の肉を食ったあの日。
もはや家族の誰かが死んでその肉を食わねば一家全員が死ぬとなった日、率先して死を選んだのは母方の祖父だった。
彼は労働力として利用価値がなく、生活の知恵を子供らに授ける祖母と異なりこれ以上生きている意味もないと判断していたためだ。
だから誰も見ていない場所で自らの喉を裂き、そのまま絶命した。
骨と体毛を残し、彼の大部分は家族と周囲の村人らの夕餉となったのを今になって思い出す。
あの、おぞましさ。
二度と思い出したくなかったのに。
「それが君にとって最後の悪夢だ。目覚めてしまえば二度と夢を見る心配もない」
何もかもを知っているらしい少女――“道化の札”は優しく微笑んだまま、弱り切った光清の矮躯をベッドの上まで片手でひょいと運んでしまう。
外見より怪力なのかと疑うも、今度はその疑念に応じてもらえなかった。
「ボクが二度と夢を見ないようにするからね」
背中に伝わる柔らかい感触。
空を遮り夢を護る天蓋は、適度な暗さで彼の疲労を眠気へと変える。
家族にまつわる全ての思い出は、その後見た夢で吐き気を催す陰惨極まりない記憶へと変換されていった。
もう、置いてきた彼らのことなどどうでもいい。
今はただ、安らかな感覚に身を委ねたかった。
「これからよろしく、蔣光清。[十三絵札]が一人“ランスロットの座”となる者よ」
そうして。
蔣光清という少年は[デクレアラーズ]に救済され、異世界転移を果たしたのだった。
* * * * * *
「人々が飢えるなど断じて許してはならない」
ンジンカ緑地のそこかしこに若苗色の魔術円が展開される。
圭介達は彼によって召喚された無数の【ウッドゴーレム】を追跡用の先兵と認識していたが、それは正確ではない。
もちろん可能なら東郷圭介を殺害し、そうでなくとも加工所の破壊に役立ってくれればという期待もしている。
だが本来の用途は光清の魔術円をより広範囲で、より多く展開するためのデバイスだ。
言わば術式発動の起点となる、第二のグリモアーツである。
ゴーレムにはそれぞれ光清と魔力を共有する術式が組み込まれており、遠隔で操作するのみならず破損した部位を修復することもできる。
彼はその術式に独自の改良を施し、とある第三魔術位階をより大きな規模で発動できるように細工していた。
「理想社会において飢饉など絶対に起きてはならない」
加工所の地下に根を伸ばして機材を破壊するべく動いたものの、所長として勤務しているダニー・ムーニーを尋問して得た情報は光清の破壊工作を一旦止めた。
曰く地下にある設備を稼働して東郷圭介のグリモアーツを完全に強化するには、相応の時間を要するらしい。
確かにフェルディナントを打ち破った圭介が戦力を増強するとなれば相当厄介だ。
しかし今、彼は自分が用意した植物の毒を網膜から摂取してしまっている。肉体の動きはこれからまた徐々に鈍っていくはず。
加えてフェルディナントが敗北した一番の要因とも言える包帯は、既に消滅しているのも確認済みだった。
ならばグリモアーツだけが強くなったとしても問題ない。
戦う上で最も重要となる肉体が、内部から限界を迎え始めているのだから。
「あの惨劇を繰り返さないためにも、僕達は必ず理想社会の設立を成す」
見つめる先で【ウッドゴーレム】が加工所の地下まで拳を突き刺した直後、その拳が大きく弾かれて地面から東郷圭介が飛び出した。
瓦礫を球状に集めて砲弾とし、ゴーレムの一体を離れた位置にある山まで吹き飛ばす。
光清からしてみれば手遊び程度の魔術と言えど、毒に身を苛まれながら彼が操る【ウッドゴーレム】をああも圧倒できる者などこの大陸にはそうそういない。
やはり[デクレアラーズ]の目的を達成する上で、東郷圭介は無視できない障害となり得る。
急ぎ排除しなければ今後の計画にも悪影響を及ぼすだろう。
彼が今使用しているのは加工済みのグリモアーツではあるまい。まだそこまで時間は経っていないのだから。
となれば肉体をより弱らせるためにも、あるいはいっそ殺してしまうためにも、ここで徹底的に叩く必要がある。
「限られた食料を守らなければならないんです。人の数を減らさなければならないんです。それでいて勤勉な労働者を減らしてはならないんです。社会を作り変えなければならないんです」
――圭介を囲んでいた【ウッドゴーレム】が、全て枯れて崩れ落ちた。
それだけではない。団地を覆っていた樹々も地面にのさばっていた草花も、見る見るうちに朽ち果てていく。
更に土から養分と水分が吸われ続け、大地はところどころ罅割れて今にも崩壊しそうな有り様となった。
空中でその様子を見ていた圭介の動きが戸惑いに揺れる。
もう遅い。既に光清はあらゆる下準備を済ませた後なのだから。
加工所から少し離れた位置、光清が立っている地面から巨大な樹木が姿を現す。
それは摩天楼の如く天高くまで伸び、途中で分岐した枝が人体の上半身にも類似した両腕と円柱状の頭部を形成していった。
第三魔術位階【フォレストキング】。
周囲の環境に存在するあらゆる栄養を吸収し尽くし、己が内部に独占する植物操作の魔術において最大規模を誇る魔術である。
加えて足元に当たる場所から生える六本のより太く強靭な根は、先端部分に生物の口腔よろしく裂けた器官を剥き出しにしながら粘液を飛び散らせる。
そうして巨樹の足元に樹として生えた六匹の大蛇は、それぞれが開いた口の中央に大型トラックほどの大きさはあろう金属製の箱を埋め込んでいた。
これぞ[色無き御旗]がゾネ君主国の転覆に活用しようと開発を進めていた魔動兵器、クラヴィウス。
効果は適性と術式の変換。
自身が適性を持たない魔術の出力を増強するばかりでなく、本来なら長い詠唱を要する魔術でも短い詠唱で発動してしまえるという代物。
あるいは相手が発動しようとした魔術の方向性を変換し、攻撃や回避の妨害にも転用できる。
「人類の最大幸福を実現するため、貴方には死んでもらわなければならないんです」
フェルディナントを倒した事実から、光清は決して油断をしないと決めた。
利用できるものは何でも利用すると。そのためならば、団地の地下で[色無き御旗]により密かに製造されていた違法な魔動兵器の存在も完成まで大目に見てきた。
全ては、誰もが腹いっぱいに食べられる世界を実現するため。
「諦めてください。邪魔しないでください。あんな地獄を許さないでください」
樹木の蛇の一匹が口から滾る炎を舞い上がらせる。
別の蛇は火花を散らしながら回転する金属の刃を。
また別の蛇は純粋な破壊の権化たる魔力の砲弾を。
沸き立つ内に無数の幻影揺らめく毒の霧を。
伸縮自在にして変幻自在の黒く頑強な鞭を。
対象となる術式を解析及び分解する結界を。
植物魔術とは異なる六種類の魔術系統を今、光清の支配する植物がクラヴィウスを媒介として操っていた。
「大人しく、死んでください」
圭介が飛び出したタイミングから察するに、もうグリモアーツの強化は始まっている。
しかし完了するまでに要する残りの時間は決して短くない。
彼の体内に残る毒と蓄積した疲労も合わせれば、仮に強化が済んだとしても光清が勝つ。
全てを圧砕する巨躯と六種類の魔術をそれぞれ操る枝分かれした根が、たった一人の客人に溢れ出る殺意を向けた。




