第二十二話 青い花
「お父さん。私、日本に行きたいの」
一九八〇年代後期、アメリカ合衆国カリフォルニア州。ワイン農家として生きてきたロバートからしてみれば、一人娘であるエヴァの言葉は寝耳に水だった。
「お、おう。何だってまた急にそんな話になったんだい?」
彼の家は決して貧しくもなければ特別に裕福でもない。
少なくともエヴァが留年でもしない限り大学を卒業するまでの資金は用意できていた。しかし同時に海外の、それも日本などというよく知らない国へ行くとなると気軽に首を縦に振るわけにもいかない。
許すも許さないも理由次第、ではあるが。
父としての心配や妻を亡くしてまだ数年の寂寥感も加わり、彼の中では少しだけ「出ていかないでほしいな」という気持ちが強くなる。
「私、花が好きなのは知ってるよね」
「そりゃあもちろん。だから大学では植物の勉強をしているんだろう」
特にエヴァが好んでいたのはバラの花だった。幼い時分にロバートの兄、彼女にとって伯父に当たる人物から送られた誕生日プレゼントがきっかけだったか。
今では毎年母の墓前に色とりどりのバラの花束を添えるのが恒例行事となっている。それ以外にも様々な植物に関する知識を学んでおり、立派な学者の卵として学内でも高く評価されているらしい。
そんな自慢の娘が、わざわざ遠い日本という国に何の用か。
「最近日本の有名企業がね、とあるプロジェクトを進めてるの」
「ほーん。それは、どんななんだい」
正直言って花だの草だのに大した興味を持っているわけでもないロバートには、あまり関係も興味もない話題だ。しかしエヴァはそんな父親の表情を見据えながらも熱心に話を続ける。
「青いバラを作ろうとしているんだって。知ってる? バラってね、青色の花だけは今のところ誰も作れてないの」
「知らないけど……つまりエヴァは、その青いバラを作るプロジェクトに参加したいって言うのかい?」
「そう! たくさんの人が目指してた、でも誰も辿り着けなかった場所に行けるかもしれない。私もそんな壮大なプロジェクトに参加したいの!」
「学業はどうする。それにただの大学生がそんなすごい計画に、どうやって参入するんだ」
「教授が推薦してくれるの。私ずっと説得してたんだけどね、成績も素晴らしいから紹介するだけしてくれたわ。そしたらあっちの方から是非、って!」
――ああ、これは止まらないな。
亡き妻も若い頃こうだった。一心不乱に小説家を目指していた彼女がプロとしての道を諦めたのは、エヴァを妊娠した頃だったろうか。
子を産んでからもパワフルだった彼女はしかし、徐々に病魔に蝕まれて死んでしまった。娘が大成する姿を見られず終わってしまってさぞ無念だったに違いない。
じゃあ、せめてお墓の前で夢を叶えた報告ぐらいはさせてあげたい。
それが夫として、父親としての務めであると同時に権利なのだと思った。
先祖代々続けてきた、それでいて特にこだわりもないワイン農家としての仕事は別に自分の代で終わってくれて構わない。
もしかすると娘が学者として歴史に名を残すかもしれないのだ。それはそれで素晴らしいことに違いないと心から思う。
もちろん寂しくないと言えば嘘になる。ロバートの中で「自分が金を出さなければ」という悪魔の声は当然響いたけれど。
それでも頑張って振り払った。
「わかった。お金の心配はしなくてもいい。大学側と先方が良いと言ってくれているなら、全力で取り組んでみなさい」
「……ありがとう! お父さんなら応援してくれるって、信じてた!」
ある程度まで交渉に成功するつもりでいたのだろうが、それでも安堵するかのような短い沈黙があった。少し不安がらせてしまったことに申し訳なさも覚える。
何はともあれ、これが娘にとって大学卒業よりも一足早い門出となるのだ。
学があるわけでもない、ただ出せる金があるだけの父親は自分の感情に蓋をして背中を押すのが精々だ。
