第十七話 手を汚すか、心を汚すか
金属板と矛の先端が衝突する度に握り拳大の空気の塊が飛沫よろしく周囲に散らばる。着弾した地面が陥没するのを振動で感じ取りながらも、圭介とダグラスは互いから目を逸らさずグリモアーツを振るい続けた。
気流を操作する念動力魔術【エアロキネシス】は【サイコキネシス】と異なり停滞しない。巨大な鈍器、力の抜けた身体、それら全てを一ヶ所に留めず激しく振り回す。
(丁度いい)
早期決着を狙う上でこれほど適した魔術もあるまい。あの鬱陶しい抵抗力魔術を使うダグラスが、ほとんど純粋な白兵戦を強いられていた。
「ッソがあ!」
上段から振り下ろす“アクチュアリティトレイター”をすんでのところで避けられるも狙いは単なる攻撃じゃない。
叩きつけると同時に強烈な風が吹きすさび、舞い上がる粉塵で視界が遮られる。
「【滞留せよ】!」
「う、ぉお!?」
円錐状に回転する旋風の足場に乗り、その粉塵の帳を破って“アクチュアリティトレイター”を置き去りにしたままダグラスへと突進。左手に持ったクロネッカーで喉元を狙う。
しかしその軌道は飛来した“カインドホロウ”によって弾かれ、逸らされた。
体勢がどうあれ迎撃や防御を間に合わせる辺りは流石としか言いようがない。加えて優れた感覚を有する狼の獣人に目眩ましの効果は薄かったのだろう。
それでもダグラスの反応は想定の範囲内であった。
「ったら何だァ!」
まだ使い始めたばかりの【エアロキネシス】は止まることを知らない。足場とする風は左手が弾かれようと構わず前へと進み、圭介もならばと右肘を突き出す。
強力な風を纏ったエルボーがダグラスの頬にぶつかった。
「げぇっ」
【リジェクト】で風の力を相殺されるも腕が生じさせた運動量は防ぎきれず、純粋な勢いによる一撃を叩き込む。
足を止めるな。相手が回避か防御を選択しても対応できる準備をしろ。
ユーに教えられた実戦向きのアドバイスは当初「無茶を言うな」としか思えないものだったが、こうしてみると極めて正しい。結果、ダグラスは殴り飛ばされて下のフロアへと落下していった。
「おっと」
相手の姿が見えなくなってから飛び出してきた半透明の狼を風で真上に跳躍することで回避する。眼下で通り過ぎるそれが旋回しようとするのを見ながら、圭介は冷静にクロネッカーを投擲した。
短剣が飛んだ先には、浮遊する“カインドホロウ”。
(動けるようになって冷静に観察すると驚くほど単純な仕組みだったな)
三つの金属塊が正三角形を描いて等間隔で浮いているところに衝撃を加える。それにより形が崩れたことで術式が一旦解除され、狼の幻影はフッと姿を消した。
回復術式は間違いなくダグラスによって構築されたものだが、術式を狼の形に変化させて縦横無尽に移動させるなど通常はあり得ない。マナという物理的に曖昧な状態で固定されているそれはグリモアーツに支えられて成立している。
そしてグリモアーツ側が保っている均衡ありきの存在は、均衡さえ崩されれば存在できなくなってしまうのだ。
(本当の狙いはこっからだ)
風で細かな動きを実現するのは難しいため【テレキネシス】でクロネッカーを回収し、下のフロアに風を伴いながら降下する。
「がああああっ!!」
着地する瞬間の不意打ちを狙ったのか、ダグラスが“エクスキューショナー”を構えた状態で突っ込んできた。だがその動きは周辺一帯の空気の流れを掌握している圭介からしてみれば、俯瞰するが如く容易に感知できてしまう。
切っ先を“アクチュアリティトレイター”による横薙ぎで弾き、そのまま勢いに任せて一回転しながらぶん殴った。
「ゲァッ」
ふっ飛ばしたダグラスは崩壊した壁の穴から向こう側、天井も何も残っていない剥き出しの状態となった部屋の奥へと突き進む。
この一撃で決着がつけばと思うがそうもいかないらしい。床が歪んでやや傾いた給湯室の流し台に叩きつけられた彼を、金属の三角形が取り囲んでいた。
まるで母が息子を護るかのように狼の幻影がダグラスを包み込んで圭介を睨みつける。
見当違いもいいところだ、と心中で吐き捨てた。
「……そんな顔すんなよクソ狼。お前がいなければもっと平和的に終わらせる道もあったんだぞ」
負けじと睨み返しながら風に自身と“アクチュアリティトレイター”を預けて吹き飛ばされる形で急接近する。
息切れを隠せなくなってきたダグラスの胸ぐらを掴み、狼が動き出す前に給湯室からそう離れていないとある場所へと突っ込んだ。
中央にあるものとは別に設置されている小さな吹き抜け。最上階から地下まで繋がる長大な穴。
来客用でも荷物用でも非常用でもないそれは、要人用と言われる特別なエレベーターだ。
今日のように非常事態が発生している間はまず真っ先に都知事などの権力者が使い、避難がある程度完了している現段階では誰も使っていない。
ダグラスとともにその中へと突き進むと、やはり上層階の崩壊によってワイヤーが千切れたらしくエレベーターを構成する要素が残されていないのがわかる。つまるところただ縦に長いばかりの穴だ。
圭介はダグラスを下、“アクチュアリティトレイター”を上の位置関係に調節すると全身に纏う風を一気に高速回転させた。
「ケ……スケ、てめっ」
「終わりだダグラス」
そして、最後になるだろうと覚悟を決めながら告げつつ。
狭く暗い洞の最奥へと向かって、爆発的な勢いをつけて真下に落下した。
「ぐおおおっ……」
「オラァァァァァァァァァァァァ!!」
最下層へと突き進むその勢いは、先ほどまでの攻防で見せたいかなる攻撃よりも激しい。
風と膂力に加えて“アクチュアリティトレイター”が重力を伴って振り下ろされた分の運動量もあるのだ。下から上に向けられるダグラスの腕力と【リジェクト】だけでは、対抗することすら不可能である。
(頼む、これで死んでくれ……!)
