第十八話 狼の足跡が途絶えたのは
冷たい空気に満たされた階段を下り、明るい空間に出る。
そこでダグラスは冷凍庫に閉じ込められたような気分になった。
――部屋全体が凍っている。
月白色に光を反射する滑らかな氷の面が、周囲の風景を明瞭に映し出す。
合わせ鏡のような形となったそれらが、一定の広さしかないはずの大部屋を無限の伽藍に見せかけていた。
明らかに不自然な、人為的としか思えない有り様に自然とダグラスの警戒が強まる。
(みんなの仇が討てるってだけでこんな極端にやる気になるのか、俺は)
直後に胸中で自嘲しながら進んだ先には、人影がいくつか存在していた。
まずはアヴドゥル・コンテ。
【デコイボム】で作られた分身が何体も並んで各々視線をダグラスに向けている。
まさかここで魔術を使用している本人が出張るとも考えにくいので、恐らく別の場所に隠れているものと仮定しておく。
そちらはいい。
最初からこの男が敵であるという情報は得ていたのだから。
問題はもう一人。
白狼族を滅ぼしたという、ダグラスにとって家族友人恩師それら全てを殺戮した仇敵かもしれない存在。
直接この目で見た事こそないものの、目の前にいるその人物が誰であるかは知っていた。
つい最近、マーシャに配布された資料に顔写真がプリントされていたから。
「……やっぱあんたが来たか」
「その様子を見るに何か察する要素があったのかな。後学の為に聞いておきたい」
穏やかな笑みを浮かべてアヴドゥルの分身に囲まれた、その人物。
アガルタ王国北方の土地に広まっているという僧衣を改変して作られた、雪のような真白を基調としつつ茶色の装飾で彩った独特な衣装を着た男。
側頭部に僅かな産毛を有する耳があり、慈しみすら感じさせる穏やかな瞳で視界に入る全てを見通すその様は、かつて見た写真越しにも感じていた。
「俺が元々誰の下で働いてたと思ってやがる。気づくわ、このくらい」
「そうかね」
アダム・ウィルズ・ハウスマン。
今回の仕事を持ち込んできた、アガルタ王国の四大公爵が一人。
娘を殺され取引の場となるダンジョンを荒らされた被害者とも言うべき男が、無表情のまま凍てついた空間の中心に立っている。
「マシュー都知事の下で動いていた頃の経験が、此度の任務にある裏を読ませてしまったか」
『奇妙な点の多い仕事でしたので』
ダグラス同様に察していたらしいララが、ドローン越しに応じた。
『最初に第二王女から聞いた限り、今回の討伐対象はアヴドゥル・コンテとその仲間四名。しかしダンジョン内で襲撃に遭ったという貴方の報告には、アヴドゥルを含めての四名しか出てきませんでした』
マーシャ曰く、アヴドゥルと他四名の計五名。
アダム曰く、アヴドゥル含めて計四名。
つまりマーシャとアダムそれぞれの有する情報に、敵対勢力一人分の差異がある。
『残る一人が誰なのか、ずっと気になってたんですよ。何せ離れた位置にいる王女には見えているのに、現地で被害に遭っている公爵の目からは逃れているわけですから』
「……なるほどね。一応こちらからは客人含めて四名と報告していたはずだが、どうやらマーシャ様の方が一枚上手だったらしい」
途中で情報が錯綜したかあるいは改竄されたにしても、情報のズレとしてあまりに致命的な部分だ。
第二と言えども王女、そしてもうすぐ消え去るとしても公爵が関わる案件である。この食い違いは許されない。
「それにもう一つ、どうにも変な点があった」
「どこかね?」
「この依頼が討伐依頼ってところだ」
言葉の意味を瞬時に理解したらしく、アダムの表情が少し険しくなる。
「…………討伐?」
『確かに討伐任務と聞いていますよ』
「つまり殺してこいって依頼されてんだよ俺らは。公爵の裏事情知ってる客人、それも今まで一人もろくに捕まえられちゃいねえ[デクレアラーズ]の一員をよ」
これもまた、通常ではあり得ない依頼だった。
もちろん常識の外にある依頼をこそ、隠密部隊は担うべきである。
しかし昨今の情勢を思えば王族に近い位置にいる、国家的重犯罪組織の一員を捕まえるのではなく殺害するよう依頼するなど、他ならぬ王族が関わる案件として考えられない。
国の安全を思えばこそ、まず捕縛するべきだ。
そうして未だ得られていない情報を、可能かどうかは別として引き出すために動かなければならない。
第二王女たるマーシャはそういった王族として行使しなければならない全てを、この事件に関しては放棄している。
「つまりこの事件、最初から隠蔽するつもりで王族が動いてるってわけだ。そんでここまで話しててまた不自然な点が増えたわけだが」
ビッ、と。
