第二十話 白狼の追想
十二年前。
テミスト村と呼ばれるその集落は、巨大な農園と居住区とに二分されていた。
そしてダグラス・ホーキーが母親と二人で暮らしていた居住区では、毎日朝になると戦闘能力に秀でた村の若者らが集結する。
集団のリーダーがこれから戦地に赴く他の者らを鼓舞し、他の者らは謳われし文句に血を滾らせて己のパフォーマンスを高める。
これが白狼族の日常である。疑問を抱く者など誰もいない。
まだ戦いに赴く年齢に達していない、小さな子供を除けば。
「戦う以外の仕事? 変なことを知りたがるわねぇ」
「ちょっと気になっただけだよ」
幼き頃のダグラスが母にそんな質問をしたのも、そうした日課を終えた若者らが村の外に出ていってからの事であった。
傭兵として戦場で戦う未来を憂いて、などというわけではない。
彼は単純に戦わない者がどうやって生活しているのかを、当たり前とされる日常の中でたまたま気にしただけである。
その根底には傷を癒すという戦闘に不向きな魔術しか使えない母の行く末を想う、息子としての配慮も幾分かあった。
「んー、そうね。例えば体が弱くなってしまったお爺さんお婆さんの世代になると、子育てだとか村の在庫管理なんかを任されたりもするかな」
だが、彼の母はそこまでの年齢に達していない。
ともすればダグラスほどの大きな子供を持つには若いくらいだった。
「お母さんは? いつも俺が学校にいない間、どこにいるの?」
なのに戦えないのでは困るんじゃないか。
そんな彼の小さな心配事は、すぐに不必要なものであると示される。
「お母さんの場合は回復魔術を使って、傷をいつでも癒せる場所を守り続けてお金をもらってる。昨日もダライアスお爺ちゃんの腰痛を治してたし、一昨日はエイプリルちゃんの膝の擦り傷も治した」
「あれってお母さんが治してくれてたんだ。じゃあ、お仕事はちゃんとあるんだね」
「そりゃまあね。なければ生活できないでしょーが」
茶目っ気溢れるウィンクをしてから、彼女は白く長い髪を指で撫でつつダグラスと目線を合わせるように膝を折ってしゃがんだ。
「ダグラスもそろそろ自分の魔術がどんなのか、ちょっとずつわかってきた頃でしょ? こないだグリモアーツ作ってもらったって先生から聞いたよ」
「うん、作ってもらったけど……よくわかんなかった」
白狼族の子供は七歳の誕生日を迎えてから初めての春、全員揃ってグリモアーツを作成してもらう習わしとなっている。
ダグラスも例に漏れず自身のグリモアーツを作ってもらったばかりだった。
未だシンボルも浮かび上がっていない状態で、それでも友人らは炎を出したり腕力を強化するなどしていたものだ。
そんな中でダグラスの魔術だけ、いまいち効果がわかりづらい。
最初は指で弾いた木の実が遠くに飛んだのを見て、身体強化の類と思った。
しかし放課後に身体強化の魔術を会得した友人と腕相撲をしようとした結果、互いの手と手の間に不思議な力が生じて触れた瞬間すぐに離れてしまう。
どういったものかわからない以上、実戦で使うのは難しい。
それが一族の共通認識である。恐らく近日中に学校の方から、ダグラスの魔術を調べるための手続きに関する書類が届くだろう。
「だから俺、戦えないかもしれない……」
白狼族は同じ獣人の中でも飛び抜けて高い身体能力で、アガルタ王国の軍事力として働く一族として存在していた。
そんな種族のみで形成された社会において、戦闘に不向きな存在というのは誰も声に出さないもののよろしくない目で見られがちだ。母とてテミストにおいて誰もが認める立場にいるわけではない。
弱さを母に見せるという行為には相応の抵抗があったものの、それでもダグラスは口に出して伝えた。
結果、それを彼の母は笑わず受け入れてくれた。
石鹸の香り漂う細い指が、ダグラスの頭を撫でる。
「その時はその時。戦う以外の生き方を探すしかないでしょ」
彼女の笑顔はどこまでも慈愛に満ちていて、同時に力強さを内包していた。
「逆に私は見てみたいよ。あんたが戦う以外に魔術を使って、いつか立派な大人になるところを」
「戦う以外でって、何。立派な大人になるって、どうやって。戦う他に何すればいいのさ」
戦場に出るのが当たり前とされる世界しか知らないのは、ダグラスも彼の母親も同じはずだ。
それでもどうして彼女はそこまで言えるのか。
「とりあえず海行けば?」
