第十話 集いし王
壁も天井も真白の狭く窓もない部屋。床だけが赤いカーペットを敷かれ、その上には特殊な染料で淡い薄桃色の花柄が描かれたポットとティーカップが置かれている。
ビバイ迎賓館の一画に存在する皇族専用の待合室には今、アブラム・ラステンバーグ四世とカソックを着込む二人の若い従者のみがいた。
身を包む法衣に長い白髪を束ねる髪飾り、全てが金色。それでいて豪奢や荘厳といった言葉を想起させず、どちらかと言えば彫像のように神秘的な佇まいを成立させているのは職人の腕と着る側の刻んだ年期が組み合わさって為せる業だ。
種族はヒューマンながら御年九〇になろうとしている皇帝は、どこか神経質そうな目つきで何もない空間の隅から隅へ視線を動かす。
「常駐騎士団と教会警備隊の動きに滞りはないな?」
「はっ。現在予定に変更等なく、順調に当初の作戦通り動いております」
不機嫌を隠しもしない声色に反応したのは従者の片割れ、銀髪の男。
彼の返答に「そうか」とだけ返し、アブラムが紅茶を一口舐めるように飲む。
三ヶ国首脳会談をアガルタ王国から持ちかけられた当時、アブラムが真っ先に考えたのは場所を自国に指定することだった。
当然と言えば当然である。何せ彼らラステンバーグの皇族は直接的な戦闘能力はおろか、アガルタの王族のように自衛手段としての結界魔術すら適性がない。
回復魔術の扱いに特化したアブラムにとって最も効率的な自衛手段は、己の領域に留まること。
それをアガルタとハイドラの王も承知して受け入れたからこそ、今回の会談はビバイ迎賓館で開かれる。
「参った。難攻不落と謳われたこのビバイ迎賓館にいても尚、奴らの脅威に対する畏怖は拭えんな」
「常より防備を固めてはいるものの、我々も決して油断はできないものと判断しております」
もう片方の従者、緑色の短い髪から角を覗かせるインキュバスらしき青年が厳しい顔つきで出入り口の扉を睨みながら言った。
奴ら、とは言うまでもなく[デクレアラーズ]を指す言葉だ。
大陸全土で指名手配されたジェリー・ジンデルも当然凄まじい相手だったし、それを撤退させたビバイ迎賓館の堅牢な守りを否定することもない。
しかしそれを言えばこれまで[デクレアラーズ]に殺されてきた権力者とて、相応に安全な場所で過ごしていたはずなのだ。それがどれもこれも突破されて殺害されている以上、アブラムが絶対に安全であるとは誰にも言い切れなかった。
だから国民感情を優先するというそれらしい言い訳で[デクレアラーズ]にはあまり関わらないようにしようと考えていたというのに。
それでも今回の会談に彼が応じたのは、応じなければならない理由があったからに他ならない。
(昔の話を今になって持ち出しおって、アガルタ国王めが。加えてあの頃の動画など持っていた辺りさては当時から準備していたな)
露見すれば相手も無傷では済まないであろうその情報は、ラステンバーグにとって重大な致命傷へと繋がる決定的な事実でもある。
あちらこちらに皇族としての立場を脅かす要素が散りばめられていて気が気でない。まるで最初から自分が追い込まれると決定づけられていたかのようだ。
茶菓子用のカップケーキを一つ口に運んだところで、ノックの音が鳴り響く。
従者二人が前に出てグリモアーツを手に持ったのを確認してから「誰だ」と名乗りを促した。
「息子のラウリです。会談の準備が整ったとのことですので、教会警備隊の者が会場までご案内致します」
「そうか。もう、そんな時間か」
息子――次期皇帝に当たる息子の声に安堵しながら重い腰を上げる。
教会警備隊。
宗教と信仰が機能不全を起こしている今の時代では、どこか寒々しい響きを伴う名だ。
アブラムがまだ若い頃、皇帝の持つ権限は今の比ではなかった。
何せラステンバーグ神を信仰する七星教が国教として広まっており、国民のほとんどは皇族に逆らおうなどという発想すら持ち合わせていなかったからである。
それが一度大規模なテロリズムに屈服してしまったせいかかつての権威はどこへやら、今では逆に国民から役目を果たせと圧迫される日々。
しかも信仰という概念を経験したことのない若い世代に至っては、皇族制度そのものを否定しにかかっている始末だ。
そういった問題は次期皇帝のラウリに押しつけて自分の代は安穏とやり過ごす予定だったが、このままではアブラムの代すら存続が危うい。
「父上、こちらへ」
国防勲章受勲者たる四人を連れて会場へ案内しようとする息子の目には、父への敬愛や今回の会談で起こり得るトラブルへの不安など微塵も感じられなかった。
彼が父親を快く思っていないことはその父親たるアブラム自身が弁えている。
ラウリは民が求める理想の皇帝を形にしたような男だ。あらゆる汚い手を使うだけに留まらず、その富と権力で好き勝手に振る舞ってきたアブラムに軽蔑の情を覚えていてもおかしくない。
傀儡として使いやすくするための英才教育がアブラムにとって悪い方向に働いた結果と言えた。
