第十九話 氷と爆弾
「君の魔術は物理抵抗に干渉する類のものらしいね」
空気と同じく冷え切ったアダムの声が、分厚い氷の向こう側から聞こえてくる。
声色に強い感情は宿っていない。ただシンプルに作業として、淡々と目の前の敵を排除しようとしているようだ。
「ならばこの手で封じられるということもあるまい。そのままでは殺すに不便だ、さっさと出たまえ」
透き通った柱に閉じ込められ、氷に密着している皮膚が痛むほど冷たい。
元々閉じていた口の中までは凍りついていないものの、全ての関節を固定されているようなものだ。このままでは身動き一つ取れない。
ダグラスでなければ終わっていた。
「ぐぅ……!」
全身と氷が密着している部分に【リジェクト】を発動し、外側に向けて抵抗力を爆発させて氷の柱を破砕する。
足元に残った氷で転びそうになる体を急ぎ立て直した時点で、アヴドゥルの分身が目前まで迫ってきていた。
「おらよ!」
放たれた蹴りを咄嗟に“ボロゴーヴ”の柄で防ぐも、これまでの流れで彼の攻撃がまだ終わっていないとダグラスは学んでいる。
当たり前のようにアヴドゥルの足首から先がピーコックブルーの燐光を散らし、小規模な爆発を起こす。一度触れた状態からの多段攻撃は【リジェクト】でも相殺できない。
生身で爆風を受けることだけは回避したダグラスだが、背後にある凍った壁に叩きつけられてしまった。
「ブッ」
衝撃に耐え切れず息を吹き出すも、休んでいる暇などない。
追撃が来ると見越して急ぎ右に跳躍すると、体の左側で冷気の奔流が壁にぶつかり炸裂した。
左腕が薄い氷の膜に覆われていく中、ダグラスはアダムの方を見る。
手に持っているそれを見た時の第一印象は鞭だった。
グリモアーツ“フィンブルヴェトル”と呼ばれるそれは、柄こそ手を覆う形で保護する鍔が付属したありきたりな形状をしている。
しかしその柄から生えた異様に長い刀身は柔らかな金属で構成されているようで、大きく歪曲したそれはアダムが腕を振るう度にブラブラと揺れていた。
ダグラスはその武器の名を知らない。
ウルミと呼ばれる、薄く柔らかく長い剣。
忙しなく空気を切り裂きながらアダムの前で縦横無尽に蠢く刃は、そうして振るわれている合間にも月白色に輝く冷気で室温を下げ続ける。
そして振るうアダム自身の姿も【スノウラビリンス】で屈折した光により、像を結んでは消えるという無秩序な挙動を繰り返す。
「力学系統の魔術は応用の幅こそ広いものの、対策も容易にできてしまう。君の場合はベクトルに干渉できる一方でスカラーには手も足も出ない」
氷の粒子に反響して部屋中に響き渡る声は、間違いなくダグラスの弱点を突いていた。
彼は密着した物質間に働くあらゆる力を掌握できる一方で、極端な温度の変化に対応できない。
事実こうしてアヴドゥルやアダムからの次の一手を恐れて待ち構えるしかできていない今、その肉体は低体温症の症状に見舞われつつあった。
先ほどまで急に出現するアヴドゥルの攻撃に対処し続けた疲労も相まって、目と脳を侵蝕する強い眠気。
加えて急激に下がる温度で震えて体力を消耗し続ける体は、白狼族たるダグラスの身体能力を一般人のそれと同程度にまで引き下げる。
「クソがァ……ッ!」
何もかも諦めていたところで突如舞い込んだ、一族の敵討ちという大きな目標。
それに喰らいつかんと“フィンブルヴェトル”を振るい続けるアダムに向けて、“ボロゴーヴ”の穂先を向けたまま突撃した。
『ダグラス!』
もちろんそれが悪手なのだと、別の場所で冷静に状況を見ていたララは知っている。
意地以外の何物でもない、あまりに稚拙な攻撃。
当然、この場でこの相手に通用するはずもない。
