第十八話 アビス
シプカブロガの西門が存在する三十八区は、常なら静かな場所である。
この土地は特別な名を与えられないまま、現代まで三十八区と呼ばれ続けている。
かつて区域を固有名詞ではなく番号で呼んでいた時代の名残だ。
そこには五十年近く前、ゾネ君主国の高度経済成長期時代に多くの労働者が都心に向けてスムーズに移動するため建てられたマンションがいくつも佇んでいた。
景気が落ち着き第二の首都と呼ばれる別の発展都市が現れ、郊外にンジンカ緑地と団地商店街が出来てからは需要を失った住居がずらりと並ぶ。
解体工事の費用すら惜しまれるそれら墓標じみた住居群は、今や犯罪者やモンスターが無遠慮に住み着くようになっている。
国が処理しきれなかったそれら病原菌じみた存在の数々に蝕まれ、電気も水道も絶たれた今では住宅としてまともな機能など残っていない。
集合住宅の墓場。
言ってしまえばそんな場所に、ンジンカ緑地へと続く道は存在していた。
「クッソ治安悪いたぁ聞いてたが、まさかそこらへんに隠れてた犯罪者の死体まで転がってるとは予想以上だな」
「タイミング的に間違いなく“ラハイアの座”が殺したんだろうね」
エリカとユーの二人が騎士団に囲まれながら来たのは、西部城門が見える大通りの中心。
既に交通規制は済ませてあるため車両が通る心配はいらない。
ひたすら進む集団を、城門の上から楼閣もかくやという身の丈を有した巨大な怪鳥が睥睨していた。
足元の建造物が崩壊していないのが不自然なほどである。
「この距離で仕掛けてこないか。前衛部隊、念のため対象の急降下に備えろ」
「了解」
あれだけの質量であれば体当たりするだけでも充分な脅威となろう。
だが真に警戒すべきは、体当たりされたその後だ。
陣形が崩れて指揮系統を機能不全に追いやられた場合、巨大な鳥に加えて城門の前に立ちはだかる協力者らの相手まで余儀なくされる。
そして相手は犯罪に手を染めているとは言えど外国から来た民間人もいる。短絡的に倒して終われるのは同じく外国から来ているエリカとユーくらいなものだ。
しかし彼女らとて勲章ありきで責任を負えるだけの一般人である。
言ってしまえば騎士団学校の生徒であり、本質的には冒険者ですらない。
彼女ら個人に対する、王族による庇護はまず間違いなくある。
国家間の摩擦も、彼女ら受勲者パーティが進言すればいくらか軽減もされよう。
ただ、それは騎士団が彼女らを頼りにして自らの判断を放棄する理由となり得ないのだ。
「しかし参ったな……。城門を封鎖している中に、ラステンバーグの法衣が見えるぞ」
「ついでにベネルの民族衣装もですね。あんな遠い国からよくもまあゾネまで来たもんです」
こんなことのために、と言わなかったのは恐らく騎士個人の冷静な判断によるものだ。
事は既にアガルタとゾネ以外の国、どころか民族間の細かな問題すら巻き込んだセンシティブ極まる状況となってしまっていた。
ただ殺す殺されるの話に留まらず、この戦場は政治的な意味でも危険である。
「……警戒を強めろ。何か雰囲気が変わった」
歴戦の勘というものが働いたのか。
怪鳥にも集団にも動きがない中、騎士団長が周囲に警告した。
ユーとエリカも徐々に膨らむ不穏な気配には気づいていたものの、その根拠がどこにあるのか先にいる集団や巨大な鳥を見ても判断できない。
とにかく相手がどう動いても即座に対応できるよう、双銃と剣を握る手に力を加える。
そうして数秒後、城門前に集まる人々の顔も見え始めた頃合い。
「あ?」
「え」
視界に映る全ての景色が上へと滑ると同時、肌と臓腑がまとめて持ち上げられる感覚。
足元の地面が何の予兆もなく消失した。
「なっ――!」
戸惑う騎士団とともにエリカとユーが真下に広がる空間へと強制的に降下させられる。
咄嗟にエリカが自分達の落ちる先へ巨大な魔術円を展開し、落ちる集団を魔力の噴射によって一瞬だけ浮かせた。
「っぶねーなァ……!」
赤銅色の燐光がクッションの役割を担う。
それにより落下での怪我は緩和されて無事に全員地下へ到達できたものの、状況は想定を遥かに超える形で最悪な方向へと傾いているようだ。
落ちてきたのは騎士団だけではない。
ボトボトと着地してくるのは“ラハイアの座”が操る傀儡、金属の体を剥き出しにする人形の集団。
「事前に地面に大穴開けて、そこに人形集めて蓋してたってわけだ。どうやら奴さん人間や鳥だけじゃなく地面にだって化けられるらしい」
「おのれ!」
城門の上に巨大な鳥を設置したのは視線誘導に過ぎず、本命はこの大規模な落とし穴だったようだ。
彼らが落ちて人形に囲まれているこの場所は、地下鉄の駅に程近い広場。
常ならば買い物客で賑わう商業区画に一般人はおらず、店舗があるべき場所はシャッターで隔てられている。
