第十八話 プロジェクト・ヤルダバオート
「君がこちらに向かっていると聞いた時は驚いたよ。防衛機構が備わっていると言っても高層建築物に過ぎないここは、避難所として機能しない。だから寧ろ中から人を追い出すよう務めていたんだけれど」
言いながらマシューが少し圭介に歩み寄り、その背後にある開け放たれた扉を眺めた。
「……ダグラス君か。上層階が吹き飛んだ時点で覚悟していたとはいえここに招き入れてしまうとは何とも間の悪い。そもそもまだ王都に到着しないよう調節する意味も込めてユビラトリックスでの依頼を君達に持ち込んだんだが、上手くいかないものだね」
至極残念そうな声色に含まれる意味を察して圭介が半歩引き下がる。肉体の損傷と疲労がもう少し軽ければ数歩は移動できただろう。
殺人鬼であるダグラスを親しげに呼び、避難所にも向かわず怪しげな部屋に閉じこもり、傷と疲労によって今にも倒れそうな圭介を見ても一切心配する様子を見せない。
流石にここまで条件が揃えば思考能力が落ちている今の圭介でも理解できる。
今目の前にいる男は、少なくとも味方などではないのだと。
「何なんですか、ここは」
「いやはやどこから話したものだろう」
子供から返答に困る質問を投げかけられた。マシューの反応はそんな程度のものだ。
明らかに場の空気が不穏な割に目の前の男からは殺意や敵意を感じない。これまで見せてきたものと変わらず朗らかな態度が、今この場において何よりも不気味に見える。
「まずこの場所についてだが、君達も既に知っているだろうプロジェクト・ヤルダバオートを実行するための施設だよ。死者のグリモアーツを復活させ操るという内容の計画はここに完成する」
淡々と述べるマシューは円柱状の容器に視線を移す。
ピンク色に光る液体で満たされたそれを見つめて、どこか達成感すら漂わせながら彼は語った。
「初代王妃、リリィ・アガルタ様。彼女のグリモアーツを都知事である僕が手に入れ、混乱に陥って国内の各種メディアや王城の目が王都メティスに集中している状態でそれを披露する。そうするとどうなるかわかるかな」
「どう、なるんですか」
「少なくとも王族は彼女のグリモアーツの実態を知っている。となるとこの時点で軍事的な制裁を行使する手段が失われるため交渉に及ぶしかなくなるわけだ。そして僕は目的を達成させる上で一切妥協するつもりがない」
「目的って……それってやっぱり」
「もう察しているだろう?」
社会的にも扱いに困るような存在となって実行する何か。
その概要を圭介はこれまでの流れから察していた。
「貴族や王族との繋がりでも民草から得る信頼でもない、圧倒的な力を後ろ盾とした客人の撲滅及び社会からの追放」
迷いなき言葉が紡がれていく。
どうしようもない無力感を圭介に与えながら。
「それこそ彼らを率いてきた僕が――排斥派の筆頭である僕が、最初から掲げ続けている最終目標なんだよ」
決定的な結論を受けて、圭介の胸に怒りと悲しみが同時に去来する。
親しいと思っていた相手から裏切られた時の痛み。
以前も味わった感覚だが、こればかりはやはり到底慣れそうもない。
「……あんたが」
「ん?」
小さな声を受け、円柱の方に向けられていた視線が圭介の方へと移る。
「あんたがっ、そんなことを言って! 今まであんなことをやってきて……どれだけ、たくさんの人に迷惑かけたと、思ってんだ!」
激情に任せて口から出る言葉はまとまらず、どこか支離滅裂な叫びとなる。それを茶化すような真似もせずマシューは静かに応じた。
「君達がどれほどの危険に晒されたかは知っているさ。エリカちゃんが死ぬ可能性だって当然考えなかったわけじゃない。ただそれを考慮してもまず君という障害を先に取り除く必要があった」
「何を言って……」