そうして数日後、いくらか幼さを取り戻したかのように期待に胸を膨らませる娘を空港まで見送って。
「あの飛行機にまだエヴァがいる」だなんて、未練がましい気持ちで伸びていく白い雲を見守って。
それが見えなくなるところまで、見て。
体が一瞬だけ、不自然に傾いて。
周囲の景色が、一変して。
気づけば黒いバラが咲き誇る場所で――異世界で、立ち尽くしていた。
ロバート・フィリップス・コーエンという客人にとって、それが愛娘とのあまりにも残酷で唐突な離別であった。
* * * * * *
「【チェーンバインド】!」
銃口から伸ばした魔力の鎖を先端部分が欠けた街灯に巻きつけ、跳躍とともに遠心力で体を移動させながら足元の魔術円を炸裂させる。
これにより弧を描く形で攻撃を避けながらまだ残っている建物の物陰へと身を隠すことができるわけだが、背後から迫りくる茨の化け物は化け物でありながら冷静にエリカを追い詰める頭脳も持ち合わせていた。
「ハハッ、これはこれは。わかりやすい動きだ」
聞こえる声に含まれる意味を察すると同時、伸びてきた棘だらけの触手が街灯の支柱部分に絡みついて引っこ抜く。
「どわぁああっぶね!」
空中に放り出されたエリカはたまらず振り落とされまいと両足の魔術円から魔力を噴射して滞空を維持し続けたが、それが良くなかった。
瞬時に目前へ迫る、横薙ぎの一撃。
「へ――」
鞭として振るわれた触手が浮遊する矮躯を吹き飛ばす。
油断からまともに攻撃を受けてしまったエリカは、少し離れた位置にあるアパートの三階部分へと叩きつけられた。
「がァっ!」
カレンから受け取ったブレスレットの効果で殴られた箇所こそ大した痛みがないものの、それに加えて背中に走る衝撃もかなりの痛手となってしまい防御用の術式を二回も消費してしまう。
これが何の下準備もない戦いであれば吐血しているところだ。少なくとも死にはしないものの無事に済むはずもない。
(流石は二つ名持ちの客人だな……)
厄介なのは素早く動く無数の触手でも広大な攻撃範囲でも原理不明な索敵方法でもない。
発狂しながら攻撃と防御を的確にこなし続ける情報処理能力。それが“這いずる戦鬼”の真の脅威であった。
これまで何度か魔力弾を撃ってはきたものの、それら全てをロバートは射出されてから自身に到達するまでのコンマ数秒の間に触手で防いでいる。
またエリカが回避と逃走に徹したとしても目視できないはずの壁の向こうから触手を伸ばし、その過程で【チェーンバインド】や魔術円の噴射などによる変則的な動きを織り交ぜても即座に対応してしまう。
「ひいいぃぃぃぃいだいいだいいだいなんでぇ逃げないで死んで早く早く早くぅうううう!!」
正気から狂気に切り替わったロバートが這いずりながら接近してくる。極力近づきたくないエリカはアパートの壊れたドアを引っぺがして部屋の中へと侵入した。
また建物を壊しながらの攻撃に晒されるであろうと覚悟しつつ、ベランダから残された【チェーンバインド】の鎖を垂らす。
鎖の起点となっている“レッドラム”の銃身を柵に引っかけ、どうせ位置など露見しているだろうと知っていても音を出さないよう慎重に降りた。
「いだいよぉぉおぉ早ぐじんでぇええぇええぇぇぇえええ!!」
「あ?」
地上に着いたところで、何故かエリカがいない二階部分の一部屋を向こう側から伸びた茨が貫いた。
そのまま先端をエリカに向けることもせず引っ込み、今度は先ほどエリカが侵入した部屋と隣接している別の部屋を同じように貫く。
違和感から思わず声を漏らした自身の迂闊さを呪うも、その声を頼りに攻撃している風でもない。
ただ無作為に攻撃しているだけだ。試しにアパートから離れるといよいよ支柱部分をへし折って建物自体を破壊せんとしているのが見える。
(まさかここに来てあたしを見失ったのか? どういう理屈で?)
