第十九話 まともならざる人々
エルランド・ハンソンが異世界転移を果たす直前、彼はまだ三十歳になったばかりの若き労働者であった。
そして、独房にいた。
酒乱の父が姉の服を脱がそうとしているところに鉢合わせ、無我夢中で殴りかかって気づけば己の拳と父の顔の両方が砕けていたのを今でも鮮明に思い出せる。
母親はいなかった。幼い時分、どうしていないのか父に訊いたところ言葉ではなく酒瓶が飛んできてからは努めて目を背けてきたから理由は知らない。
ただ姉から聞いた話を成長してから咀嚼するに、恐らく娼婦だったのだろう。そして父親以外の男に惹かれたらしいことまで推測はできた。
彼にとっては母親代わりに自分の世話をしてくれた姉だけが心の拠り所で、家族と呼べる唯一の存在で、彼女の幸福以外は本当に何も望んでいなくて。
右手が元の形に近いところまで回復してきた頃だったろうか。
姉が、連続猟奇殺人事件の犯人として逮捕されたのは。
「お前んトコの一家は何なんだ」
看守はただ呆然とするしかないエルランドに対し、いっそ憐憫の情すら滲ませながら呆れた声を吐き出した。
酒に溺れて娘を襲う父親。
男に狂って姿を消した母親。
血に飢えて殺戮を繰り返す娘。
「娘を捌け口にするようなクソ親父を姉ちゃん守るために殺したお前がハンソン家では一番まともだったよ」
――まともとは、何だ?
いつ怒りを爆発させるかわからない父親に怯えながら、姉と二人で励まし合い日がな一日無茶な仕事で飯代を調達するのが彼の日常だった。
それ以外の生き方が、自分の人生より楽な暮らしが世の中にはあると知っていても届かないならと諦めてきたのだ。
格差と苦痛と屈辱に満ちた人生で望むのは姉の幸せただ一つだけだったのに、世界はその数少ない希望すら歪に変貌させてしまう。
姉が殺した人数は六人。内、一人が子供で二人が老人だった。
彼の故郷には死刑制度がない。だから無期懲役という判決になったらしい。
今一度、疑問が生じる。
まともとは何だ。
まともなら我が家はこうなっていなかったのか。
こうなった以上、自分達はまともな一家と言えないのか。
到底言えないだろう。そして言えない事実を受け入れることもできる。
確かにまともな家族ではなかった。機能不全だった。不完全だった。
憎悪と恐怖の対象でしかない父親が狂人呼ばわりされるのは構わない。
家族を捨てて姿を消した顔も知らない母親など知ったことではない。
だが、姉だけは事情が異なるのではないか。
彼女は幼い頃の自分を食わせるため、周囲からありとあらゆる誹りを受けながら必死に働いてくれた立派な女性だった。
あの人を殺人鬼に変えたのは環境だ。まともな家庭に育っていればああはならずに済んだ。
そう自分に言い聞かせるようにしても、客観的に見れば違ったのだろう。
看守はあくまでも冷徹に、しかしどこか慈悲を滲ませて言った。
「お前は当時の状況も鑑みれば多少は情状酌量の余地がある。ニュースキャスターも俺も同じこと言うぜ、心底同情するさ」
だが、と付け加えられる。
「あの女は違う。ただ殺すために殺してきたんだ。それも子供や老人、病弱な人間に怪我人、果てはお前みたいに家族を守るため前に出た若者まで手にかけた」
生粋の異常者なるものが世の中にはいて、彼ら彼女らは一様にしてまともではないとされていた。
そんな連中がいるから犯罪は減らないのだと。
あんな女がまともであるはずがないのだと。
「最後に殺された若者はな。テメェのおふくろに刃物向けられて思わず前に出ちまったのさ。何も考えず姉ちゃん護ろうとしたお前と同じように、人間ってやつぁ家族が絡むとどうにも冷静でいられなくなるらしい」
