第二十三話 とある一人の男の話
ヴィンス・アスクウィスという教師は学内でも極めて高い評価を得ている好々爺として有名である。
一般的な学生からは「優しくも厳しく、教育者として好ましい印象を抱かせる先生である」と好評を呼ぶ。
素行の悪さが目立つ所謂不良生徒からも「口うるさいが反発しようとは思わない。不思議な柔らかさがある人だ」とまで言われている。
そんな彼の普段を知っているからこそ、その場にいる全員が現状を上手く咀嚼できずにいた。
『あの優しい先生が自分達にこんなにも鋭い殺意を向けるはずがない』と、心が理解を嫌うのだ。
「これは参ったね。ウォルト君とケースケ君以外に誰も来ないように手引きしたはずなんだが、まだ準備不足だったかな」
表情だけを見る分にはこれまでに接してきた彼と変わらない。
特別武装しているわけでもなければ足音を殺して接近してきたわけでもない。
どころか周囲にいる教え子達に対して、睨みつけるような真似すらしていない。
だが、肌に突き刺さるような怖気を以て彼は告げる。
殺しに来たのだと。
逃すつもりは毛頭ないと。
「ああ、まだその便箋を持っていたのかい。ははは、どうやらユーフェミア君はわかってしまったようだね。いやいや私も詰めが甘い」
それは酔ってしまいそうなほどに強烈な殺意に見合わない、穏やかな笑い。まるで授業中に問題を解いてみせた学生に向けた称賛の如く、彼はユーを褒めたのである。
「……わた、し。私、先生にはよく質問をしに行っていました。だから、ノートに注意書きなどもして頂いていて…………」
「私の書風を覚えていたと? 真面目に取り組む生徒に過干渉になってしまう悪癖は校長からも指摘されていたんだが、もっと早くに改めるべきだったかな」
嘘ではないのだろう。しかし、言葉はとことん空虚である。
彼の発言は便箋の送り主が自分であると主張している。当人のみならずユーという証人もいる以上、それは確実だった。
それでも感情的な面で解せない部分がある。
「なんで……なんで、ケースケとウォルト先輩をここに呼んだんすか」
エリカの疑問はそのまま周囲の生徒達全員の疑問でもあった。
生徒の家族、それも故人を巻き込んでまで二人を一ヵ所に呼び出す理由とは何なのか。
「ふむ。まあ、説明する時間はいくらでもある」
言いながらヴィンスは手に持った懐中時計を広場の出入り口にかざす。同時に通行を妨害する意図を持って編み込まれたと思しき、瑠璃色に輝く縦に長い長方形の術式が展開された。
恐らくその時計こそが彼のグリモアーツなのだろう。
退路は、断たれた。
「さて、ウォルト君。君は[羅針盤の集い]という排斥派組織を学内で立ち上げて、日夜各所で色々と活動していたようだね」
声をかけられたウォルトは「ひっ」と短い悲鳴を上げながら、質問に応じず背後の木の幹に背中を擦り付けた。これ以上後ろには移動できないと知っていても逃げようとしてしまうのは、殺意の密度が増したからか。
最初から真っ当なコミュニケーションを期待していなかったらしく、ヴィンスの話は少しずつウォルトに近づきながら続けられる。
「校門前で無許可で勧誘活動に没頭したり、マゲラン通りで演説などもしていたかな。ああ、クエストの依頼主から学校に『急に勧誘された上に客人と婚姻関係にある親族を不当に貶められた』と抗議の電話がかかってきたりもしたか。確かアレがきっかけになって職員室では君の扱いが話題になるようになり、お父上が学校に呼び出される発端にも繋がったのだったね」
ハァ、と溜息を一つ。
同時に怯えるウォルトの目の前でヴィンスが立ち止まる。
「困るんだよ、そういうことをされると。我々真っ当な排斥派まで品位を疑われるじゃないか」
言うと同時に。
ヴィンスの足がへたり込むウォルトの右足首を、全力で踏み抜いた。
「いぎゃああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあ!!」