試しに他の少し高めに積み上げられた瓦礫の山へと走り、自らの体格を活かして陰に隠れた。
「どおおおごだああああぁぁぁぁぁぁぁあ!」
するとまたも見当外れの廃墟を触手で幾重にも縛り上げ、そのまま内部に残された物品ごと建物を圧砕する。
比較的綺麗に形を残していた建造物が跡形もなく崩壊したものの、崩れた中にエリカの姿などない。
(やっぱそうだ。さっきまでの精密さがどこ行ったのか知らねえが、今の野郎はあたしがどこにいるのか把握できてねえ)
背後に回ってから魔術円を二つ、ロバートの両脇に狙いを定めるよう配置した。
今の彼は郵便局らしきマークが看板に残る廃墟の屋上へ触手を伸ばし、のそのそと巨大な茨の塊ごと上へ移動している。高い位置からエリカを探そうとでもしているのだろうか。
ともあれこれは好機だ。
これまでロバートの動きを遠目ながら観察し続けてきてわかったのが、触手の多くは両側面の何処かから生えているということ。
つまり力の根っこ、術式発動の要となる部分が巨大な塊のどこかしらにあると踏んで間違いないだろう。
可能性が高いのは人体構造上、触覚神経が集中している脇腹部分。
だからそこを突けば敵の戦力を大きく削れるはずだとエリカは見た。
(気絶とかまで欲張る気はねえが、せめてダメージの一つくらいは……!)
攻撃の手を緩めることができたなら、一度下がらせた味方を呼び戻して集団で対処もできる。そうなれば当然勝てる確率も大幅に上昇するはずだ。
状況を完全には把握しきれていないものの、多少のリスクは背負わなければ本当に勝ちの目がなくなる。
そういう情報不足による焦りと失敗する覚悟も確かにあった。
だから、
「ああ、そこか」
魔力弾を撃った直後。
放った弾丸を触手によって払われ、両脇とは別の箇所から伸びる触手に胸を突かれたところで、エリカは自らの死さえ錯覚した。
「……っ!」
『保護用の術式使用回数が尽きました。これ以上の戦闘は危険です。急いでダアトへ帰還してください』
他人事のようなアナウンスと風を切る音が耳朶を撫でる。
ダアトから受け取ったブレスレットに仕組まれた念動力による防御用術式が、最後の一回分を使い果たした合図だ。
そのまま噴水と思しき場所まで叩きつけられそうになるも、流石に二度目はエリカとて学習する。急いで背中に展開した魔術円から魔力弾を撃ち出した。
粉塵を巻き上げる強い衝撃が背中と地面の接触を和らげてくれたため落下によるダメージは無い。
自身を守るカレンの魔術が途切れた今、彼女は逃走という選択肢など思い浮かべもせず上半身を起こして両足を地につける。
まだ、負けてはいない。
戦える。ならば勝てる。
今もアナウンスを繰り返すブレスレットは放り捨て、巻き上がった粉塵が散って姿を晒す前にもう一度廃墟の中へと飛び込み隠れた。
(一度はマジで死ぬかと思ったが収穫はデケェ。さっきの攻防で大雑把な手の内が透けて見えてきた)
試しに建物の中でじっと身を伏せたまま、程近い位置に立っているへし折れた標識の裏面に魔術円を貼り付ける。
魔力弾を形成してからそのまま留めて、撃たない。
瞬間、尖った茨の先端が標識を貫通する。触れた魔力弾がバチンと盛大に破裂して、元々壊れかけていた標識を完全に崩壊させた。
「そこおおおおおぉぉぉ……? おや、これは」
ロバートも遠からずエリカの思惑に気づくだろう。
エリカは急ぎ物陰から物陰へと走り、相手との距離を稼ぐ。
(やっぱそうか、これで確信を得られた! ようやくあのジジイが何してやがるかわかったぜ。確かにこれが相手となるとあたしが接近戦挑むのは無謀だわな)
理解してしまえば対策も練りやすい。決して近づかず、しかし射程圏内を維持しながらエリカは準備に取り掛かった。
仮想現実で鍛えられた魔術の応用、技術の併用、その他諸々。
危機的状況に在ってそれでも失われない彼女の遊び心が今、無数の策として戦場に張り巡らされる。




