エピローグ 幻影の庭
「あれ? 返事がないなぁ。もしもーし、圭介くーん?」
豪奢にして瀟洒な柵と門、そこで羽を休める小鳥達。
咲き誇る花とその周囲に舞う蝶、埋め込まれた縁石。
噴水に設置されているのは水瓶を持った女性の裸像。
無骨なコンクリートの地面を覆う芝生が風に揺れる。
アッサルホルト南西側駐車場に前触れなく突如として出現したそれらは、全てが透き通った琥珀色をしていた。
明らかな不自然の具現。その奇妙な庭園が何によって構成されているのかは、観測者全員の肺腑を満たす甘ったるい香りが物語っている。
飴だ。
まるで生きているかのように羽ばたく蝶、裸像が持つ水瓶から溢れる液体、揺らめく足元の草一本に至るまで。
全てはそれらしく形を整えられ動かされている、琥珀色の飴細工に過ぎない。
「おっといけない、こっちの世界で直接会うのは初めてだもんね。驚かせるつもりなかったんだけど」
それら美しくもどこか吐き気を催す庭園の中心に、一組の男女がいた。
少年の方は蛇に睨まれた蛙よろしく動かなくなってしまった圭介。
そして彼の背後から両手を伸ばし、小さな手で彼の両目を覆い隠している少女。
年齢は圭介と同年代といったところだろう。
騎士団学校とは異なる何処かの学校で指定されたものと思しきブレザーに、ビーレフェルト大陸では東方の地域でよく見られる黒髪のセミロング。
眠たげな目元に泣きぼくろを持ち、小さな唇から紡がれる声には蠱惑的な何かが秘められており、聞く者にほんの僅かな痺れを齎す。
一瞬にして現れた風景の創造主は彼女なのだと、エリカ達が認識するのに時間はかからなかった。
「お、おい!」
「エリカちゃんとそのお友達だね? 圭介君がお世話になってます」
異常な光景の中で思わず声をかけたエリカに次の不自然が襲いかかる。
視線の先にいるはずの少女の声が、どういう理屈か真後ろから届く。
同時に肩に置かれる手の感触を伴って見慣れぬ少女が横からぬるりと現れた。背中に回された腕と接近する顔からは甘い香りと体温による熱が伝わってくる。
だがどう考えてもおかしい。圭介の目を隠す少女もエリカの背後から現れた少女も、同じ姿をしているようにしか見えないのだ。
同じ人間が同じ空間に二人いる。
魔術による幻影ならまだしも、肩に触れている指先の感触や呼吸の音は嫌に生々しかった。
「名乗ってもいいんだけど、でもせっかく圭介君がいるんだし久しぶりに名前を呼んでほしいなあ。ね、圭介君。声で大体わかるでしょ? それともびっくりして聞こえなかったかな。じゃあ、やり直そうか」
歌うように言葉を連ねながらエリカの隣りに立っている方の少女が徐々に消えていく。
まるで温かい紅茶の中に放り込まれた砂糖のように。
「え……」
幻ではないのか、と疑った矢先に幻のごとく消え去る少女にエリカも困惑するばかりだ。
彼女の狼狽を無視して、圭介の目を手で隠しながら元々存在していた方の少女が再度問いかける。
「もう一度言うね。だーれだっ♪」
「なんで、お前が、ここに」
「不正解。次間違えたら私だって怒っちゃうぞう」
「………………ふ…………藤野」
「はぁい正解っ」
言いながら目に当てていた手を下げて頬、顎、首元へと指を這わせていく。その緩慢な動きはどこか加虐と慈愛の情を同時に感じさせた。
そのまま圭介の背後から飛びかかるようにして抱きついて、ようやく呆然とする一同に視線を向ける。
するとまるで恥ずかしがるかのように圭介から身を引いて深々と頭を下げた。しかし一度下げてからまた持ち上げたその顔は恥じらいを一切帯びていない。
まるで自らが人であると示すためだけに人として当然の反応を演じているかのような、奇妙な不気味さを漂わせている。
「というわけで皆さん初めまして。私、財津藤野と申します」
恭しい挨拶を告げて彼女――藤野はブレザーの内ポケットから一枚のカードを取り出す。
トランプの絵札。
♥のQ。
「立場は[デクレアラーズ]幹部[十三絵札]の一人、“ユディトの座”」
そして、と付け足すのはもう一つの肩書き。