「まあこんなもんかな」
いかなる外力が加われば人間の足首がこうも見事に潰れるものか。
血を吹き出しながらもぺらりとした外観と化したその肉を見て、圭介は吐き気をこらえるのがやっとだった。
一しきり叫んだウォルトは地面に貼り付く足首を抑えながら胎児のように体を丸めて横たわり、咽び泣きながら「なんで」「どうして、先生」と小さく呟き続ける。
その姿を見て、しかしヴィンスは一切表情を動かさない。
「君達が無駄に各所で迷惑をかけ続けることで動きづらくなる排斥派の勢力は数多く存在する。私が属する組織は中でも特に過激な勢力の一つでねぇ。君のお父上が客人の組織と繋がっているという事もあり、『せっかく近い位置にいるんだから殺して来い』だなんて言われてしまった。だから今回の便箋を用いた簡単な計画を立ててみたんだが」
苦笑しながら、寝転がるウォルトの腹に蹴りを打ち込む。
「げはぁっ」
「意外な要因が計画を大幅に遅らせてくれた。察しているかもしれないがつまりその要因というのが君の事だよ、ケースケ君」
その言葉と同時に振り返るヴィンスのがらんどうな目と、圭介の驚愕に揺れる目が合う。
「このタイミングで現れた客人の存在は完全な計算外だった。もちろん多少の失敗が生じるのは前提として事前準備もいくつか用意してはいたが、今回の君の登場は結果的にウォルト君を強く刺激してしまった上に校長に排斥派からのアクションを警戒させる結果に繋がってしまった。覚えているかい、私が本来ならば真っ先に君の転移を校長に告げるべきタイミングでエリカ君に道案内を任せた事を」
思えば確かに不自然ではあった。彼は決して業務上致命的なミスを犯す類の人間には見えなかったし、学内でも能力的な信頼を得ていたはずなのだ。
にも拘らず彼は校長への報告をせずに、一旦別室に圭介とエリカを通してビーレフェルトに関する説明を始めた。
「まさか……」
「あの時は焦ったよ。君とエリカ君を教室から送り出した後、急いで上司に当たる人物に連絡し人員を追加してもらおうと交渉した。まあ、転移直後の客人なら魔術も使えないだろうから脅威とは言えない、いっそ標的共々始末してしまえという無茶な注文を追加されたがね」
つまり、あの時の行動の意味は焦りから来る判断ミスなどではなく、排斥派の組織に意見を窺う為の時間稼ぎだったという事になる。
そして話はそれだけに留まらない。
「そこで目を付けたのが学生時代、やんちゃついでにこさえたこの秘密の場所さ。ここに君とウォルト君を上手く誘い込み、更には二人が衝突するように誘導すれば人知れず君達は互いに消耗し、私の手で始末する事も容易になる。だからあの時、君にはわざわざ『秘密の場所』と言い含めておいたのに……」
その視線が、エリカ達の方へ逸らされる。
「まさかこんなにも友人に恵まれているとは知らなかったよ。特にエリカ君、君は一時期客人への排斥思想が強かった時期もあったはずなんだが」
「…………」
声をかけられてもエリカは無言を貫いた。否、言葉が出なかった。
いつも優しいヴィンスが排斥派だったこと。
故人である自分の両親を利用していたこと。
極めつけに、圭介を殺そうとしていたこと。
普段どれほどふざけた態度をとっていても、エリカは多感な年頃である思春期の少女だ。更には精神的に追い込まれてからまだ立ち上がったばかりの段階。彼女にとってこの短時間に叩きつけられた現実は一つ一つが余りに重い。
「……ヴィンス先生。一つだけ、教えて下さい」
搾り取るように零れたのは圭介の声である。
「何だい?」
「どうして、エリカのご両親の話を利用したんですか。どうしてこんな、人殺しのために、そんな……」
信じていた相手が自身に殺意を向けていた。
今の圭介にとってそんな事実は大した意味を持たない。
そもそもその程度の事なら、経験がないわけでもない。
