第十八話 弔歌
ステラ平原北東に存在する浅く大きな池。
地下水脈と接続しているわけでもないのに水が枯れないこの水たまりは、オカルト研究家の間でマイナーながらも緊急時の水源として利用価値を認められている。
ステラ池と安直に名付けられたその場所で今、二つの勢力が正面衝突を繰り広げていた。
「だらァ!」
「ぐお、一撃かよ!」
大量の水が跳ねる音と同時、陶器を重ねて割ったような音が周辺に響き渡る。
騎士団学校の生徒によって展開された防御用の多重結界がいとも容易く破られた音だ。複数人の魔力の残滓から生じる色とりどりの光と水飛沫が四散し、幻想的な光景を一瞬織り成す。
「おいおい脆いなちったぁ気合い入れろや学生諸君! こちとらまだ【解放】すらしてねーってのによォ!」
蹴りの一撃で結界を打ち破ったその男――♠の8“弔歌”オスカー・パウンドは、短く切り揃えた茶髪の毛先を微風で揺らしながら少し離れた地点に着地した。
すかさず他の生徒らが魔力弾を始めとした各種中距離用の攻撃魔術で弾幕を張るも、それらのわずかな空隙を玄妙にすり抜けて無傷のまま自陣に帰る。
先ほどからこうだった。
防御は一方的に破られ、攻撃が一度も当たらない。
そしてあまりオスカーの動きにばかり気を取られていると、他の戦闘員から横槍が入る。
「突っ込めぇぇえええええ!」
「“弔歌”がいれば勝ちはあっても負けはねぇ! 構わず攻めろ、攻めまくれ!」
斯くしてこれまで何度か繰り返してきたように、攻撃が止んだところへ今度は[デクレアラーズ]の協力者たる多種多様な種族がグリモアーツを構えて一斉に襲いかかってきた。
「第四魔術位階【ロックフィスト】!」
しかし敢えて一手遅れて第四魔術位階を突き出した学生により、軍勢がやや怯む様子を見せる。
岩で構成された握り拳が前衛部隊の鼻先に突き刺さろうとしたその瞬間、
「ずる賢いのがいやがるな!」
下がったはずの男が横合いから【ロックフィスト】を殴りつけて、信じ難いことにその殴打だけで打ち砕いた。砕かれた石の破片が離れた池のやや深い部分にざぶざぶと落ちては沈んでいく。
「で、デタラメじゃねえか! どうなってんだ今の速さ!?」
「何やっても魔力の無駄遣いだよ! 他の奴から優先して狙って!」
「それを今防がれたんだろが!」
バラバラと散らばる岩の破片の先で手を傷めた様子すらなく不敵な笑みを浮かべる男――“弔歌”オスカー・パウンドの話は、彼が暴れていた“大陸洗浄”を直接知らない世代でさえ情報だけは知っている。
流石に“黄昏の歌”平峯無戒には及ばないものの硬い障壁や結界を殴りつけるだけで砕き、あらゆる攻撃を絶対に回避する怪物。
彼によって殺害された悪徳商人や犯罪者集団の人数は優に二〇〇人を超えるとも言われ、高い実力も含めて多くの国で恐れられた客人であった。
「ちょっと殴る蹴るされたくらいで根性ねーなオイ。最近の騎士団志望は頼りないねぇ~ッ。その手に持ってるグリモアーツは何だよ飾りか? そういうオシャレが流行ってんのか、ああ?」
挑発的な言葉に眉を顰める者も何人かいたが、多くの学生はオスカーのみならず敵全体の動きを観察し続けていた。苛立ちを見せた学生ですら警戒心を戦場全体に向けているのが対峙してよくわかる。
相手は学生でこそあるものの、素人として扱うべきではない。
「……へぇ。学生の集まりならどうとでもできると踏んでたが、そこいらのボンクラ冒険者よりよっぽど冷静だな。少しは頑張ってくれそうで何よりだ」
言ってオスカーが胸ポケットからカードを取り出す。未解放状態のグリモアーツだ。
勿忘草色の燐光を纏うそれには、まさしく称号通りに♠の8が記されていた。
「このっ!」
グリモアーツの【解放】を阻止すべく再び生徒らの陣営から魔術が飛ぶ。
樹木のように太い魔力の矢、圧縮された空気の玉、炎の鞭に酸の刃。
いくつもの魔術が彼に襲いかかるも、その全てをオスカーは涼しげな表情で回避した。
「【解放“ウィスパーゲイル”】」
名を発すると同時、長い武器の輪郭がオスカーの手元に現れる。
燐光を放って具現化されたそれは、先端が鉤爪状の刃になっている矛。刃の反対側には尖った突起があり、先端と柄の接続部分には短い帯状の黄色い布が巻き付けられていた。
一つで複数の攻撃手段を有する武具。
ビルと呼ばれる矛の類だ。
鉤爪部分に引っかけ、刃で斬りつけ、突起部分で殴る。適時攻め手を選ぶとなると難しいが、基本は引っかける動作で相手を転倒させてから追撃することを意識すれば決して使い手を選ぶほどの代物ではない。
