プロローグ 湿り気の追想
生ぬるい雨がシャワーのように肌と土を叩く夏の日だった。
名前も知らない湿地帯には凶暴なモンスターや見た目ではそうとわからない底なし沼が数えきれないほどあって、何人も一緒に走り抜ける中で気づけば数人いなくなっていたのを今でも憶えている。
助けてやれなかった、どころか痛み苦しみを知ることもなく駆け抜けてしまったことへの後ろめたさに胸が締めつけられるように感じた。
それでも振り向かず走り続けるしかない。
どこで終わらせるべきなのかも定まらないまま。
「ねえ、あそこの洞窟で休もうよ」
へとへとに疲れ果てた少女の声が耳朶を撫でる。
具体的にどこの洞窟かもわからず言われるがまま彼女が向かった先についていくと、手頃なスペースを有した洞穴があった。見たところ奥まで続いているわけでもなければモンスターが住んでいる様子もない。
誰が言うでもなく空間の中心で魔術による焚き火が起こされ、各々が濡れそぼった衣服を脱いで乾燥させるべく手で広げた。
都合よく引っかけるための棒などない。残り少ない体力を節約することも忘れて絞ったシャツをバタバタとはためかせる。
重くじっとりと貼りつく布がただひたすらに不快だった。
同じくシャツを乾かそうとしている一人の少年が溜息とともに呟く。
「アビーがいてくれれば楽だったんだけどな」
「おい、バカ」
言った少年からすれば軽口のつもりだったのだろう。
今はいない風の魔術を得意とする女の子の名前が出て、途端に洞穴を見つけた少女の表情が曇る。
「……悪い」
「ううん、気にしないで。それよりこれからのこと、考えよっか」
追い込まれている中で心の傷に触れられたはずの彼女は、それでも自分を保って見せた。
少年の謝罪を受け流しながらその場にいる全員に向けて現実を突きつける。
これは逃走劇だ。スタート地点こそあれど、ゴールなどない。
加えて逃げ切れる可能性も低かった。
「ルー君のおかげで外に出られたけど、やっぱ簡単に街まで行けるとは思えないよね。それにまだ向こうも諦めてないだろうし」
向こう、というのは彼ら彼女ら子供達を檻に閉じ込めた連中だ。
どういう趣向によるものかわからないものの、それなり権力を持った相手であることは間違いない。
となれば逃げた子供を捕獲するべく、追っ手がすぐそこまで来ていないとも限らないのである。
それに言及する以上、疲れと眠気に身を任せてこの洞穴に留まることへの懸念も当然考えられた。
先ほど気まずそうに謝罪していた少年が気を取り直して濡れた地図を地面に広げる。
「俺がこないだ抜き取ってきた地図によると、この湿地帯は山脈の南西側にあるらしい。一番近い街はここ」
そう言って指差した場所の名前をその場にいた誰もが知らなかったが、恐らくそこまで大きくない寒村であることだけ理解できた。
季節を考えれば大勢で押し寄せても一晩程度なら馬小屋なり何なり借りることができるかもしれない。その後は別の居住区に行くための経路を聞き出して移動することになるだろう。
だが、その前に決めるべき事項があった。
「まっすぐ向かうのはリスクが高い。俺としてはこっち、南側にある小高い丘を周回するようにぐるっと迂回するルートが安全というか、まあ良い具合に奴らを誤魔化せる逃げ道になると思う」
「うん、じゃあそれで行こう」
方針は決まった。後は衣服がある程度水気を飛ばしたところで再び移動するだけだ。
雨は未だ降り続けているけどいつまでもここにいられない。危険は向こうからやってくる。
「さ、ルー君。そろそろ時間だよ」
少女が手を差し伸べる。自分より小さくか細く頼りないはずのそれが、他の何よりも頼もしい。
痛くて苦しくて悲しくてくたびれて動くのもやっとのはずなのに、彼女はどこまでも気高く美しく強い人だった。
「ルー君がいてくれたから、みんなここまで進めたんだよ」
なのに彼女は褒めてくれた。
ただ暴れるしか能のない、自分のような人間を。
壊して殺して磨り潰すだけの、くだらない存在を。
「一緒に行こう。ここを乗り切らないと、お礼の一つもできないもんね」
耳朶を打つ雨音が途切れたように錯覚するほど眩い笑顔は、蒼穹に燦然と輝く太陽にも似ていた。