圭介の祈りに応じたわけでもないだろうが。
永遠にも一瞬にも思える時間の果て、豪快な破砕音とともにその時は来た。
「っ……」
もはや悲鳴すら出ないのだろう。白目をひん剥いて大きく口を開けながら、ダグラスは下にあったエレベーターの籠をひしゃげさせて背中から着地していた。
抵抗力魔術に加えて結果的にクッションの役割を果たした籠の存在に助けられ、原型は留めている。しかし立ち上がってくる様子はない。
「死んだ、のか?」
もしそうなら気絶していても作動する回復術式とて、流石にもう機能しないだろう。
安堵と罪悪感が同時に押し寄せそうになる中、その双方を打ち消すように幻影の狼が遅れて吹き抜けの終着点に舞い降りた。
金属の三角形がそれぞれ角の位置に滞空し、ダグラスを青白い三角形で囲む。
「嘘だろオイ。バカ、やめとけって」
狼が傷を癒やす様子を見て圭介は目を見開きながらか細い声を上げた。当然、それでやめてくれるはずもない。
回復術式が作動して淡い光でダグラスを包み込むと、彼はまた立ち上がった。
とはいえ負傷の度合いがさっきまでのそれと大きく異なる。“エクスキューショナー”を杖代わりにするその体勢はまだどこかおぼつかない。
「へ、へへ……。すっげぇなお前。ここまで追い詰められたの、俺、初めてだぁ」
それでもまだダグラスの戦意と殺意は衰えていなかった。鋭い眼光を圭介に向けてくるその様は、手負いの獣そのものである。
「けどよ、お前もうかなり無理してるよな? 背中の傷のせいでまともに立ってられねえのを魔術で誤魔化してっから、魔力切れも近いだろ?」
「……っ」
図星だった。
そもそも短時間で決着をつけようとした最大の理由が圭介の継戦能力不足である。
本人に自覚がないままグリモアーツを【解放】する度に周囲のマナを遠ざけてしまう彼は、結果的に使える魔力のリソースが少ない。更に言えば念動力魔術は詠唱を要さないものばかりある一方で、集中力と計算を求められる。
つまるところ魔力も精神力も、他者より多く求められるのだ。
仲間とともに戦っていた頃はそこから目を背ける余裕もあれど、今は完全に圭介一人だけ。その状態で休む間もなく戦闘を継続したせいか、徐々に全身が重くなっていく。
「ここには助けてくれるお仲間なんざいねぇ。だが俺には母さんがいる」
風を切る音も置き去りにして、“エクスキューショナー”の矛先が圭介の額に向けられた。
「最初から数で負けてたんだよお前。だからこうして殺されるわけだ」
膨れ上がる殺気と喜悦を感じながら、圭介はダグラスの方を見る。
「…………あァ?」
その時の圭介の表情を見て、ダグラスが初めて戸惑いの表情を浮かべた。
魔力は既に心もとなく、仲間もいない孤立した状態。逃げ場すらない狭い空間で自身に刃を向ける排斥派の殺人鬼と向き合う羽目になる。
そんな状況下にあって、普通であれば絶望するなり諦めるなりするはずなのだ。
しかし。
圭介が抱く感情は絶望こそ含まれているものの、趣が違う。
――憐憫。
明らかに場違いと言えるその感情を向けられて、矛の切っ先が揺らいだ。
その一瞬を突いて圭介が口を開く。
「ダグラス」
「なん、だよ」
結論から言えば、そこで続きを聞かず即座に殺さなかったのが彼の敗因であった。
圭介は紡ぐ。
いかなる魔術よりも目の前にいる排斥派の青年に、ダグラス・ホーキーという男に致命傷を負わせるであろう言葉を。
ついぞ殺せなかった己の不甲斐なさに涙さえ流しながら。
「母親の残骸で他人をペチペチ叩く遊びが、そんなに楽しいか?」
がらん、と。
ダグラスの手から“エクスキューショナー”が滑り落ちる。三角形を維持していた“カインドホロウ”も同様に形を崩し、彼を包んでいた狼が姿を消した。
「……ハ、ハハハハ。何だよ急に。この期に及んでおま、お前、煽ってんのか?」
ガクガクと震える手で矛を拾い上げようとするも、まず指がまともに動かず握ることさえできない。戸惑いを隠しきれないダグラスは、まるで圭介以上に消耗しているかの如くしゃがみ込んでしまう。
「こんな、だってお前。なに。何、言ってんだよ。なぁ」