「あ? 何? うみ?」
想定外の言葉に思わず口をあんぐりと開けて応じてしまった。
「このテミストがあるアガルタ王国は大陸では内陸部だからね。大陸の端っこ、海が見えるような場所まで行けばそのうちダグラスが戦わなくても生きていける場所だってあるかもしれない」
「え、何それ。村から出てけって話?」
「そういう話かもしれないけど追い出そうってわけじゃないよ。村なんて出ていってからも好きな時に帰ってくればいい。ただこれは一つの道として知っておいてほしいの」
頭を撫ぜる指が、今度は頬に移る。
顔の半分を優しく包み込まれた状態で、ダグラスは染み込むような声を聞いた。
「戦うために生きる、じゃなくて。生きるために戦う、ってのもアリだと思うから」
微笑みはどこまでも優しいはずなのに。
「戦って生きてその先で、戦う力があって良かったって、そう思える生き方ができればいいね」
どこかその声は、悲しげにも聞こえる。
「だって世の中、戦いだけじゃないんだから。知らない誰かと出逢ったその先に、勝ち負け以外の決着があるかもしれないんだから」
優しい魔力の燐光が、ダグラスの顔に触れる。
今は癒すべき傷などないが、それでも。
ずっと触れていたいと感じる何かがそこにはあった。
「この村にいるだけじゃわからない何かが、ダグラスを助けてくれますように」
宗教の存在が希薄となったアガルタ王国においてすっかり形骸化してしまった、祈りという行為。
そこに込められた想いは今も彼の胸に遺されている。
「あと、できればで構わないから」
ああ、そうだ。
死んでしまった母親は、きっとダグラスの幸福をずっと祈っていた。
「強くなるなら、その日を迎えるまで健やかに過ごすための強さを、得られますように」
* * * * * *
表面を薄い氷の膜に覆われたダグラスを見て、アダムは短く安堵の息を吐いた。
先ほどの戦い、決してアダムとアヴドゥルに余裕があったわけではない。
通用する攻撃手段が限られている以上、そこいらの冒険者よりも遥かに苦戦する相手だと認めても良いほどだ。
「終わりました?」「やっぱ相手してみると時間かかりましたね」「つっても俺ら二人が負ける可能性は皆無っすけど」
未だ新手の襲撃を警戒してか、アヴドゥルは分身を数体出したまま話しかけてくる。
ただ、アダムからしてみればようやく一族の因縁に決着をつけられたような心持ちだった。
「流石は我がウィルズ・ハウスマン家の悪意が結晶といったところかな。あれだけの猛攻撃を繰り出せば大半の相手は数秒で片付けられるはずなのだが」
白狼族の身体能力はやはり高い。
加えて物理抵抗魔術という魔術系統も厄介極まる。
ここまでよく耐えたと言うべきか、この短時間で済んで御の字と言うべきか。
氷の柱に閉じ込めても腐りかけの縄で縛る程度の拘束力しか期待できないなど、尋常の沙汰ではあるまい。
「だがこれで終わりとするにはまだ早い。確実に息の根を止めなければね」
「なら俺がやりますよ」「ずっと剣を振って疲れたでしょ」「後は任せてくださいや」
分身が口々に言葉を紡ぐ中、そこから一体が前に出てダグラスに近づく。
全身が凍った状態で動けない以上、意識もまともに残されてはいまい。
加えて凍結した肉体は細胞間の連結に関わる水分の動きも遅延し、外部からの衝撃に対する抵抗力を失ってしまう。
こうなれば【デコイボム】一発で終いだ。
アダムが氷の塊を適当にぶつけてやっても良かったが、爆砕した方が確実に仕留められるだろう。
「的外れな憎悪を起点として客人を狩り続け、その果てで客人に殺されるか。因果な話もあったものだな」
「それを貴方が言うんすか」「悪趣味だなー金持ちってやつは」「怖い怖い」
半笑いでアヴドゥルの分身があと数歩ほどで殺せる間合いに入った。
直後。
「え?」
「ん?」
ダグラスに向かった分身から奇妙な反応があり、それにアダムが疑問を覚える。
何が起きたのか、あるいは起きようとしているのか把握しようとした瞬間。
「ぶわっ」
ダグラスを中心として、炸裂する氷の膜が周囲に飛び散った。
弾き飛ばされた破片がダグラスに接近していた【デコイボム】を貫き、爆発させる。
ピーコックブルーの爆風で視界が遮られた結果、今度はアダムの方がダグラスの姿を見失った。
だが、アダムにとってそれ以上に驚嘆すべきはダグラスの挙動にこそある。
(何故、まだ動ける!?)