武装型グリモアーツ“ボロゴーヴ”の穂先が、アダムの方へ向けられた。
「おかしいよな。ガイのおっさんから聞いた話じゃ依頼主の公爵殿は、俺ら元排斥派の連中が来る事は知ってたらしいじゃねえか」
「………………」
『だというのに第二王女の時点でアヴドゥル率いる勢力の人数、及び任務の内容が討伐依頼となっている点に関して貴方は知らなかった』
沈黙。
公爵になるべく生まれ、公爵として生きてきた男は何も言わない。
「てこたぁアンタ、あの第二王女に出し抜かれてたワケだ。最初から[デクレアラーズ]と繋がってるってのがバレてなきゃこうはならねえ」
『大方私とダグラスが隠密部隊に配属されたという部分までしか情報を抜けず、それ以降の我々と第二王女とのやり取りまでは探れなかったというところでしょうか』
ふぅ、と。
アダムが短く息を吐いた。
この場で差し向けられたダグラスら隠密部隊を壊滅させたとしても、既に真相がある程度まで露呈しているとなれば大した意味がない。
それを察したのか瞳に改めて強い決意が宿る。
「ほとんど見抜かれていて、その上で罠まで仕掛けられていたという事か。マーシャ様も成長なされたものだ」
「立場がわかったなら今度はテメェが語る番だよ」
空気に充満する緊張感が、ダグラスから放たれる殺気でより濃密なものとなった。
「そこでやたら増えてる客人から聞いた限り、アンタが白狼族を壊滅させたらしいな。そりゃマジの話か」
言葉を受けてアダムがアヴドゥルの方に少し視線を飛ばす。その所作に対し、アヴドゥルは小さく頷くことで応じた。
若干の呆れを含んだ鼻息を漏らし、またアダムがダグラスを見据える。
「直接ではないがね。激化する“大陸洗浄”の中で、暴れる客人に白狼族をぶつけ続けた上でテミスト……君の故郷の位置情報を流したのは間違いなく私だ」
「なんでそんな真似をした。あの戦いで俺達はあくまでも傭兵として参加してただけだ。あんたら大陸側の勢力からすりゃ、寧ろ白狼族は大事な戦力だっただろ」
ダグラスの出自、白狼族は獣人の中でも高い身体能力を有する一族だった。
農耕や建築などといった重労働はもちろん、戦闘能力を活かして傭兵部隊としてもアガルタ王国に重宝されていた存在である。
増してや事実上の動きがどうあれ一つの種族だ。公爵と言えど個人の一存で壊滅させていいはずがない。
「逆に問うが疑問を覚えたりはしなかったのかな。一種類の獣人が一つの村に集められて、まるで外に出すまいと管理されているかのような状態に」
「……どういう意味だ」
「見たんだろう? トラロックで行われていた、人体実験の現場を」
瞬間、ただでさえ低い室温がもう二段階ほど下がったかのような錯覚をダグラスは感じ取った。
「………………あ? いや、あれはプロジェクト・ヤルダバオートの」
「そんなものはつい数年前から動き始めた計画に過ぎない。それより遥か以前から、あの場所には研究用の機材が設置されていた」
「んなもん、何を根拠に」
「トラロックは観光地として人が頻繁に出入りする場所だ。あの規模の研究施設を最奥に用意するなど、公爵の権力を利用してもそう短期間では成し得ないさ。金銭と地位だけでなく時間が要る」
何か、聞くべきではない話が耳に入り込んできている感触がある。
しかしそれをどうしてか拒めない。
「ウィルズ・ハウスマン家は代々、己の地位を向上させることに対して貪欲でね。道徳よりも野心を優先させ、どうにかして大陸に大きな功績を刻み込みたかった」
ドローンを経由してララが何か呼びかけているが、それをアダムの声が押しのける。
「だから一から戦闘に特化した最強の種族を作り上げる事にしたんだ。身体能力に秀でた獣人にドラゴンの血を加え、集団で運用するため凶暴性を抑えるに足る協調性も有する狼の遺伝子を中心として。トラロックに研究所を構えたのは私の曾祖父の代からだったかな」
知らずダグラスの指が己の頬を撫でる。
流れる血を、構成する細胞を確かめるかのように。
「体毛の色素を失うというアクシデントもあったが、結果的に素晴らしい人造人間が完成した。雌雄の個体をそれぞれ数体ほど造り出してから試験的に集落を設け、そこで集団生活を始めさせたのがおおよそ八〇年ほど前の話になる」
記憶の奥底に沈んでいた、とある場面、とある言葉が脳裏に浮かび上がる。
畑仕事に勤しんでいる母の手伝いをしていた幼少期、彼女から聞いた話。
白狼族は。
テミスト村は。
ダグラスの故郷は。
八〇年ほど前、祖父母の代から始まったと。
「……テミスト村は、旅してた俺の爺さん婆さんが安心して住める場所を探して、見つけた場所だって」