「“黄昏の歌”やカレン・アヴァロンもこの計画さえ完遂してしまえば脅威とはならないだろう。しかし君に関して言えば、まあ教えてあげるつもりはないがとある事情があってね。例外的な客人として最優先で殺さなければならないと判断した」
言いながらマシューはまたも微笑む。
「君は知っているかな? 初代王妃であらせられるリリィ・アガルタ様は、とある第一魔術位階の使い手だった。僕が手に入れようとしているのはそれなんだよ」
第一魔術位階。
まずもって魔術位階の定義がやや曖昧なところもあるのだが、第一に限って言えば明確な基準がある。
それは“対象となるものの規模を選ばない”という点。
エルマーから聞いた話では、「物を燃やす」第一魔術位階が存在したとするならそれが本一冊でも図書館一つでも同じ魔力の消費量で全焼させるというものらしい。
流石にそれは極端な例え話だったようだが、少なくとも目の前の男が語るそれは王族が交渉以外の抑制手段を失うほどのものであるようだ。
「いかにケースケ君が第一王女からの覚えめでたい立場と言えども、その魔術さえあれば王族は君の首を差し出すしかない。そして君さえ死ねば我々の目的を阻むものもなくなる」
言いながら今度は背後に広がる元いた位置、部屋の最奥を見つめる。圭介もその動きを追って先に何があるのかを目視した。
「もう、彼女のような人が哀しみを抱え込むこともなくなるんだ」
それなり広い空間の先にあるためか小さな姿しか見えないが、それでもわかる。
床の上で体を丸めるようにして眠っているのはアーヴィング国立騎士団学校校長にしてマシューの幼馴染、レイチェル・オルグレンに他ならない。
「校長先生……!」
「都庁舎内で逃げ遅れた人がいないかどうかを妖精達に確認させている途中で、不幸にも僕の計画を察知してしまってね。まさかあのタイミングでまだ逃げていなかったなんて思わなかったが……何、眠らせているだけで怪我なんて負わせていないから安心してくれていい」
通話越しに「来るな」と忠告してきたあの時、彼女は既にマシューの正体とその目的に辿り着いていたのだ。
レイチェルほどの人物が姪の人間不信を察知していなかったわけでもないだろう。親しいとまではいかないまでもそれなり交流があったマシューの裏切りを知らせないため、エリカを気遣ったに違いない。
きっと彼女自身も、処理しきれない感情があっただろうに。
「そろそろこちらも準備に入ろうか。魔術の特性上、リリィ様の遺伝子情報を採取するのは不可能に近かった。しかしこれほどまでに大掛かりな施設を長期間動かし続け、ようやくその目処が立ったんだ」
言ってマシューが円柱に近づく。
考えてみればおかしな話だ。初代王妃ともなれば大昔の人物だろうに、その死体が腐敗もしないまま保存されている。
加えて見たところ外見年齢が異様に若い。いや、若いどころか幼いとさえ言える容姿はどこか自然の摂理から逸脱しているかのような印象さえ見る者に抱かせた。
不自然、不思議、そして不気味。
その近寄り難くも感じる存在の足元にはスリットが入った機材が備え付けられており、マシューはそこに自身のグリモアーツと思しきカードを挿入した。同時に周囲の機械からブゥンと音が鳴る。
「させっかよ……!」
仕組みなどわかるはずもないがそれをこのまま見過ごすわけにはいかない。彼は初代王妃の第一魔術位階を手に入れ、異世界にいる客人を皆殺しにするつもりでいるのだ。
残り少ない魔力を絞り出して風を纏い、“アクチュアリティトレイター”を引きずりながらマシューの背中へと向かう。
「そう言えばケースケ君。今まで君を観察してみたところ、どうやら追い詰められると新たな魔術を獲得して状況を打破するという特徴があるらしいとわかったんだが」
相手はグリモアーツを一旦だが手放している。予備を持っている可能性もあれど、それを取り出す動作が大きな隙となるだろう。