照明も切られていて、光源となるのは非常用のランプと真上の穴から降り注ぐ陽光のみ。
オレンジ色のタイルで覆われた床と待ち合わせの目印に使われるのだろう金色の球体が集合しているオブジェだけが、緊迫した場の空気と不釣り合いな日常の残滓を宿していた。
「団長、どうします!?」
「決まってるだろ! とにかくコイツらをさっさと倒して地上に戻る!」
部下に問われて即座に騎士団長が叫び応じた。
地上に戻るための通路もシャッターで塞がれているため、彼の言う通りにするなら強引な手段を選ばなければなるまい。
自分達で市民に出した指示を自分達で台無しにするのは屈辱だが、作戦遂行のために背に腹は代えられない。
地面に擬態できる人形の群れを相手にしているのだ。
ここまでの道のりにも“ラハイアの座”が潜んでいた可能性は大いにあるし、そうなればいつ、どの通路から人形の軍勢が攻め込んでくるか定かでない。
「飛べる奴は飛んで上に戻れ! 真上から敵の増援が来るかもしれん!」
「了解!」
言ってしまえばこの騎士団長の指示もかなり危うい賭けではある。
何せ現時点で主要な指揮系統が機能しているこの場において、戦力を削る判断をしているためだ。
加えて航空戦力となり得る人員を指揮系統が機能している集団から離脱させるのは、敵陣営の目前という場所的な問題も相まってリスクが高い。
しかしだからとこの場で全員留まって襲い来る人形の相手ばかりしていては、何ら情報を得られないまま延々と無為な戦いを強いられる。
現状を打破するため、彼ら騎士団は不利な状況を更に不利にする必要があった。
「【鳥籠】!」
「うおっ」
一部の騎士が飛び立とうとする瞬間、一斉に襲いかかった人形の群れが全て群青色の斬撃で弾き飛ばされる。
ユーが使った【鳥籠】は本来なら自らを中心に斬撃の籠を構築する防御用の魔術だが、タイミングを見計らえば攻撃に転用もできるのだ。
また斬られても構わず立ち上がろうとする人形の四肢を、赤銅色の魔力弾が貫いた。
「人形はこっちで動き止めとくから、一番地上に近い通路のシャッターぶっ壊しといてくれ!」
「…………あ、ああ! 四番出口のシャッターだ、壊せェ!」
現役の騎士でも実現できる者は滅多にいないであろう精密射撃の高速連射。
一瞬呆気に取られた騎士団長が、部下にシャッターの破壊を命じる。
エリカとユーはどちらも攻撃力と攻撃範囲ともに優秀な人材だ。
加えてこれまで実戦を通して得た数々の経験やカレン・アヴァロンの特殊な訓練により、攻撃の精度も向上している。
少し罠に嵌められた程度では揺らがない。
「前衛部隊、今すぐ……ゲェあ」
なので彼女らの心を揺さぶる何かがあるとするならば。
「は?」
「うん?」
それは例えば、騎士団が破ろうとしたシャッターを反対側から破って飛び出した四台のバイクであり。
その背後から更に突き出してきた巨大な車輪と籠であり。
数人の騎士を轢き殺しながら突入してきたその戦車――クアドリガに搭乗している、見覚えのある顔であったりするのだろう。
「……………………え、バカ」
「……………………う、そ」
黒曜石で構成された、運転席の代わりに巨大な刃を付属させた四台のバイク。
それらが背後にある巨大な籠ごと広場に突撃するや否や縦横無尽に走行し、騎士団を轢殺しながら広場の中心まで進んできた。
彼女らにとって最も大きな問題となるのは、主要な戦力たる騎士団の大部分が今の一瞬で轢き潰された事実ではない。
それを実現した戦車に乗る、四人の人物にあった。
「久しぶりだねぇユーフェミア! まさか死んでからまた会えるたぁ思っちゃいなかったよ!」
「見ないうちに随分と大きくなったね。母さんは元気かい?」
「エリカは……全然成長してないじゃん。どうなってんのアンタ。ちゃんと食べてんでしょうね」
「胸が育たねえのは母親似じゃねえのあ痛っ! やめろせっかく生き返ったのに目ェ狙いやがってクソアマ!」
黒い革鎧で全身を覆い腰まで伸びる赤黒いばさら髪を靡かせたエルフの女。
ポロシャツに身を包み黒い髪を腰まで伸ばした少し痩せ気味なエルフの男。
金属の鎧に身を包み緑色の長髪をポニーテールにまとめたヒューマンの女。
軽装にして細身ながら筋肉を無駄なく備えた狼と思しき耳を持つ獣人の男。
ユーはエルフの男女に。
エリカはヒューマンと獣人の男女に。
それぞれ、意識をすっかり持っていかれてしまう。
「ボーっとすんな、ホラ」
「っづぁ!」
鎧を着ているヒューマンの女が指を弾くと、そこから蜜柑色の魔力弾が射出されてエリカの眉間に命中した。
死ぬほどの威力ではない。本当に指で弾かれた程度の痛みが、彼女の意識を暴力的に戦場へと戻す。