「そう子供に教えなければ研究所によって集落ごと焼き尽くされると彼らは知っていたからね。君がそのように又聞きしたのは自然な話だ」
「俺、は。あの日、村を襲った客人に、戦争をどうたらって理由で、村を燃やしたって」
「もちろん“大陸洗浄”での戦いが激化していく中、白狼族の存在が脅威だったのは間違いない。君達はいつも権力者側の陣営に雇用される形で戦っていたから、当時の客人から敵視されるのも予想はできていたとも」
だからアダムは客人に、テミスト村の場所を教えたのだ。
ウィルズ・ハウスマン家が裏で進めてきた計画の始末をつけるため。
ダグラスが客人を恨んで排斥派となったのも決して的外れではなかった。
ただ本当の敵、真に白狼族を壊滅に追いやったのは別の存在だったというだけ。
「そしてその戦いを通し、私は私の一族、ウィルズ・ハウスマン家というものに対して強い忌避感を覚えた」
舌打ちさえしながら、アダムは己の出自にあらゆる悪感情を向ける。
「四大公爵と呼ばれる立場の中でも最も下に位置するが故に、不要な対抗意識を燃やして君達のような存在を生み出す薄汚れた精神性。道を外れて得た功績で己を飾ろうとするなど、増してやそれを子に孫に押しつけようとするなど、度し難く耐え難い醜悪さだ」
冷気が月白色の風となって広い室内を循環し始める。
同時に、目を疑う光景が広がった。
チリチリと映像が掠れるようにアダムの輪郭が右へ左へ移動したかと思うと、異なる角度、異なる体勢のアダムが元々立っていた場所と異なる位置に現れたのだ。
「家から出ようにもそれすら許されず、おぞましい策略の下に結ばれた契りとその果てにある不要な妻子との生活、そして四大公爵が一角としてあらゆる責任を擦りつけられていたある時、私は一人の道化と出逢った」
アヴドゥルの【デコイボム】とは系統が異なるらしい。
またもそれぞれが輪郭を歪めたかと思うと、次もそれぞれ別個の位置と距離感で像を結ぶ。
「彼女は言ったよ。この下卑た一族と積み重ねられた愚かしい所業の痕跡を、綺麗さっぱり消す手伝いをすると」
声が空間全体から響き渡り、どこから聴こえるのかわからなくなる。
アダムの姿が忙しなく位置を変え続ける中、ようやくララの声が耳に届いた。
『ダグラス、落ち着いて聞いてください。アダム・ウィルズ・ハウスマンの魔術について説明します』
排斥派として活動していた頃に聞き慣れた声で手が反射的に“ボロゴーヴ”を強く握ってくれるが、逆を言うと改めて強く握れるほどに力が抜けていたことに気付く。
『使われているのは第四魔術位階【スノウラビリンス】。空気中に散布した氷の破片で光を捻じ曲げ、音を反響させて距離や座標を誤認させる低温魔術です』
「へぇ」「一目見てそこまでわかるもんなのか」「つってもわかったところでだけどな」
感心した様子のアヴドゥルが分身に交互に喋らせる形で、ララの言葉を肯定した。
氷が反射する光で像を結び、あるいは遮断する形で姿を消す。
声と物音を反響させれば、聴覚でも位置情報を掴めなくなる。
冷え込んだ室内では湿度が下がるため、臭いも感じ取れない。
距離と角度が信じられなくなったこの状況ではアダムに攻撃を当てるなど不可能に近く、また繰り出される攻撃を回避するのも困難を極める。
それが第四魔術位階【スノウラビリンス】。
障害物も特に存在しないはずの部屋は、魔術が持つ名の通り雪の迷宮と化した。
あらゆる情報を読み取るグリモアーツ“ヘカテイア”を持つララがサポートしてくれていなければ、使われている魔術の内容もわからないまま嬲り殺しにされていただろう。
「既に低俗な血縁どもは性根の腐り切った娘も含めて一人残らず[デクレアラーズ]の構成員に殺されて死んだ。地位に目が眩んで近づいてきただけの間抜けな愚妻も、この後私に見捨てられるがその先でどうなろうとどうでもいい」
目を激しく動かしているのか視線は感じる瞬間と感じない瞬間が交互に入れ替わり、殺気に至っては部屋中に満ちている。第六感のようなもので位置を掴むことすらできない。
相当に戦い慣れているか。
あるいは日常的にどう動けば確実に殺せるかを、ずっと考察し続けてきたか。
「私はここでウィルズ・ハウスマン家が犯した愚行の証たる君を仕留め、理想社会に殉じよう。この第二次“大陸洗浄”に貢献し、ビーレフェルト大陸の汚濁を少しでも洗い流そう」
頭に叩き込まれた情報量で動けずにいるダグラスの目前、月白色の燐光を散らしてグリモアーツが【解放】される。
「【解放“フィンブルヴェトル”】」
目の前で【解放】されて、一秒もしない間に。
ダグラスの体が氷の柱に閉じ込められた。