今、彼が本心から悲しんでいるのはエリカの家庭事情を他人に暴露してまでも圭介とウォルトを殺害しようという、これまで会話を重ねてきたヴィンスの印象からは考え難い非人道だった。
「………………………………」
そして意外にも、その質問に対してここまで饒舌だったヴィンスは言葉を止めた。
答えるつもりがないでもなく、答えることを躊躇う風でもない。ただ、遠くを見つめるような顔が圭介の方を偶然のように向いていた。
懐かしんでいる。それがその挙動に込められた一つの答えだと、圭介は察した。
「私はね、ケースケ君。エリカ君のご両親を利用してしまった事に関してだけは、未だに罪悪感を抱いている。エリカ君の心情を慮って、だけではない。彼らの戦友として、彼らが遺した宝物を傷つけた事を申し訳ないと思っているんだ」
その言葉には、心なしか先ほどまでより温かみのある声に載せられている。
「私は“大陸洗浄”で彼らと最後の戦場を――セルウィン腐敗戦線を共にした、元傭兵だよ」
優しげな声に応じるように、ヴィンスの手に握られる懐中時計が光を放つ。
「【解放“グリーフクレセント”】」
そうして【解放】され現れたのは、瑠璃色の大斧。クレセントアックスと呼ばれる三日月よろしく曲線を描く刃が特徴的な戦斧である。
その【解放】は圭介がこれまでに見てきたどれよりも穏やかに、優しく、そして哀しげに為された。
「当時、私は少し自暴自棄になっていてね。恥ずかしながら息子が職場で横領を働き、しかもその件で法に裁かれる前に“大陸洗浄”で客人に殺されてしまったばかりの頃だったか」
息子の死。一人の男が排斥派になってしまうに充分な理由だろう。
彼は間違いなく“大陸洗浄”における被害者だ。
「それを受けて客人許すまじと奮起し、もう戦争も終わりが近いあの状況下で『若かりし日に多少荒れていた時期があった』というだけの半端者のまま戦場に出向いたのが彼らと出会うきっかけだった」
グリモアーツの【解放】形態は久し振りなのか、当時を感触ごと追想するかのように斧の刃を優しく撫でる。
「そこでエリカ君、君のご両親と出会った。偶然にも彼らは死んでしまった私の息子と同年代で、これから戦いに赴くというのに不用意に親しくなってしまったものだよ。……全く、今にして思えば本当に不用意だった。あの時荒れた心模様のままに彼らを突き放していれば、彼らは死なずに済んだのかもしれない」
今更だがね、と自嘲気味に笑う。
この時、ヴィンスは広場に来てから初めて殺気を一瞬緩めた。それも本当に一瞬の出来事だったが。
「あの日あの戦場に現れ、グリモアーツを【解放】もせずに我々の部隊を駆逐せしめたとある一人の客人によって私が窮地に陥った時。あぁ……忘れもしない、あの瞬間、私が呆けているところにアルジャーノンが、ディアナが、私を庇って……おぉ…………」
嘆きが声色を染め上げる。俯く姿はどこか懺悔を想起させた。
実際、心から悔いているのだろう。死んだ息子の影を重ねた、家に小さな娘を置いてきている二人の若者を死なせてしまった自分の無力さを。
呪わずにはいられないのだろう。その出来事を利用し、未来ある学生と罪無き客人を殺めようとする自身の醜さを。
「そんな……そんな二人とのほんの僅かな思い出さえも、私は利用した。彼らの娘である君も、君の周囲の仲間達も私の殺人計画に巻き込むわけにはいかなかった。そのために、私が、どんな……どんな思いで、あの手紙を…………」
グリモアーツ“グリーフクレセント”を握る手の力が強まる。
そこに込められた思いは一つ。
息子を殺し、息子の影を重ねた戦友までもを殺した、客人という存在そのものへの復讐心。
狂気と差異の無い嘆きと憎悪を、穏やかな教師の仮面で抑え続け熟成させた激情の爆発だった。
「……故に殺す。我らが目的はただ一つ。客人を殺す、それ以外にない!!」
怒号と鬼哭をない交ぜにした叫びと同時、瑠璃色に輝く戦斧は迫力に圧される圭介へと振り下ろされた。