「逆に言うと新たな魔術を手に入れた直後の君は酷く疲れ果てていて、容易に対処することが可能なわけだ」
距離は少し開いているし圭介も今は平時のスピードを出せない。とはいえどうにか接近して一撃を食らわせる程度の力は残されている。
「君は今、風を操る念動力魔術を使えるようになったばかりだろう。さぞかし辛いだろうね。その傷の深さから察するに魔術さえなければまともに歩くことさえままならないはずだよ」
流石に“アクチュアリティトレイター”を持ち上げられる余裕はなく、精々クロネッカーで背中を刺すしかできそうもなかった。
それでも構わない。目の前の男を止められれば、それだけで。
「ところで君の様子を見るに」
意識をその無防備な背中に集中させて。
荒く乱れる呼吸を意志の力で短縮し。
移動に伴う体の無駄な動きを省き。
万が一体勢が崩れても持ち直すことができるよう注意を体幹と足に向けたところで、
「索敵するだけの余裕は、もう残されていないのかな」
背中に衝撃が走った。
「なっ、あ……!?」
体が前のめりに倒れる中で何が起こったのかと目を動かす。マシューに何らかの動作は見受けられない。
では何が、と考える暇もなく体が床に叩きつけられた。
背中が異様に重い。
圭介の疲労の度合いを考えても、不自然に重い。
まるで何かがのしかかっているようだ。
「ダグラス君は随分と暴れ回ってくれましたが、どうやら最低限の仕事はしてくれたようですね」
男の声が聞こえる。
マシューとは違う誰かの声。
「ええ。そうは言っても都庁舎を破壊した件については、こちらも都知事として不本意に思わざるを得ない結果となりましたが」
「ハハハ、まあそこは許してあげましょうよ。彼が頑張ってくれたからこそ最大の障害をここで取り除けるわけですから」
和やかに話すその声を、圭介はどこかで聞いた事があった気がした。
しかしそんなはずはないと床に這いつくばりながら思う。
その声の主は、絶対にここにいないはずなのだから。
「まあ確かに……。ユビラトリックスから帰還するのが想定以上に早かったのは誤算でした。これに関しては僕の落ち度と言えるでしょう」
「貴方がそこまで気にする必要はないかと思いますが。ジェリーさんもバイロン君も、ララ君にダグラス君だってよく動いてくれた。だからこそもう我らを妨げるものはない」
足音が近づいてくる。
それは圭介の顔の近くで止まり、次いで硬い感触が脇腹に触れた。どうやらつま先を押し当てられているらしい。
「ええ、それは本当に。僕一人ではこのような結果を得られなかった」
指一本動かない中で、圭介の心が死への恐怖すら凌駕する驚愕に満たされていく。
やがて、押し当てられたつま先が強引に全身をひっくり返す。
仰向けになったことで相手の顔が見えるようになった。
「ご協力感謝していますよ。ヴィンス・アスクウィスさん」
臙脂色に染まった空間の中で。
死んだはずの禿頭の老人が、圭介を見下ろしていた。
「ヴィンス先生……? あんた、死んだはず、じゃ」
「そう思って当然だろうね。私が生きているのを知っているのはマシュー都知事と、錬金術による工作活動を進めてくれたバイロン君だけだったから」
冷徹な表情の彼はいつぞや学校で見た時と同じく、鋭い殺意を漂わせている。
圭介が憶えている限りだと、死体は騎士団によって回収されていたはずだ。それは彼が収容されていたという監獄病院、アッサルホルトの医者からも聞いていた。
(騎士団……)
しかし圭介はついさっき空港で仲間を裏切った騎士を見たばかりである。もしかするとヴィンスも名前を出したバイロンが、現場での調査という名目で何か細工を施していたとしてもおかしくはない。
「見ての通り最初から死んでなどいない。ダグラス君に斬らせたのは私の姿を模したホムンクルスでしかなかったのさ」
つまるところ、全ては策謀の内にあったのだ。