「あーあ」「自暴自棄になっちまったか」
呆れた様子のアヴドゥルの声がどこかから聞こえると同時。
確かにアダムの眉間を捉えたはずの刃が、相手の頭部の真横にある空間だけを貫いていた。
「あぁ……?」
「愚かな」
ウルミという武器は刃の先端をどれほど速く振るうかによって、相手に与えるダメージが変わってくる。
刀身が柔らかい都合もあり、ただ通常の刀剣と同様に振るうだけでは致命傷に至らないのだ。
そのため敵に当たる当たらないは別として、常に腕を動かし振るい続けるのが正当な扱いということになる。
つまりダグラスが飛び込んだのは、部屋中を氷漬けにするほどの冷気を纏った刃が高速で動き回る間合い。
外してはいけない攻撃を外した代償は、すぐに彼の体を襲った。
「……――っ」
幾度も命中する冷徹な斬撃。
そのほとんどは【リジェクト】で威力を相殺するも、二回ほど防ぎ切れず右肩と左大腿に切傷を負ってしまう。
しかもその命中した箇所を起点として、また氷がダグラスの体を瞬時に覆い尽くした。
ガコン、と鈍い音を立てて棺ほどの大きさになった氷で包まれ、ダグラスは床に落下する。
「ガァッ!」
とは言え二度目ともなればさっきの柱よりスムーズに内側から砕いて脱出できた。
できたが、迂闊に飛び込んだせいでまたも魔力と体力を奪われ、体はより冷たくなっていく。
ただでさえ余裕のない状況で、背中に何かが覆い被さった。
「何っ……!?」
「精々頑張って防げや」
耳元で囁く声が事態の重みを告げる。
それは【スノウラビリンス】を応用してアダムに姿を隠されていた、アヴドゥルの【デコイボム】。
低温環境と不意打ちによって術式の発動が大きく遅れたため、まだ【リジェクト】を使っていない段階で背後にピーコックブルーの輝きが膨らみ始めた。
「んじゃあな」
勝利を確信したアヴドゥルの言葉。次いで、爆発。
完全に防ぎ切れなかった爆風はダグラスの体をまたも大きく吹き飛ばし、空中で右肩と左大腿の傷から血が噴き出した。
何度かバウンドしてから床を滑り、改めて受けたダメージを認識する。
(ああ……これ、いよいよ死んじまうかもしれねえ)
今までにも苦戦自体は経験がある。それこそ東郷圭介との戦いでは“カインドホロウ”を用いた上で敗北してしまった。
ジェリーとの戦闘訓練でも殺されかけた経験は数えきれないほどあったし、後からゴードンに縫合してもらえただけで腕も脚も何度か斬り落とされている。
しかし、明確に敵対する相手にここまで恐怖を感じたことはなかった。
これまでの戦いで蓄積した疲労や負傷に加え、部屋の温度はアダムが振り回す“フィンブルヴェトル”によって現在進行形で下がり続けているのだ。
おまけに【リジェクト】だけでは対処できない【デコイボム】を使い、この場にいなくともダグラスに攻撃できるアヴドゥルまでいる。
何よりも手痛いのは、精神的な動揺のせいで判断を見誤ってしまった点だ。
もしも空気抵抗を外側に押し出す【ガストキャンセル】を最初に使って室内を駆け巡っていれば、多少はアヴドゥルによる爆発で威力を殺されはしても【スノウラビリンス】は攻略できた。
要するに空気中に含まれる氷の粒さえどうにかしてしまえば良いのだから、その点でダグラスにも選択肢はあったはずだというのに。
(最初に氷の柱に閉じ込められた時点で、そんな元気どっか行っちまったからな……)
動きを止めた途端、肉の筋と筋の隙間から冷気が染み渡るように体温が低下していく。
手は握った“ボロゴーヴ”の柄に貼りついて離れない。きっと皮膚が凍って矛と一体化してしまっているのだろう。
このまま武器を弾かれれば、手のひらの皮が豪快に剥がされてしまう可能性があった。