だが、完全に持ち直せるはずもなかった。
「テ、メェ。やりやがったな。よりにもよって、一番あたしの前で出しちゃならねえ姿を取りやがったな」
軽い衝撃の後に湧いて出るのは、殺意すら伴う激しい怒り。
未だ動揺から脱せていないユーの分も、彼女は激情を吐き出す。
「父ちゃんと母ちゃんを! 再現しやがったな!」
広場に突入してきたクアドリガは、ユーの父親が生前使っていたというグリモアーツ“オブシディアンカルテット”に相違ない。
そしてそれを操縦しているエルフの男が誰であるかを、エリカは知っている。
彼女の実家に飾ってある写真。
彼女の、死んでしまったという父親。
「アタイは親じゃあないんだけどねえ」
その横で肩をすくめるのは、以前ユーが空中で死闘を繰り広げた相手であり彼女の師でもある人物。
連続殺人鬼、ジェリー・ジンデル。
あの修羅が今この場において、疑似的な復活を遂げていた。
「しっかしここで親子感動の再会っていうお寒い演劇が始まるかと思ったんだが、どうしてどうして冷静に怒れるじゃないかちっこい嬢ちゃん」
「黙れクソッタレの偽物野郎が。ユーちゃんまで傷つけるんじゃねェ」
「んー、俺らとしては自分は自分としか思えないんだけどな。やっぱエリカから見れば普通に偽物なのか」
自意識と客観を比較するのは、エリカにとって血の繋がらない父親。
冒険者、アルジャーノン・バロウズ。
本人は目立った功績のない冒険者に過ぎないが、彼を知る一部の者は自らの手柄を彼に押しつけられたものだと語る。
「まあ魔術で死人を生き返らせるなんて無理な相談だし、俺らの認識がどうあれ事実は“ラハイアの座”が読み取った情報を元に演技してるだけっちゃだけではあるわけだ」
「お得意の分析なんて無粋なだけだし今はやめなさいよ。それに私はエリカが私らの存在にブチギレるのもわかるわ。正直立場が逆だったら同じリアクションしてたでしょうし」
エリカに魔力弾を放ったのは、エリカにとって血の繋がらない母親。
アガルタ王国の城壁常駐騎士、ディアナ・バロウズ。
魔力弾の扱いに関しては目を瞠るものがあれど、独断専行が過ぎるという評価から最期まで出世できなかった女傑である。
「お人形遊びに家族が巻き込まれるのは腹が立つでしょうね。けど最悪なことに、こっちも大本が[デクレアラーズ]なのよねえ」
「我々も我が子と戦うなどしたくはないですよね。ああすまないユーフェミア。君からしてみれば僕らは紛い物の人形なのだから、なるべく早く決着をつけなさい。迷わないようにね」
自分を迷わず殺せと優しく微笑みかけるのは、ユーにとって実の父親。
ファーマ大学心理学部社会心理学科教授、アイザック・パートリッジ。
凶悪なグリモアーツの性能に反して本人は一度も戦わず、不幸にも当時治療法が確立されていなかった難病でエルフとしてはあまりに短すぎる生涯を終えた心理学者である。
縁ある死者の復活。
彼女ら二人にとって何よりも許せず、同時に何よりも動揺を誘う一手だった。
「さて、魔術の適性やらグリモアーツの強度やら、生前を完全に再現できるわけじゃあないが」
言いながらジェリーの手に他の人形が数体集まり、内蔵された刃を組み合わせて長大なショーテルへと変形を遂げる。
恐らくアイザックの“オブシディアンカルテット”も同様の方法で再現したのだろう。
グリモアーツに見えるそれらも、彼らと同じく再現されただけの紛い物に違いない。
「それでも胸が躍るじゃあないか。アタイにまた戦う機会が来るとはねぇ」
「そこの殺人鬼は嬉しそうにしてるけどよ。こっちとしては何かと複雑なんだぜ」
不満げに語るアルジャーノンの両手には、ハンジャルと呼ばれる歪曲した刀身の短剣がそれぞれ一本ずつ無貌の人形から手渡された。
彼が生前使っていたグリモアーツ“グルーミーフィン”を再現したものと思われる。
その脅威を知るエリカが緊張感から唾を飲み込んだ。
「娘との感動の再会といきたかったところだが、何せこんな形じゃあな。エリカも俺らも素直に喜べねえさ」
「偽物って言われたらその通りだもんね」
ディアナの手に渡ったのはエリカやユーも見慣れたアガルタの武装型グリモアーツ“シルバーソード”だ。
騎士として活躍していたという彼女にはその方が本領を発揮しやすいのだろう。
「じゃ、そんな偽物の母親から本物の娘とそのお友達に一言」
死者が各々の武器を構える。
相対する二人の生者も両手に力を込めた。
ただ、覚悟が追いつかない。
「この程度でいちいち動揺してんじゃないわよ」
ざわざわと波打つ胸中に厳しい一言が突き刺さると同時。
風とともに飛来したディアナの鋭い蹴りが、エリカを蹴り飛ばす。
彼女らの戦いの合図は、そんな紛い物の母親による娘への一撃だった。