その青年は腕っぷしで勝てる痩せぎすの女相手に掴みかかることもなく、ただ両手を広げて母と殺人鬼の合間に立ったという。
父親みたいな警察官になりたいと鍛えた体は、ついぞ誰にも力を発揮せず凶刃に倒れた。
「あんな馬鹿野郎でもな、生きてさえいてくれれば親は満足だったんだ」
声が、遠い。
自身を落ち着かせるように深呼吸を挟んだ看守の話が、薄れゆく意識によって夢か現実かわからないほど伝わりにくくなってきている。
「別に偉くならなくてもいい、夢が破れたって構わねえ。ただ元気にやってくれてれば、たまにはウチに帰ってきて親子でフィーカの一つでも楽しめればそれで満足だった」
自分の感情がどこに向けられているのか自分でもわからない。ただ、家族を失った痛みだけが空間を支配していた。
「だが世の中そんな程度の幸せでも、運が悪けりゃこぼれ落ちちまう。なあ、理不尽な話だと思うか? けどそれでも飲み込むしかねえんだ、誰もがそうだ」
混濁する意識が、変わらずあの疑問を言葉として、声として脳を揺さぶる。
「まともじゃない世界で、それでも自分だけはまともで在ろうと踏ん張るしかできねえ。まったくおかしくなりそうだよ」
まともとは、何なのだろうか。
そう、思考の迷路を彷徨い始めたエルランドの前に。
一人の道化が現れた。
「まともとは何かって?」
彼女は透き通った青い瞳を向けながら薄く微笑んで。
「道徳的知性を一定以上保有できている状態のことだよ。それができていないような存在は害悪でしかない」
どこか疑問に対して退屈さと億劫ささえ滲ませながら。
「事実として君の家族はまともじゃなかった。集団の運用に貢献すべき機構としての役割を果たせず、周囲を無駄に摩耗させる欠陥品でしかなかった」
対面した相手を問答無用で黙らせるほどの正気と狂気を隠すこともせず。
「そんなどうしようもない社会悪を手ずから排除した君は極めてまともな存在だ。正しい知性と理性を併せ持った人類の一員として存分に胸を張りたまえ」
断定的に、だから父親を殺したのは正しい行いだったのだと。
まともという言葉の定義を、述べた。
「そして[デクレアラーズ]へようこそ、エルランド・ハンソン」
アイリスが伸ばしてきた手を取った時点で、彼は異世界へと転移していた。
「まともじゃない出来損ないを。君の家族のような落ちこぼれを」
周囲には山のように積み重なるブラウン管テレビ。
アルカイックスマイルを浮かべる道化と、彼女の背後に立つ四人の“王”。
不思議な安心感が胸に去来する。
まるで今まで抱えていた悩み全てが、強引に取り払われたかのように。
「まともで正しい人間の手で殺し尽くそう! ボク達の理想の為にも!」
* * * * * *
「殺していいわきゃないだろうが!」
「ぐわああああ!!」
「キャアアアアアア!!」
リノリウムの床に洗面台の蛇口から捻り出した水を【ハイドロキネシス】でぶちまけ、そこに“アクチュアリティトレイター”を突き立てた。
そのまま【エレクトロキネシス】で電気を流し込むと、目の前に並ぶ集団がまとめて悲鳴を上げて倒れていく。
「騎士っつったら人を死なせないためにあるようなもんだろ! それ目指してるような奴らがどうしてテロリストにそそのかされて人を殺そうとしてんだよ!」
アーヴィング国立騎士団学校のとある廊下では、排斥派を探し出し場合によっては殺傷すら厭わない姿勢の二年生が何人か集まっていた。
対峙する圭介も一人で鎮圧するのはやや厳しく、今の範囲攻撃でもまだ数名ほど仕留め切れていない。
「ぐぅ、う!」
「やりやがったなチクショー」
