プロローグ 理想は静かに衝突する
幾度、抱えてはならない頭を抱えただろうか。
幾度、吐いてはならない息を吐いただろうか。
幾度、顰めてはならない眉を顰めただろうか。
アガルタ王国当代国王であるデニス・リリィ・マクシミリアン・アガルタはこの日王室にて、数々の報告を受けながら王としての振る舞いがどれほど難しいかを再認識していた。
「絶え間ないな、連中の“善行”は」
執務に不要な皮肉など口にする日が来るとは、とデニス自身も己の不足と狭量を嘆く。それがまた王らしからぬ嘆息を呼ぶのだ。
「は、全く仰る通りで……」
彼と向かい合う形で直立する宰相のアラン・ムーアクロフトも心からの同調を示した。
入ってくる情報はいずれもテロリスト集団[デクレアラーズ]に関連するものである。
汚職や脱税に手を染めた貴族・王族の暗殺は言うに及ばず、市井においても彼らは彼らの理想とやらを大陸全土に振り撒いている。
日常的な暴力や労災隠しが横行していたとあるビルの解体工事現場では、現場責任者がミイラ化した状態で転がっていた。
娘の体を売り物にして食いつないでいた無職の夫婦は行方不明となり、後に森林地帯で採取された動物の糞に混入する骨片が彼らのものだと鑑定で判明している。
邪悪なる者は絶えず現れるため、それを処分するべく動いている[デクレアラーズ]の行動も留まる事がない。
「客人による私刑が横行しているとして一時期は活発化していた排斥派の動きも大して民衆から指示を集める事はなく、寧ろ今では内部で不祥事を起こした者が次々と離脱していく始末です」
「排斥派など元より何かを成せる勢力ではない」
まさかあんなものに期待していたのか、という叱責もやや含んだ声が室内に響き渡った。
委縮するアランの目元には洗顔の際に落とし損ねた目やにが残る。ここ数日ですっかり疲れてしまったのか、プライベートの時間を充分に確保できていないようだ。
比較的潔白な身である彼ならば殺される恐怖などなかろうとデニスも思う。しかし他の、特に王城に出入りしている貴族が日に日に減っていく現状に対し憔悴していくのが見て取れた。
「ただ王都の都知事がそれに属していた件と併せて今の流れを見るに、勢力そのものを無視するわけにもいかんだろう」
「おっしゃる通りです」
「そちらは私の方で考えておく。だがどうあれ、今は派閥云々ではなく国民感情そのものと対峙すべき時だと認識しなければな」
この件で最も大きな問題は悪徳貴族が次々と殺される事による国営の厳しさ、ではない。
寧ろ逆だ。
重要な役職に就く貴族や国境を越えて活動する大商人といった面々が殺されていく中、それでもビーレフェルト大陸全体の社会は支障なく動いている。
例えば農林大臣を務めるレッドメイン・バトルの屋敷で大量虐殺事件が起きた後の話となるが、後続のチャールズ・レッドメイン・マギニスが新しく就いて以降あらゆる問題が浮き彫りになった。
わかりやすいのは王国内でポップコーンの販売に大きな影響を与えたトウモロコシの産地偽装。件の伯爵はどうやらそれに深く関わっていたらしい。
他にも使用期限が超過している農薬の提供やバイオガス技術の研究所にて発見された禁術指定の術式痕など、信じ難い数の違法行為が発見された。
つまるところ屋敷での虐殺は結果的に社会問題の温床を発見させるに至ったのである。
悪人であっても社会的に重要な人物なのだから、などと大局的な視点を持ち出して言い訳する余地もこれで消えたのだ。
「政府が[デクレアラーズ]を支援すべき、という声も出始めています」
「アガルタに限らず多くの民は“大陸洗浄”を成功体験として捉えている。そうなっても不自然ではない」
「えぇと……一部の貴族もその声に同調しているのですが…………」
「だろうな」
言いながらまたも王として浮かべてはならない表情を浮かべてしまう。
この国で誰よりも大局的な視点を持つデニスは、現状における最大の問題点を正しく見極めていた。