「ここにいる東郷圭介君とは元の世界で恋人同士でした。要するに彼女だねえ」
「……んなっ」
聞こえたのは誰の声だったか。
人間関係に大きく響くであろう爆弾を投下して、微笑みながらその姿の輪郭を薄れさせてゆく。
「今日は負けた二人の回収と討ち漏らしの処理に来ただけだから、残念だけどここまで。機会があればまた会おうね」
「逃がすか!【案内人に告ぐ 導を示せ】!」
怒号を交えてその場に響いたのはエリカの詠唱。第六魔術位階【マッピング】によって消失しようとする藤野を追跡しようとしているのだろう。
だが、現れた記号の集合体は平坦な地図を描かず三次元的な人型を象った。
「こらこら、すぐそうやって【マッピング】に頼ろうとするのは悪い癖だよ? 少なくとも私達[十三絵札]にそんなの使っても大して意味ないんだから」
エリカの魔力で構成されているはずのそれがエリカの意を無視して動く。腰に右手を当てて左手の先端を彼女に向けながら、上半身を前方へと曲げる動きはまるで子供に説教する大人の振る舞いだ。
自分の魔術を支配されたエリカが、驚愕のあまり思わず手に持ったグリモアーツをポトリと落としてしまった。
地面に落ちた瞬間、カードから弾き飛ばされたように人型の【マッピング】が離脱して四散する。
「じゃあまたね圭介君。それにしても、かわいい女の子に囲まれちゃって。私は寛容だからちょっと遊ぶくらい許せるけどさ」
消えゆく少女の輪郭は最後に圭介の顔をさらりと撫でて、
「もしそれで浮気なんてしたら私、あの頃に戻っちゃうかもしれないなぁ」
慈愛と偏執を同時に孕む微笑みを浮かべながら消えた。
同時に突如現れた飴細工の庭園も一切の痕跡を残さず消失し、何事も起きなかったかのように元の駐車場が姿を現す。
その様子を見届けた圭介が膝を折って地面に手をつく。脂汗を浮かべる表情に余裕はない。
「なんで……藤野がここに……」
優しく吹く秋の風だけが、場違いなまでに穏やかだった。
* * * * * *
後日。
放課後の空いた時間に圭介がホームに来ると、普段通りに表情の薄いコリンが座って待っていた。
「ちっす」
「よっすなの。こないだは助かったの」
「別にいいけどさ。二人きりの状態でもその口調なのね」
「余裕がある時はなるべく誰が相手だろうとこれで通すつもりなの。諸事情あって簡単に捨てられるもんじゃないの」
「そういうもんか」
語り合いながらテーブルに向かい合う形で腰を下ろすと、彼女は少し気まずそうな雰囲気で圭介の背後を見る。一応振り返るもそこには誰もいない。
「エリカちゃん達は一緒じゃないの?」
「文化祭の準備もそろそろ始まるから軽く済ませたい用事があるんだってさ。先に行っててくれって言われた」
「そうなの。……まあぶっちゃけ知り合いの男子に実は彼女がいたってなったら、ちょっと気まずいのはわかるの」
「エリカとか嬉々としてからかってくると思ったんだけどね」
「いやあー、今回の場合エリカちゃんでもからかわないってかネタにできないでしょ。私だって若干反応に困るわ」
「口調、口調! 舌の根も乾かねーうちにお前ってば!」
おっと、とわざとらしく口元を手で押さえてからコリンが話題を逸らす。
「まあ彼氏彼女がどうとかって単純な話じゃないの。何せ圭介君の彼女さん、[デクレアラーズ]の一員だったわけだし。しかもとんでもなく強力な客人でもあったの」
「……ああ。僕もまさかアイツがこっちに来てるとは思わなかったよ。おまけに最悪な事件まで起こしやがった」
藤野が姿を消したその後、アッサルホルト内部で二つの大きな問題が生じた。
一つは一度気絶した状態で運び込まれたギルフィと軍輝の二人が、藤野の退場と同時に姿を消した件。
目撃者から話を聞いた限りだと、藤野と同じく空気に溶けるかのようにして消失したという。騎士団が追跡を試みているものの未だに捜索は終わっていない。
きっともう見つからないだろうな、とこの件については圭介も察していた。
二つ目は彼らの消失とほぼ同時に病院関係者が数名、手術用のメスや調理室の包丁などを用いて前触れもなく互いに殺し合った件。
