プロローグ 罪を背負いて
コツコツと硬質な足音を響かせるリノリウム製の白い床。
一定の間隔で非常用ボタンが設置されている黄ばんだ壁。
虫の死骸に彩られつつ攻撃的なまでに眩い光を放つ電灯。
もうすっかり見慣れた廊下だ。殺風景ながらも大人が数人並んで通れる程度の幅を持ち、その様が何となく威圧的に映る。
自室、食堂、学習用の開けたスペースに加えてそれらを結ぶこの通路。それだけが今の生活を構成する世界の全てだった。
「今日はすごいお方が当施設にいらっしゃってねえ。きっと二人ともびっくりするわよ」
先を歩く高齢の女性は所長と呼ばれる存在だ。
ドワーフという種族の特性とも言えるずんぐりむっくりとした体形はこの場所に住まう者らと触れ合うに当たり、安心感にも頼りがいにも繋がる。
柔らかな声は未成年を中心とした多くの問題ある人物と接する中で研磨されたであろう、深く広い人間の器を感じさせた。
ただ、その優しさだけではままならない闇が彼らにはある。
彼らだけでなく、この場所そのものにも。
「……久しぶりに顔見たな。また痩せたか? まともにメシ食ってねえから無理ねえけどな」
「……そちらこそひどい顔ですね。隈がくっきりと浮かんでいるようですが、いつも何時間寝ているんですか?」
通路を歩む所長の後ろについて歩くのは、似たようなデザインをした緑色の衣服に身を包む少年少女の二人組。
白髪に狼の耳を携えた白狼族の獣人、ダグラス・ホーキー。
栗色の髪をツーテールにまとめたヒューマン、ララ・サリス。
かつて排斥派の中でも特に過激な勢力に属し、前都知事であるマシュー・モーガンズの下で暗殺稼業に精を出していた少年犯罪者。
そしてそんな彼らを収容しているここはアガルタ王国の王都から離れた場所に位置する少年刑務所だ。
物騒な生い立ちを聞いた上で全て受け入れ愛情を注いでくれる所長には感謝の念を抱くばかりだが、そんな彼らだからこそ「会いたい」と言ってわざわざこんな場所まで来る権力者など信用する気にはなれなかった。
絶対にろくな相手ではない。
そう思うとこれまで優しく接してきてくれた施設長の笑顔までもが、どこか疑わしく思えてきてしまう。
「それとね、他にもう二人、こことは別の場所から呼ばれてる子がいるらしいのね。多分だけどこっちに移るかもしれないからちゃんとご挨拶するのよ」
「所長が転居するかどうか知らないとか、あんのかよ……」
「今回だけ例外。何かと特別な事情が絡んでてね。まあ、お客様に会えばわかるわ」
奇妙な話だと思いつつ、ダグラスは深く考えるのをやめた。
あのプロジェクト・ヤルダバオートが関わる戦いで圭介に敗北して以来、彼の心は静かながらも激しい怒涛の渦に巻き込まれている。
フラッシュバックするのはこれまで殺してきた数々の客人の顔と、両手に蘇る肉を断つ感触。
無自覚に亡き母のグリモアーツ“カインドホロウ”で軽減してきた罪悪感を由来とするストレスが、あれから一気に襲いかかったためだ。
今、彼の体に“カインドホロウ”は無い。
捕縛され意識を失っている間に摘出されてしまい、そのまま没収の憂き目に遭った。
そのせいでもう逃げられない。ずっと脳裏と鼻腔に汚らしい血がこびりついているような不快感を覚えたままだ。
起きていれば忘れられない記憶に精神を苛まれ、寝ればそれ以上の臨場感を伴う悪夢に身を刻まれる。
そして誰を恨むこともできない。やったのは全て自分なのだと、かつての自分の笑い声が証明しているから。
「俺らに何させようってんだか……」
この刑務所で再会したララも、彼とは異なる形で心に深手を負っていた。
詳しくは知らないし問おうとも思わないが、食事という行為に強い抵抗を示しているという話は本人からちらりと聞いた。
痩せている理由はダグラスの言う通り、ストレスではなく栄養失調によるものである。
今でこそ具のないスープを飲めるようになったものの当初は水すら拒んでいたのだから相当なものだ。