「ちょっとだけでも度胸あるとこ見せてくれた礼だ。将来騎士団として悪人どもと戦う予定のお前らに、先輩として一つ教えといてやるよ」
背後に何人もの仲間を従えながら、その人数の脅威すら霞むほどの迫力を持ってオスカーは語りかける。
「俺はお前らの攻撃を絶対に避けるし、俺の攻撃をお前らは絶対に防げないし避けられない。そして攻撃も防御も回避も通用しない相手には絶対に勝てねえ。何をどうひっくり返そうとな」
身じろぎ一つが死に繋がりかねない極度の緊張感で、ついに数名の生徒が意識を集団からオスカー一人に集中させ始めてしまった。
事実、彼が学生の集団を相手取るなら背後の武装勢力など不必要だろう。単独で現役の騎士団とさえ渡り合った記録を持つ実力者なのだから。
「だから逃げるならとっとと……あ?」
その彼我の実力差をオスカー自身も理解しているだけに、最初その姿を見てほんの一瞬だがとんでもない愚か者がいると早合点した。
即座に「そうではない」と判断し直したのは、池の浅瀬を歩きながらも歩行の際に水の音を立てていなかったから。
――歩行の動作に一切の無駄がない。
体を動かす際に余計な力を外へ送り出さず、触れている水が力の分散を受けて揺れないように動いているということ。
それを自然に実現できる以上、敵ながら相手が優れた戦士である事実を認めねばならない。
騎士団学校の生徒が集まる陣営の奥から出てきたのは、一人のエルフの少女。
片手には透き通った群青色の刀身を有するブロードソード。長い銀髪を揺らしながら接近する彼女の表情は張り詰めた覚悟と猛獣めいた戦意が満ちている。
「テメェ」
瞬時に警戒心を取り戻した。
外見から得られる特徴よりも事前に聞かされた情報よりも、理性と勘の双方から鳴り響く警鐘が彼女の名を告げている。
「ユーフェミア・パートリッジ……!」
「貴方ほどの有名人に名を知られているとは光栄です。“弔歌”オスカー・パウンドさん」
冷徹な瞳に射抜かれて、彼は久しく味わっていない「攻撃を受ける」という感触を錯覚した。
「【漣】」
思わず動きかけた体を制して相手の動きを見ようとした矢先、ユーと彼女のグリモアーツ“レギンレイヴ”から細かな魔力の刃が周辺に飛散する。
本来なら一定範囲内の索敵を目的として使われる【漣】だが、何故この距離でそんな魔術を行使したのか。
その意味を察したオスカーは戦慄と同時に心を躍らせ、確認の意を込めて声をかけた。
「知ってたのか、あるいは気づいたのか。俺の魔術の系統を」
「推測しました。二つ名も加味して考えると貴方の戦い方は露骨なほど“黄昏の歌”に酷似していますから」
近づいただけでどちらかに斬られかねない緊迫した二人の会話に割って入る者はいない。
「音、ですよね」
思わずつり上がったオスカーの口角が、鋭い笑みを描く。
「攻撃を回避しているのは音波を使った精密な索敵での先読み。結界や防壁を破壊してきたのは共振周波数によるものでしょう」
共振周波数。
物体の構成素子を断続的な振動によって変位させ、最終的には破壊に至らしめる音波を指す言葉である。
身近な例で言うと人間の声でも一定の振動を持続させれば、口元にある薄いガラスのコップくらいなら破砕できる。連続する微弱な刺激は時として強い刺激一つを凌駕する結果に繋がるのだ。
「攻撃は避ける以外どうにもなりませんが、そちらの回避能力に関して言えばこの【漣】で対処可能なはず。違いますか」
「ほーん。剣振り回すばかりが能と思いきや、頭もしっかり良いんだな。妬ましい限りだ」
微細な空気の振動で周囲の動きを察知する第五魔術位階【エコーズ】はあらゆる環境下で使用できる優れた索敵魔術だが、逆に万物を例外なく察知してしまうという弱点も有する。
オスカーはこの【エコーズ】を用いて周囲に生じた全ての運動を触れているかのように感じ取り、実際に接触するより早く避けることで対処してきた。
その触覚の延長とも言える魔術は現在、空気中に混在する無数の小さな刃に反応し続けて効果範囲を縮小させられている。これではユーの細かい動きまで捉えきれない。
散々乱された彼の索敵網は、今や表面を不気味に波打たせる透明な粘土の如く役割を放棄していた。
「【首刈り狐・双牙】!」
離れた位置から群青色の刃が二つ飛来する。それぞれが広い幅と長大な長さを有しており、一つを回避すればもう一つに命中するであろう角度と位置関係を保ちながらオスカーへと向かっていく。
彼が編み出した【エコーズ】の応用技術は索敵を回避に結びつけるという奇抜ながらも妙手と言える発想だったが、内容を知った相手からすれば容易に対処できてしまう。