(何故、私がこんな目に)
己がこれまで他者に強いてきた理不尽は一切顧みず、現状の窮地を自業自得と飲み込むこともできず、老いた男はただ己の不幸を嘆いて部下とともに本館の会議室へと向かう。
会議室は本館内部に三ヶ所用意されており、今回使われるのはその中で最も大きく防備にも優れた部屋だ。
一見して重厚というわけでもなさそうな出入り口の扉一つさえ、十重二十重と組み込まれている結界術式が作用して生半可な手段では破れない。
「皇帝陛下、ご来着致しました」
そんな扉に向けて国防勲章受勲者の一人、イスモ・シカヴィルタがよく通る声で報告する。
向こう側で待機していたらしい騎士がそれを聞いて同じく皇帝の到着を室内にいる誰かしらへと告げた。
案内に促されるまま扉をイスモに開けさせ、室内へと入る。この際もしもの事態に備えて背後にラウリを配置するのも忘れない。
ラステンバーグの皇族を象徴するサファイアブルーのカーペットと装飾品で彩られた空間には、顔こそ見慣れたものの直接会う機会がなかったそれぞれの国の王がいた。
彼ら二人とその隣りにいる少年少女はアブラムの姿を視認すると、一様にして立ち上がり王族の間でしか使われないとされる一礼を見せてくる。ハイドラ王は最近まで平民だったはずだが作法は一通り覚えてきたらしい。
側近と思しき騎士らも全員がしっかりと跪き、顔が見えないよう俯いている。実に見事に教育されているようでアブラムとしては感心するばかりだ。
「うむ」
たった一言それだけ応じて引かれた椅子に座ると、その態度を横柄と受け取ったらしいラウリから一睨みされてしまった。
他の面々はそんなアブラムに何を言うでもなく淡々と話を始める。
「本日はお集まりいただき誠に光栄の至り。三ヶ国首脳会談を開くべく声掛けを行ったアガルタ国王、デニス・リリィ・マクシミリアン・アガルタから心より感謝申し上げる」
撫子色の髪を揺らして橙色の瞳を他国の面々に向けるアガルタ国王は、本当に心からなのかもわからない感謝の言葉を述べた。
隣りには同じく一礼する少女の姿がある。第一王女のフィオナだろう。顔など憶えていないがその程度の予測は当然できる。
そこにデニスとは別の位置に座る男が笑いながら答えた。
「何、若輩の王としてお二方と出逢う機会に恵まれたのはこちらとしても僥倖でしたからな。今日は多く学ばせていただきますよ」
赤紫の肌と青紫の頭髪、そして黒い結膜の中央にある金色の瞳。
大昔なら魔族と呼ばれ蔑みの対象となっていたであろう屈強な大男は、ハイドラ国王として知られるルフィノ・カナル・ハイドラだ。
「こちらとしても貴重にして光栄な機会だ。何分引退間際の爺ですゆえ、どうぞお手柔らかに」
魔族の過去を知っているアブラムからしてみれば、彼がスーツを着てこの場にいることに対して少々場違いな感覚が生じてしまうところもある。
元々は戦場でグリモアーツを振るっていた戦士の一人だ。戦が起きる度に減少する数字の中の一つでしかない。
(……どんな経緯であれ、今は一国の元首としてこの場にいるのだ。下手なことは言えんな)
そこで「油断するべきではない」と判断できないのが老いた証拠と気づくこともなく、今回の会談を開くきっかけとなった男の方に向き直った。
「さて、此度の主題は[デクレアラーズ]についてでしたか」
「ええ。現在ビーレフェルト大陸に存在する各国は彼のテロリスト集団によって危機的状況にあります」
態度に出さず心の中でフン、と笑う。
少なくとも同じ卓を囲むハイドラ王、ルフィノに関しては例外だろう。
善政を敷き、後ろ暗い取引の主要因たる組織を内乱の中で手ずから潰して回った男だ。何となれば自分達より[デクレアラーズ]に近い思想を持っていてもおかしくない。
それを弁えた上でなのか、ルフィノは何も言わず神妙な顔で話の続きに耳を傾けていた。
「被害の内容に関しては既に情報が出回っております通り、民間人から場合によっては国王すら殺傷されている状態です。つい先日には我が国に魔力反応の痕跡を完璧な形で隠蔽できる構成員の存在を確認できました」
「ほう。それはどういった手段で為せる業なのでしょう?」
「禁術指定されている催眠術式を幾重にも併用しているものと考えられます。現場で直接的に対面した騎士からの報告なのでまだ調査は必要ですが、当時の状況をまとめた資料がこちらです。ご確認いただければ納得のいくところもあるかと」
言ってデニスが数枚の資料となるプリント用紙を背後に控えていた騎士に配らせる。
ひどく緊張している様子を見るに、恐らく噂に聞いた第一騎士団に属する者ではなかろう。このような場に連れてくるべきではない小物が紛れ込んでいるのはアブラムにとって面白くない。
ともあれ、まずは配られた資料に軽く目を通す。
とある監獄病院が[デクレアラーズ]構成員二名に襲撃された時の記録だった。
建築物や収容されている囚人の被害などはその襲撃をかけた二名によるものだったようだが、本題は一旦の解決に至った後となる。