加えて流石は二年生と言ったところか。痺れて動きを止めていた者達でさえ何らかの魔術を自身に付与し、再び起き上がり動き始めている。
すぐさま飛来した氷の矢や魔力の鎖を【サイコキネシス】で無動作のまま受け流すと、続けて怒号が飛んできた。
「お前に何がわかるんだよ! こっちは今年が実質最後の文化祭だったんだぞ!」
「高等部の三年になったら出し物なんてできねえんだ! それをあのクソどもはめちゃくちゃにしやがった!」
怒りとともに魔術が放たれる。言葉を向けてきてはいるものの、やり取りなど望んではいまい。
一定以上の戦闘力と連携を見せてくる上に殺さずして鎮圧しなければならないというのは、ある意味ただ暴れるだけのモンスターよりも厄介な相手と言えた。
「っ、校長先生ごめんなさい!【滞留せよ】!」
もはや交渉は不可能と諦めた圭介はクロネッカーの先端にマナを収束させ、大きな魔術円を空中に描く。
そこから飛び出した魔力弾は目の前に集まる二年生集団ではなくその上、天井へと撃ち放たれた。
「あ?」
「何してんのアイツ」
「……あれ、え、ヤバ――」
着弾と同時に魔力弾が大きな炸裂を起こし天井を、一つ上にある階にとっての床を破砕する。
降り注ぐ瓦礫は当然、二年生らを襲った。場所が廊下なので横に避けることもできない。
「おぎゃあああああああ!」
「おい誰か、結界結界!」
「アイツ俺らには人を守れ的なこと言っときながら自分は学校壊してるぞ!」
動揺しながらも何人かが真上に結界を展開して圭介の間接的な攻撃を防ごうとする。
結果、当然ながら直接的な攻撃への対処はおろそかとなった。
「そこで展示してるクラスの人らも、ごめんなさい!」
念動力魔術で触れないまま開かれたドアから飛び出すは、いくつもの机と椅子。
引きずり出される際に紙コップやテーブルクロスらしき布を床に落としているのを見るに、何かしらの出し物があったのだろう。
誰かが積み上げた思い出を見るも無惨に散らかしながら、突き出された脚を拘束具としたそれらが二年生の集団を取り囲み、そして捕まえた。
「ぐおっ、おっ前、そこ俺らのクラスの……!」
「だからごめんて! つかそれだったらクラスの前で暴れないでくださいよ頼むから!」
防御が間に合わず巨大且つ奇妙な金属のパズルに組み込まれた彼らが抜け出そうと四苦八苦しているうちに、圭介は再度魔力弾を撃って今度は外に通じる外壁を破壊する。
またも躊躇せず校舎を破壊する暴挙に唖然とする先輩方一同を、椅子と机に集合に巻き込んだままその穴から外へと放り出した。
「ちょっ」
「テメッ」
圭介とて身動き取れずにいる相手に着地を任せるほど無責任ではない。拘束した状態のままレイチェルや生徒会が待つ校庭へと移動させる。
敵意と罵倒が遠ざかるのを見ながら、一応は落ち着いた場で接近する二つの反応を感知した。
が、こちらは敵ではないと即座に判断する。
「圭介くーん! 大丈夫っすか、エルランドから不意打ちされてないっすか!?」
『お疲れ様です。今現在、対象人物は発見できていません』
「つか壁と天井ぶっ壊れてますけどどんだけ二年生暴れたんすか」
「うん、躊躇なく学校ぶっ壊しててヤバかったよあいつら」
追いついたレオと屋上から校舎を見て回っていたアズマが、ここでちょうど同時に圭介と合流した。
話を聞く限りエルランドからの奇襲はお互いなかったらしい。ただそれと同じように、相手の姿もどうやら校舎内にないという事実も判明した。
暴走する二年生を外に追い出してからは頭に巻き付けたレオの“フリーリィバンテージ”が起動した様子もない。
(東西の戦いに集中してんのか?)