若い貴族が[デクレアラーズ]支持層に流れているのは結果でしかない。
本質的な問題点は悪人が殺された以上の問題が発生していないところだ。
レッドメイン・バトルの一件が典型的な事例である。
後任の農林大臣に任命されたチャールズは確かに優秀な部類の男ではあるが、仕事を回す上での効率がそこまでよろしくなかった。
ところが現在の動きを見ると、前任たるレッドメイン・バトル以上の作業効率を叩き出している。
(あの虫も殺せないような優男が、裏を探っても何も出てこなかったような馬鹿馬鹿しいまでの善意の塊が。大量虐殺などという事態を想定して、ああも入念に引き継ぎと調査を並行処理するための準備を進めていたと言うのか)
人当たりの良さに加えて適した場面で節制を心掛ける姿勢も示したためか、国民からの評判もすこぶる好調だ。以前チャールズ本人と直接会った経験を持つデニスは、そこに強い不自然さを覚えていた。
誰かが入れ知恵をしている。更に言えばチャールズはその背後にいる誰かに与していると考えるべきだろう。
そしてきっとその誰かとは、[デクレアラーズ]の関係者なのだ。こういった最悪の想定は彼の人生において常に当たってきた。
だが、
(だから何だというのか。どうにも娘の悪癖に感化されたようだ)
今はそれも個人的な予測に過ぎない。そしてそれは王族の役割ではない。
己で否定した我が子の考えに引きずられたような気分になり、そう考えてしまった事実までもを心から恥じた。これでは父の未熟さを娘に責任転嫁しているのと同じである。
若かりし日のように自分で自分の頬を叩きたくなる衝動を鼻息一つで抑え、立ち上がった。
「アラン宰相。私はこれよりマシュー・モーガンズ元都知事の容態を確認するため少々出かけなければならない」
「は、はっ。お気を付けて」
まさか本当に排斥派の中でも過激派に属すると知られて久しい元都知事に、国王が直接会いに行くはずもない。
実際に済ませるべき用件は、先日襲撃を受けたアッサルホルトの被害状況を直接確認する事だ。
第二次“大陸洗浄”が始まって以来[デクレアラーズ]のメンバーは未だ誰も捕らえられていない。
数々の実戦を経て勲章を受けた東郷圭介ですら結果的に彼らを捕縛できなかった事実は、騎士団関係者や貴族達の間で重く受け止められていた。
彼らが退く上で考えられる逃走経路や使用される魔術を急ぎ特定するためにも、今は多くの情報と判断材料を手に入れておきたい。
それを第一騎士団“銀翼”に預け、その後は諜報部として機能する第三騎士団に赴いて団長のマックス・ダウダルから別件の調査報告書を受け取る。
昼食は十三時丁度からカティス・サイラー・ミューア公爵との会食が約束されていた。彼の子女がピアノコンクールで優勝を果たしたために催されたものだ。
第一王女のフィオナと比べて能力的に劣る情けない王、という取り繕った外面はあれどそんな俗な噂程度で仕事が減るわけではない。
王としての仕事があるのは構わなかった。当然の話なのだから、当然の責務として受け入れられる。
それとは別に、ここ最近どうにも名状できない感情が募る。
(最近は厄介な政敵を見かけなくなったな)
間違いなく第二次“大陸洗浄”の影響だろう。ただ発言権を持ち合わせているだけで存在しても無意味と見なされた無能な権力者は、いつかどこかで殺される。
レッドメイン・バトルの轍をいつ踏んでしまうかわからず、かと言って権力を手放すには贅沢を覚え過ぎた。彼らにはもはや沈黙して己の印象を薄める以外に生き残る手段がない。
そしてきっと、そんな現状維持を許してくれるほど[デクレアラーズ]は甘くないのだろう。
(忌々しい話もあったものだ)
奇妙な話かもしれないが。
敵が減って助かってしまっている現状こそ、身内に潜む敵すらもまとめて率いるデニスにとって最もあってはならない社会の形であった。