だからこそ、オスカーはユーの動きを見て心から感心した。
(コイツ、まだ……)
常に最小限の動きで敵の攻撃を回避しながら防御不可能な攻撃を叩き込む敵の、回避の秘密を見破って対処した一流の剣士。
などという幻想に囚われていない。
彼女の瞳はまだ、オスカーの迎撃を確信したまま警戒を続けている。
(流石は場数踏んでるだけあんな)
索敵、つまり触覚刺激での攻撃の予兆を感じ取れない状況で襲いかかる二つの刃を前にして、それでもオスカーは穏やかな表情のままどちらも躱す。
ただ今回は回避する上での速度が尋常ではない。
即座にしゃがみ込んで不格好とも言えるような形で手足を動かし、さながら蜘蛛のように地につけた肘と足を関節の駆動に任せて短く跳躍しながら【首刈り狐・双牙】の攻撃範囲から離脱。
すぐさま手に持った“ウィスパーゲイル”の持ち方を調整し、真上へ滑らせるように体を起こして臨戦態勢を取り戻した。
敵味方双方から奇妙な動きに対する動揺の声が広がる中、ユー一人だけが納得した表情で“レギンレイヴ”を構える。
「やっと尻尾を見せましたね」
「意地の悪い奴だ。素直に罠に引っかかって飛び込んでこいよ」
「この程度の対策で回避を封殺できるようなつまらない人が、“大陸洗浄”で名を残すなどできるはずもないでしょう」
「……ホント、かわいくねーでやんの」
軽口を叩くと同時、またもオスカーの急な加速が発動して矛の穂先がユーに向かう。
彼女は刀身でその一撃をいなそうとするも、二人のグリモアーツが交差する直前に信じ難い現象が発生した。
真っ直ぐ刺突としてユーの胸元に伸びていた穂先が一瞬で引き戻され、左から右への薙ぎへと攻撃パターンが変化したのである。
「ヅッ……!」
突如変化した攻撃をたまらず剣の腹で受け、ユーが顔を顰めながら後退した。
攻撃を受けた時点でグリモアーツの破壊も考えられたものの、どうやら事前に刀身に【鉄纏】を付与して難を逃れたらしい。
一連の動作全てが目視困難な速度で行われたため、実行したオスカーのみならず攻撃を受け切り致命傷を避けたユーにも注目の視線が注がれる。
「やるねえ。武器を壊されないように準備はしてたか」
「……何かあるとは思っていましたが。予想以上に力技なんですね」
崩れた体勢をまた整えて構えを継続するユーは、既に何が起きているのか理解しているようだった。
「反射ですか」
「おめでとさん。この短時間で見抜いたのはお前で二人目だ」
オスカーが何をして加速したのか。
答えは常人離れした反射神経による神速の反応速度だ。
熱した鉄に触れた指が状況判断と同時に熱源から離れるという行動を起こすように、オスカーの全身のあらゆる部位は彼が思考した時点で求めた動きを現実に完了している。
それはもはや特異体質と呼んで差し支えあるまい。
【エコーズ】による索敵で敵の動きを察知すればより確実に先手を取れる。が、仮にその手段が奪われたとしても白兵戦における優位は変わらない。
オスカーの神経系は相手の攻撃を目視した時点で攻撃範囲外に彼を誘導し、相手が避ける動作を目視した時点でその体勢からでは避けられない攻撃に体の動きを変更できる。
絶対回避と絶対破壊に加えて、今度は絶対命中。
斬り合いにおいてあまりにも不利な相手を前に、しかしユーは怯まず彼の話に付き合った。
「二人目とは案外少ないですね。ビーレフェルトはもっと広いと思っていたのですが」
「お前らが異常なだけだよ。ったく、師弟揃って厄介な奴らだ。他のエルフはもうちょい察し悪かったぞ」
看破したところで対策の打ちようがない特性と言えども、情報が露見するかしないかは戦局全体に影響を及ぼす。
極力時間をかけずに片付けようと決めたところで、オスカーの目に意外な光景が映った。
「…………師弟、揃って?」
先ほどまで凪よろしく落ち着き払っていたユーの表情に、僅かながら波が生じている。
どこに引っかかったのか。その答えは彼女自身が口走ってくれた。
「おう。懐かしいねえ、ありゃ“大陸洗浄”真っ最中の時代か」
別に心の隙を突こうなどと考えたわけではない。
ただ唐突に異世界に転移して月並みな理由で“大陸洗浄”での戦いに明け暮れていたあの頃、一人の女に対して抱いていた複雑な感情を懐かしむ気持ちで思わず言葉を紡ぐ。
「俺はお前の師匠、ジェリー・ジンデルと何度か戦ったことがあってな。……まあアイツとの関係を何と呼ぶべきかは知らねえが、そうだ、そういやお前が殺したんだっけ」