かなり離れた距離、それも同時に二ヶ所で騎士団を不規則に昏倒させているという情報がある。となれば騎士団学校で動くだけの余裕はないのかもしれない。
だとすれば彼が隠れている場所は、と進めかけた推理が突如精度を落とす索敵網に阻害された。
「っと、また排斥派だ。場所は……なんでここにいんだよ」
『どこですか』
「焼却炉前だ。離れてなくて助かるけど、こんなところで霊符使っても誰もいないだろうに」
あまりよろしくない思い出がある場所である。脳裏に浮かぶ禿頭の老爺は目の前で焼死体にされたが、あの頃はまともに戦えなかったせいで仲間三人に負担をかけてしまっていた。
だが懐かしさと不甲斐なさに浸る暇などあるまい。
学生も来客もいないであろう場所を選んだ理由は不明として、ひとまずそこに排斥派がいるのは間違いないのだから。
急ぎ二人と一羽が階段を駆け下りて非常口から建物の外へと出る。
圭介の中で既視感が膨れ上がると同時、段々と気温も下がってきた。
「近いっすね」
「もしかしたら僕らが来るとわかってて誘ってるのかもしれない。罠の可能性だってあるし、油断せずに、行こ、う……?」
やがて校舎の角を曲がって見えてきた景色は、半分だけ想定していたものと合致していた。
グリモアーツらしきダガーナイフを右手に持った、いかにも素行の悪そうな大柄な男。
ドレッドヘアとタンクトップが学校という場に不似合いで、どこか浮いた印象を見る者に抱かせる。
そんな男が今、
「誰、だ、テメ――」
上半身と下半身を分断されて絶命しようとしていた。
「お、おおおぉぉぉおおおおお!」
急ぎレオが“フリーリィバンテージ”を伸ばして切断された箇所を即座に繋げようとする。
が、伸ばされた包帯は突如出現した白い粒の集合によって動きを阻害された。
ならばと圭介も【テレキネシス】で男の体を分断させまいと動かしたものの、男の死体の向こう側から伸びてきた鈍い輝きを回避して隙を作らされる。
「ん、のやろ!」
のけぞって避けたのは綺麗な長方形に整えられた金属の刃。
柄の先端に繋がる鎖で持ち主の元へと戻るそれには、男のものと思しき血が付着していた。
「っ、そっちのおっさんはともかくとして!」
もはや助かる余地もなく地面に叩きつけられる、二つの肉塊と化した男を意識的に見ないよう努めながら。
「あんたの顔を見るのは三度目だな。一度目は学校が虫に襲われてた時、二度目はつい最近僕らのホームでだ」
圭介は眼前に立つ、つい先ほどまで索敵網に引っかかっていなかったはずの二人へと視線を向ける。
場所と立ち位置から引っかからなかった理由は自然とわかった。
身を隠す空間がすぐそばにあると、圭介は知っていたから。
「やあ東郷圭介君、先日ぶり。この男をここまで誘導するのに少々手間取ってしまったものでね、合流が予定よりやや遅れて申し訳ない」
涼しげな顔で屍を見下ろすのは♦の4、エルランド・ハンソン。左手には青磁色の光を灯したカンテラを持っている。
それとは別に現れた、横に立つ一人の少女。
あまり面識もないが話には聞いていた存在。
「私からも謝罪を。せっかくモンタギューから誘いを受けたというのに、文化祭当日がこのような騒ぎになってしまいましたから」
メイド服に身を包み楕円状の眼鏡をかけた眠たげな表情の彼女は、アーヴィング国立騎士団学校の中等部に在籍していると聞いた。
彼女と同じ。
オカルト研究部に属する友人から、そう聞かされたのだ。
「名前、なんつったっけ?」
「……アラーナ。アラーナ・ボイエットと申します」
アガルタ王国において司法省法務大臣の家系に連なる、ヘイデン家に仕えるメイドの少女。
決して[デクレアラーズ]に屈してはならない立場の異世界人であった。