死んだ面々は以前から素行に問題があるとされていた人物ばかりであり、また相手を殺害するような理由もなかったはずだとベンジャミンから聞いた。
以前ニュース番組で似たような事件があったのを圭介は思い出す。どこぞの排斥派の大臣一家が自宅で互いに殺し合うという事件が大々的に取り上げられていたはずだ。
「レッドメイン・バトルの悲劇。農林担当大臣の邸宅で起きた大量虐殺事件と、今回の一件は酷似しているの」
圭介の追想を補助するかのように、コリンが事件の通称とともに簡単な概要を述べた。
「あの時も今回も施設に誰かが入った痕跡はなかったの。殺し合いで死んだ連中も模範囚を脅して裏であれこれやってたような連中だし、恐らく[デクレアラーズ]の仕業と見て間違いないの」
「……多分、藤野だ。アイツがやったとしか思えない」
断定する圭介の言葉にコリンが少し意外そうな顔つきとなる。
「それ、彼氏の口から言っちゃうの?」
「まあそりゃ状況的にそうでしょ。それに、僕はアイツがどんだけ歪んでるか知ってるつもりだよ」
恐らくあの飴で構成された庭園から漂う甘い香りに、嗅いだ相手を操る催眠作用のような何かがあったのだ。それで相手の動きを操ったり視覚情報を改変したりできるのだろう、と圭介は推測した。
思えばエリカの【マッピング】までもが操られていたため、神経系の深い部分にまで干渉できてしまうのかもしれない。
何より恐ろしいのは複雑且つ単体でも困難な同時並行処理を、いとも容易く済ませてしまったという点である。
エリカの魔術を操る一方で駐車場から離れた施設内の複数人すら操作してのけた。しかもギルフィと軍輝が姿を消した件まで加味すると、その場にいた病院関係者全員が魔術の影響下にあったのだろう。
アッサルホルト常駐騎士団の騎士曰く、「騎士団どころかビーレフェルト全体で見てもまず実現できる者がいない」と断言できる規模と精度らしい。
彼女やアイリスが言っていた[デクレアラーズ]の幹部、[十三絵札]と呼ばれる存在が持つ力を見せつけられたような心持ちだった。
そして、そんな相手が圭介の恋人という事実。
「で、圭介君はどうするの? アッサルホルトでは彼女がいても[デクレアラーズ]に流れるつもりはないって言ってたけど、あの状況だとああ言うしかなかったはずなの」
コリンの瞳が圭介の真意を探るべく光る。
「そりゃあ……」
「先に言っておくとケースケ君がどんな選択をしようと、私個人はケースケ君についていくの」
「いやそれはそれでどうなん。あんま大きな声で言えないけどコリンってその、アレじゃん。そういうのよくないんじゃないの」
一応どこで誰が聞いているかわからない。特にミアのような優れた聴覚を持つ者がそこかしこにいる世界だ。
国が抱える諜報機関の一員である彼女の立場を思えば、迂闊な発言はできなかった。
「裏で圭介君関連の情報を集めたりしてた裏切り者の私を受け入れて、あまつさえ優しい嘘までついてくれたケースケ君のためならそれでも恩返しとして足りないくらいなの」
「そんなん言われてもね。僕はあいつらについていくつもりなんて全くないよ」
「……一応訊いとくけど、本気なの? 向こうには彼女さんいるのに?」
圭介の発言は単純に「藤野と異なる考えを持っている」という思想の問題だけで済まされない。
今後の展開次第では殺し合うかもしれないというのに、明確に交際相手と敵対する立場に立つと示したのだ。コリンが訝しむのも当然の反応と言えるだろう。
ただ、それは仕方のない事だと言えた。
「藤野が向こうについてるなら尚更だよ。僕はアイツがどんだけイカれてるか知ってるから」
強力な魔術を操るだとかテロリスト集団の幹部格になっているだとか、そんなものは圭介にとって重要な問題ではない。
「止めなきゃいけないんだ。一時的にでも野放しにしちまった以上、僕の手で」
財津藤野という人物の危険性を知る者として。
彼女と恋人として付き合っている彼氏として。
固めた決意を嘲るように、圭介の握り拳は震えていた。