(手なんざ、もうどうでもいい)
矛を構えられるなら、まだ戦える。
そう思って立ち上がり構えたところで、またも氷の粒を内包した風がダグラスの体を苛んだ。
「っ……」
「まだ立てるとは驚いた。そろそろ限界だろうに」
振り撒く殺意が不自然なほどに穏やかな声が、またも凍てついた部屋に反響する。
「外部からの攻撃を遮断するのは確かに戦闘において有用な防衛手段だ。しかし同時に外部から取り入れるべき熱を他者によって断たれた時、君の身体は正常な機能を失ってしまう」
「何を、テメェ……」
「物理抵抗に干渉したところで君ではこの氷の地獄を突破できない。生物である以上、体は常に体外に熱を放出し続けるからだ」
言う間にも“フィンブルヴェトル”の柔らかな刀身がしなり、高速で振るわれる中で空気から熱を奪っていく。
このままアダムが動き続ければ室温はいつまでも下がり続け、極寒の環境に適応する手段を持たないダグラスは間違いなく死んでしまう。
そうとわかっていても体は凍ったように動いてくれなかった。
「そしてそれを食い止めようにも、そのための手段が君にはない。気づいていたかね? 先ほどから君にとって馴染みある声が途絶えていたことに」
アダムの無機質な目線がダグラスの後方に向かう。
振り向いて見ればそこに転がっているのは、ララとの通信を繋げていたはずのドローン。
今や表面を氷で覆われ、床に落下してしまっている。
「ララ……」
「索敵の手段が限られている君の代わり、私の位置を把握できそうな彼女との会話はもう不可能だ。これから君は恣意的に歪められた距離感と角度を正確に読み取って戦わなければならない」
到底、無理だ。
普通に攻撃すれば先のやり取りと同様、攻撃を外した上で大きな隙を晒し猛反撃を受ける。
しかも今のダグラスはさっき突っ込んだ時以上に激しく消耗してしまっていて、あまり無茶な戦い方はできそうにない。
加えてこれだけ用意周到に相手を陥れる環境を作っていた相手だ。
勘を頼りに攻撃していたら運よく命中、などという甘い夢も見せてくれるか微妙なところだった。
きっと、このままでは当たらないように調整している。
「もう充分だろう。君達一族は王国にある程度の貢献をしてくれたし、これ以上私の知らない場所で活躍でもされようものなら目障りですらある」
勝手にも程がある言い分を至極当然とばかり吐き捨てて、アダムが“フィンブルヴェトル”の握られた右手を後ろに下げた。
「本当はもう誰かを傷つけたくないのだろう? これまで幾度もその手を血に染めてきて、他者の命を奪う罪悪感が一気に押し寄せてきて辛かったんだろう?」
もはや手を動かしてもいないというのに宙で蠢き空気を切り裂き続ける剣は、やがて刀身の中心に他の場所より遥かに冷えた空間を作り出す。
「嫌なことなんて何も考えなくてもいい。これから私が君を楽にしてあげよう」
第四魔術位階【ホワイトブレス】。
本来なら氷山などに生息する類のドラゴンが口から吐き出す、触れる物質全てを氷漬けにしてしまう吐息の魔術である。
ドラゴン以外の種族が再現しようとするとどうしても規模が縮小されてしまうが、アダムがやってみせているように低温魔術に適性を有する者が扱えば無詠唱のまま放ててしまう。
そしてこの魔術は、ダグラスのように衝撃を防ぐことに特化した相手にこそ有効とされていた。
「さらばだ白狼族よ。ウィルズ・ハウスマン家、最後の汚点よ」
傲慢この上ない言葉とともに、吹雪の球がダグラスに向けて放たれて――
「……………………誰が、汚点だ」
――そんなつまらない返答とともに、彼は月白色の風に飲み込まれていった。