アダムは外見こそ若くとも、公爵として長く生きてきた怪物の一人だ。
他者の精神を見抜く術、そして壊す手段に関して言えば貴族の中でも上位に位置する自覚はあった。
加えて自分の得意分野である低温魔術が、どれほど他者の動きを抑えるかも理解していた。
極限まで低温環境に晒された肉体は呼吸一つでも相当なエネルギーを消費し、やがて疲弊して動けなくなってしまう。
低体温症の恐ろしさは他者にそれを与えてきた彼自身が一番知っていたはずなのだ。
だから驚愕するしかない。
どうやって動けたのか、何も理解できないから。
(ダグラス・ホーキーの精神は既に折れていたはずだろう! そうでなくても先の動きを見た限り、肉体は既に限界を迎えていたはずだ!)
元より“カインドホロウ”によるメンタルケアの庇護下で繰り返してきた殺戮の経験が、彼にとって覚えるべき罪悪感を蓄積し続けていた。
それを東郷圭介との戦闘を通して一気にぶつけられ、憔悴しているところで一族の仇にして創造主たる自分に力の差を見せつけられ、殺し合いへの恐怖と復讐心の残滓は希死念慮へと姿を変える。
そうなると見越して今回この場所に彼を呼び込んだ。
事実として【ホワイトブレス】をぶつけた際、彼は抵抗しなかった。
もう、生きる希望も反発する体力も残されていないはずなのに。
(まさか……まさか、この男は!)
爆風の先に黄土色の光が散ったような気がして、目を凝らす。
同時に声が聞こえてきた。
「忘れてたよ。母さんはずっと、俺に外の世界を見せたがってた」
アヴドゥルの魔力が空気に溶けて消えていく。
その向こうにはダグラスが、矛の武装型グリモアーツ“ボロゴーヴ”の穂先を床面に突き刺して支えにしながら立っている。
「テミスト村から外に出たあの日、倉庫の屋根裏に隠れてたところを騎士団に保護されてメティスに運ばれたあの時。俺は俺に外の世界を見せようとしていた母さんの願いを、叶えたような気でいたんだ」
満身創痍のはずだ。
だというのに、瞳に宿るのは力強い戦意。
目の前の敵がまだ戦えるのだと知り、アダムの警戒心は最高潮に達した。
「けど、そうじゃなかったんだな。結局あんたの呼び込んだ客人に対する恨みを持って、排斥派として動いてたあの時も、俺はあんたが作った牢屋の中に閉じ込められたままだった」
今すぐ殺すべきだ。
わかっていてもできない理由があった。
間合いに入れば先ほどの【デコイボム】同様、吹き飛ばされるだろうという不思議な確信がある。
「けど、もういい。もう客人だからとか、一族の仇とかどうでもいい」
矛が届く範囲までに留まっていた目に見えない脅威が、部屋中に満ちた感触。
それに恐怖して思わず再び【ホワイトブレス】を放つ。今度は【スノウラビリンス】によって軌道も大きさも距離感も、視覚情報の何もかもを歪めながら。
そこで察するべきだったのかもしれない。
アヴドゥルが動かないのは呆けていたからではなく、あまりにも今のダグラスが危険だからだと。
「あんたの檻ン中は、もううんざりだ」
ダグラスの手から“ボロゴーヴ”の柄へ、柄から穂先へ、穂先から床へ。
そして床から壁、天井に至るまで。
空間全体にダグラスの魔力が流し込まれた。
「第三魔術位階――【ロストランド】ォォォォォォ!」
充満する魔力が術式を象って起動した、次の瞬間。
部屋を覆っていた全ての氷が、部屋ごとバラバラに砕け散った。
「うわああぁぁぁあああああああ!」
氷のみならずダンジョンを構成していた壁と天井までもが瓦礫となって飛来し、床が崩壊して逃げ場を失ったアダムの肉に突き刺さっていく。
周辺から飛来する破片を防ぐべく即興で作った氷の障壁など、ダンジョンの素材と比べれば脆いものだ。いとも容易く破壊され、月白色の燐光として虚しく溶けて消えてゆく。
この状況において【スノウラビリンス】など無意味だ。
幻を作り出す氷が全て壊されている上に、それを抜きにしてもダグラスの攻撃範囲が広すぎる。
第三魔術位階【ロストランド】。