ダグラスのように過去の行いの蓄積がそのまま、という形ではないもののかなり深刻なダメージを受けていることに間違いはあるまい。
今となっては衰弱した体のせいで激しい運動も困難となってしまった。以前のような戦闘能力は到底期待できないと誰が見てもわかる。
そんな二人をわざわざ裏の仕事に就かせるため指名するとは考えにくい。となれば残る可能性は若い肉体そのものだろう。
おぞましい欲求の対象としてか、はたまた健康な臓器にでも用があるのか。
「ま、どうでもいいや」
何をされるにしても何も感じない。
もう壊れている自分がどうなろうと興味などなかった。そこにあるのは殺されても文句を言えない極悪人の末路だ。
地獄に落とされるならそれも分相応の終わり方だろうと、ダグラスはもはや自暴自棄になっていた。
「さ、もういらしてるわよ」
所長が立ち止まったのは意外にも客室として使われる個室ではなく、レクリエーションのために使われる広い部屋の入口前だった。
ダグラスもわざわざこんな場所を選ぶ意味まで思考を巡らせられず、ただ「変なのが来たんだろうな」程度の結論に落ち着く。
ララも同じ意見だったらしい。警戒するどころか疑問に思う素振りも見せていない。
「私はここまで案内したら通常業務に戻るよう言われてるから。くれぐれも失礼のないように。いいわね?」
「へいへい」
「わかりました」
ちゃんとするのよ、と釘を刺して所長は進んできた通路を戻っていった。
残された二人の間に数秒の沈黙が舞い降りる。このまま脱走でもしようか、とすら思えない。
その沈黙は単に、ドアをスライドさせる役目を無言の内に押し付け合っただけ。
互いに動く様子がないと見て、先に動いたのはダグラスだった。
嫌な未来など放っておいても来る。しかし相応の権力を持っている相手だった場合、無為に到着を遅らせる方が後々の面倒も減るだろう。
ドアを開けた先の景色は白く輝いていた。
無垢床の部屋を窓から注がれる陽光が、純白のカーテンを貫通して周囲に木漏れ日のような薄い明かりをもたらしている。
窓の方角も関係して日中は照明を点ける必要もなく、室内がどうなっているかは一目瞭然であった。
部屋の中央に誰かが集まっている。
人数は三人。左右に立っている鎧を着た二人の女性はしかめっ面を浮かべた黒い短髪の騎士と、赤いセミロングから香水らしき香りをダグラス達にまで届かせる温和そうな騎士。
鎧にはアガルタ王国の国鳥たる百舌鳥の刻印が刻まれている。
例え精神的に追い詰められていても、その意味を理解できないほどダグラスとて愚かではない。
何より二人に挟まれる位置、中央で座椅子に腰を下ろす少女の相貌には見覚えがあった。
「嘘だろ……?」
「こんにちはダグラス・ホーキー、ララ・サリス」
十代半ばと思しき年齢の彼女は、撫子色の長い髪を右側のサイドアップにまとめている。
纏うドレスはふわりと浮かぶような感触を触れずとも見る者に与え、橙色の瞳は爛と輝き視界に入れた全てを捉えて離さない。
挑戦的な響きを含む言葉も彼女がたおやかな唇の動きで紡げば、もはや人の声ではなく玄妙に調整された笛の音だ。
視覚情報と軽い挨拶一つで立場の違いを理解させ、隔絶と断絶を否応なく理解させてくる存在。
暴力的なまでに“魅せる”少女。
ダグラスもララも、その人物の姿と声をかつて画面越しにだが見聞きしていた。
「どうしてここに、あんたみたいな大物が……!?」
瞠目するのも無理はない。身分が、本質が、存在が根本から異なる相手。
マーシャ・リリィ・マクシミリアン・アガルタ。
アガルタ王国の第二王女が、何故か護衛の騎士を二名連れて辺鄙な場所に建てられた少年刑務所などに来ている。
これが彼ら二人と残る三人、合計五名の人生を大きく左右する出来事の前触れ。
まだ東郷圭介がラステンバーグ皇国に足を運ぶより前に起きた、もう一つの物語である。