戦闘不能状態にまで追い込んで拘束した二人の客人が行方不明になったばかりでなく、施設内にいた何人かの病院関係者が急に互いに刃物やグリモアーツを向け合って殺し合ったという点。
「アガルタの前農林担当大臣であるレッドメイン・バトルの邸宅で起きた事件と状況が酷似しています。魔力反応だけでなく、そもそも侵入したという記録自体が見当たらなかったとのことです」
「映像記録は誤魔化しようが……いや失礼。そう言えばラケルというのがいましたか」
「ご推察の通りです」
現場での状況証拠を抹消する者がいれば、電子機器に残された記録を改竄する者もいる。
大陸全土の電子ネットワークを自在に行き来する怪物、ラケルの存在は[デクレアラーズ]から狙われにくいルフィノも認知していたらしい。
「本件を受けまして[デクレアラーズ]という組織は当初私が想定した以上に危険な組織と判断し、本日の三ヶ国首脳会談に踏み切った次第です。アガルタ以外の二ヶ国と協力しなければ充分な対策は不可能と判断しました」
国王の口から出る“判断”なる言葉の重さは一般市民が口にするそれと大きく異なる。
何故ならそこには一国家を責任として背負う覚悟と、覚悟に見合った能力が要求されるからだ。アブラムはもちろん、王として生まれ育ったわけでもないルフィノとてそれは理解しているところだろう。
「今や[デクレアラーズ]の脅威は各国がそれぞれ対策するだけでは足りない。我々が手を取り合う必要があるのです。三大国家と呼ばれる我らが協調することで、他の国家にも前向きな変化が訪れましょう」
厳かな、そして静かな声だった。
まだ国王として活動した期間がそう長くないルフィノはデニスの表情と声色に大いに怯んだ様子で、場の空気に飲まれかけているのがわかる。
「どうか、お力添え願いたい」
そんなハイドラの王はともかく、裏で過去の拭いきれなかった闇を暴かれたアブラムにさえこれを真剣な頼み事として提示しているのだから面の皮の厚さたるや凄まじいものだ。
いずれにしてもここで選べる道など決まっている。
「……ラステンバーグでも[デクレアラーズ]から受けた被害は無視しかねる規模となっております。対策する上でアガルタ王国と組めるならこれ以上心強い味方もおりません」
嘘は言っていない。
皇族とともに甘い汁を啜ってきた数々の名門と呼ばれる貴族らは、その多くが[デクレアラーズ]によるものと思しき凶行で殺傷されていた。
若年層が皇族に対して反発するようになったのも報道機関への圧力をかけづらくなってからだ。あの客人で構成された少数規模の勢力は、忌々しい話だがアブラムとその配下だけでどうにかできる範疇を超えている。
国民感情を思えば皇族という制度を維持するためにも“黄昏の歌”が属する[デクレアラーズ]との対立は避けたいが、弱みを握られた上にこのまま進めば多少足掻いたところで玉座を失うとなれば答えは一つ。
「ラステンバーグ皇国はその話、現状では引き受けかねますな」
「…………はい」
静かに応じるデニスに対し、内心でいい気味だとほくそ笑んだ。
いくら暴かれたくない闇を暴く手段があろうと、所詮それはもうすぐ皇帝の座から消える老人のものに過ぎない。
デニスはアブラムが保身に走ると見越してそれを用意したらしいが、一国の判断を揺るがす交渉材料として見れば不足しているのは用意した本人も理解しているはずなのだ。
加えて今の皇帝を支持する国民は多くが高齢者であり、同時に信徒である。
長い時を生きてきた人間は自らが生涯かけて信じてきたものを容易く捨てられない。アブラムが過去にやってきたことが露見したところで、今になって愚かと嘲ってきた若者の集まりに加わるなど頑迷固陋な彼ら彼女らには到底不可能だ。
言ってしまえば、老人という生き物を見誤ったのがデニスの敗因だった。
「……ハイドラ王国は」
無表情のまま今度はもう一人の国家元首、ルフィノに顔を向ける。
腕を組んで瞑想するかのように目を閉じ思案する魔族の大男が、やがて重々しく口を開いた。
「一旦、返答を待っていただきたい。どうやらすぐに応じられる問題でもなさそうですからね」
「なるほど」
「フム」
実質的な断絶となる言葉を受けて、しかしデニスもアブラムも大して驚かない。
それはそうだろう、という納得が両者の間で共通していた。
何せかつて帝国での内乱で[デクレアラーズ]と似たような働きをして国王の座に辿り着いた男である。
民からの反応も当然気にするものの、それ以上にここで組むメリットが無いと判断してもおかしくない。
結果としてアガルタ王国は三ヶ国首脳会談において出鼻を挫かれた展開となる。
ここからはてお次は何を出してくるか、とアブラムが興味深げにデニスの方を見やると、
『緊急警報! 緊急警報! 迎賓館が襲撃を受けています!』
部屋に備え付けられたスピーカーから、騒々しい警報音とともに慌てた様子の声が鳴り響いた。