死んだものとして認識している相手を警戒する手段はない。圭介は完全に彼らの術中にはまっていたのである。
この状況でこんな相手が残っていたとは思わず、奥歯を噛みしめた。
「まあ、本来ならこの話はケースケ君と接触する機会を失った段階でダグラス君にも通しておくつもりだったんだがね。トラロックではゴードンも同じ方法を用いて生存させる予定だったんだが、彼が死を選んだのは私としても意外だったよ。てっきりもう少し意地汚い人物かと思っていた」
ふぅ、とヴィンスが溜息を吐く。
その後ろに奇妙なものが浮いているのが見えた。
白い帯にも似たそれはよく見ると長大な体を持つ深海魚にも似た魚。しかし恐らく元の世界どころか異世界の図鑑を紐解いても、それと同じ姿の種類はこの世に存在しないだろう。
全身を水に濡らしながら宙を漂うそれが何なのかはわからない。ただ、先ほど圭介の背中を攻撃したのは間違いなくそれなのだと感触から想像できた。
「ああ、これが気になるかい?」
圭介の疑問に気付いたのか、ヴィンスがそれに目を向ける。
「“鉛の池”クェンティン・ボットのグリモアーツ、“レインウォーカー”。君から受けた傷を治療する際、プロジェクト・ヤルダバオートによって私の体に埋め込まれた咎人の遺品だよ」
――“鉛の池”クェンティン・ボット。
その名前は随分と前に聞いた覚えがある。
夜のマゲラン通りで、目の前の男から。
「液体の重量を増幅させる第四魔術位階【アゴニーリキッド】。コップ一杯分の水でもこれによって岩を砕くことができるというのだから凄まじい話だ。事実、背中に浴びただけでもう起き上がれないだろう?」
全くその通りだった。ダグラスとの戦いで積み重なった疲労の度合いを上回る負荷が、圭介の背中にびったりと貼り付いている。
体を起こせず苦しんでいる圭介の胴体に、更に上から雨のごとく水が振りかけられる。
「ぐ……ああああぁぁ」
痛みにすら感じる重みで包み込まれ、もはや指一本まともに動かせない。
もしも体調が万全な状態でこれを受けたとしたら、きっと今頃圭介は大声で叫んでいた。
降り注ぐ水はまだ止まらず、圭介の体を中心とした水たまりを形成していく。水たまりはやがて水槽に溜められたかのように同じ場所で留まり続け、上へと水位を上昇させる。
ホールケーキにも似たそれは流体操作の魔術によって成される器だ。決して横に流れることなく、中に倒れている者を確実に飲み込み死へと追いやるのだろう。
「クェンティンは“大陸洗浄”より以前、この魔術によって取引先の工場にいた人間を全員圧殺したそうだ」
重い水に耳まで沈んだからか、ヴィンスの声がくぐもったように聞こえた。
「恐ろしいのはその拘束力でね。普通なら工場内にいる人間を誰一人逃さず全員殺すなど不可能なのだが、何せ重い水で全身を濡らされて逃げ切れない」
髪の毛が一本残らず下へと垂れていく。同じく垂れた睫毛と眉毛で目元が重い。
まだ顔までは覆われていないのに、既に呼吸すらままならなくなっていた。
「君は生命を本格的に脅かされた時、新たな魔術を会得する傾向にある。だが仮に今それを手に入れたとしても、それだけ疲労している状態でこの魔術を前にして何ができるものでもないだろう」
やがて水が顔すら覆う。完全に全身が沈んだ圭介の体には、まるで岩が載せられているかのような重みが加えられていた。
圧死するか、溺死するか。最悪の二択しか残されていない。
何をどう足掻いたところで、抗うための体力も魔力も残されてなどいなかった。
ごぼりと口から泡が出て、しかし水が重いからか吐き出しきれず滞留する。泡と水で視界が覆われて何が何だかわからない。
「さようならケースケ君。この理不尽な殺人鬼を恨みたければ恨めよ」
そんな、遠くから聞こえるような声を皮切りに。
圭介の意識は闇の中へと落ちていった。