端的に言えば周辺環境の物理抵抗を重力にさえ耐え切れないほど極限まで弱め、粉々に砕くあまりにも豪快な破壊の魔術。
しかもダグラスはそれに加えて破片一つ一つにまで魔力を付与し、物質強化に加えて空気抵抗への干渉も施すことで即興の炸裂弾としていた。
アヴドゥルの【デコイボム】など当たり前のように全て爆砕され、残されたのは下の階に落とされたアダムのみ。
前もって用意しておいた罠が、たった一発の第三魔術位階で完全に攻略されてしまった事実。
それに対する驚愕と怒りで動きを止めた彼の耳に、ウィルズ・ハウスマン家が遺した最後の汚点の声が届く。
「ムカついたり落ち込んだりして大変だったが、あんたがこうして丁寧に下準備済ませてくれてたおかげで大事なことを思い出せたぜ」
挑発的な発言を受けて眉間に皺が寄るのを感じる。
今すぐ魔術の一つでも撃ちたくなるところだが、そんな心情を察してかアダムの背後からアヴドゥルの分身がまたも十一体ほど出現した。
「もう復讐なんぞにこだわる理由もありゃしねえ。こっちは絶景見たり美味いもん食ったりするために生きるって決めたんだ」
だが、そんな頼もしさを覚える爆弾の軍勢はすぐに背後でまとめて爆発する。
ピーコックブルーに輝く魔力の残滓を散らしながら消えゆく分身の中心に、たった今まで上にいたはずの青年の姿があった。
赤い矛を肩にかけ、白い頭髪にかかる塵を物理抵抗で振り払いながら、彼は極めて近い距離から話しかけてくる。
「よっ、大将。元気でやってっか?」
「ぐおっ!?」
もはや目視では追えない速度で接近したダグラスが、全く同じような速さでアダムを蹴り飛ばした。
無造作に突き出された足が下腹部に触れると同時、接した部分で生じた物理抵抗力が爆発的に増幅される。
これまで触れるどころか位置を探ることさえできずにいた敵に、ダグラスの攻撃はとうとう届いたのだ。
「がああああああ!!」
崩壊した壁の隙間を縫って今まで立っていた場所から遠く離れた部屋まで飛ばされ、アダムの体はどこかの壁に激突してから下に落ちる。
道が枝分かれしているダンジョンの中心地。アヴドゥルによって破壊された通路などもあるそこは、何故か下に水が張られていた。
空中で“フィンブルヴェトル”を振るって水面を凍らせ、月白色に固まった足場に着地したところでダグラスもその足場の末端に舞い降りる。
(馬鹿な。何を思い出したのか知らないが、私に追い込まれていた時とはまるで別人じゃないか)
ここまで来ると水で満たされている最下層の様子など気にならない。
それよりも想定から大きく外れた現状、主に大きな精神的成長を遂げた目の前の敵への対処に集中しなければ。
「決着つけようぜ公爵サマよ。俺がこれまでやらかしてきた全部、ほんの少しでも清算するためにあんたの命を使わせてもらう」
「ふざけるなこの大陸の汚点が! 私は絶対に貴様らの存在を認めない! 記録も残されていない今、貴様を殺して今の腐敗した世界を清浄なる社会に近づける!」
氷の足場の表層を削り、再び【スノウラビリンス】の準備に入る。すぐに発動はできずとも戦いの中で効果を発揮するように細工はできるはずだ。
アヴドゥルの支援もあと少し経てば間に合うだろう。そうなればここからでもまだ勝ちの目はある。
何もかもをきっと見抜いた上で、ダグラスが笑う。
「そりゃあ無理だろ」
赤い穂先がアダムへと向けられた。
戦闘態勢に入った彼に迷いは見受けられない。
「だって俺、強いし」
「その強さを作り上げたのが浅ましい欲望に憑りつかれたウィルズ・ハウスマン家のクズどもだ! それを認めないと言っている!」
だから本当は察していた。
この戦いの決着がどうなるのかを。
「断じて貴様の存在は許さん! この場で散って歴史から去れ!」
「公爵やってると誰でもそうなっちまうのか? まあ、もうどうでもいいけどよ」
アダムも“フィンブルヴェトル”の刃を振り、冷気を迸らせて。
「行くぞ!」
「来いやおっさん」
両者、ある意味で今度こそ正面からぶつかった。