その無意味な問いかけに圭介は応じない。
ただ、矛を拾うどころか立ち上がる様子さえ見えないダグラスを泣きながら見下ろすばかりである。
「急によぉ。そんな、こと、言われてお前、よお」
やがて落ちていた“エクスキューショナー”がカードの形態に戻り、“カインドホロウ”も光の粒となって彼の右腕に吸い込まれていく。
「わかんねーよ。わかんねー。何だよ、なんで――」
完全に諦めたのか、カードに戻った自身のグリモアーツを拾う動きさえ見せなくなった。
圭介を見上げるダグラスの顔は、圭介と同じ理由で濡れている。
それでも口元だけは笑みを作り、言葉を紡ぐ。
「――なんてこと言うんだ、お前」
それだけ言って。
ダグラスはばたりと倒れた。
うつ伏せになった彼を見下ろしながら圭介は“アクチュアリティトレイター”をカード形態に戻し、背後の壁に体を預ける。
(ああ、胸糞悪い。だから魔力切れで倒したくなかったんだ)
回復術式と一言でまとめても、その内容は多岐に渡る。
恐らくダグラス自身も認識できていなかったようだが、“カインドホロウ”に組み込まれていたのはただ外傷を癒やすものだけではない。心の傷も否応なく癒やす精神干渉の術式が精神を常に守っていたのだ。
その可能性は本人が示唆している。
客人に対する憎悪や殺人に伴う罪悪感。精神的な負荷となる要素が欠如とさえ形容できるほどに感じ取れず、彼はただ戦闘と殺戮を娯楽として捉えている節があった。
そして圭介に最後の確信を持たせたのは「魔力切れの経験がない」という情報。
彼が魔力切れになってしまえば、精神的負荷を軽減していた“カインドホロウ”による魔術が途切れてしまう。途切れた瞬間これまで感じるはずだった憎悪や罪悪感、その他ありとあらゆる負の感情が一気に押し寄せるのはわかりきっていた。
(これまで一度も怪我を負ったことのない子供が、全身を引き千切られるのと同じだ。耐えきれるはずない)
だから、殺せるなら殺そうと覚悟を決めた。
彼が魔力切れに陥る前に。
目を背け続けていられる内に。
それができないと悟った圭介は、最後の手段としてダグラスに最も傷つくであろう言葉を投げつけたのだ。一生を地獄のような責め苦に苛まれながら過ごす羽目になると知って、それでも自分が生き残るために。
(せめて殺してやりたかったけど、そうもいかないならどうしようもないな)
まるで圭介こそが自分自身の罪悪感から目を背けているような気分に陥りながら、次の行動について考える。目の前の脅威は去ったものの目的はまだ達成されていない。
(校長先生の安否を確かめないと)
いくら魔力切れが近いと言っても、まだレイチェル一人くらい引き連れてここから脱出する程度の余裕はある。
壊れた籠の上を歩いてとりあえず目の前にあるドアをこじ開け、恐らく都庁舎の最下層であろう空間に出た。
(あー、索敵する余裕すらねーからどこにいるのかわかんないや。直接探すしかないのかよきっついなぁ)
ただ奇妙な違和感もある。
圭介の想像においてこういった建物の地下にあるのは駐車場と相場が決まっているものだが、今歩いている場所は黒い壁と黒いカーペットに彩られた隘路だ。天井と壁の境目に設置された照明が白く灯っている。
コンクリートで覆われた場所に出ると思っていた圭介はまるで映画館の一画に迷い込んだかのような錯覚を得た。
(なんだろ、都庁ともなると非常用の出口とかそんなんがあるのかな)
疲れで判断力が鈍った圭介は気づかない。
周囲を覆うそれら全てが防音素材であることに。
この場所がただ避難するだけの設備ではないことに。
一本道の通路を歩いていくと、やがてクッション材を用いていると思しき大きな扉に辿り着いた。
これこそまさしく映画館のような様相を呈しており、余計に違和感が膨らんでいく。
(まあここ以外に入れる場所もなさそうだし)
満身創痍の体は警戒するだけの余裕を持たない。奇妙さに対する感想はそのままに、ただ目的と安全確保のためだけを考えて扉を開けた。
扉の先にあったのは、広い空間だった。
これまで通ってきた通路の照明と異なり、臙脂色の光を宿す器具でそこかしこが暗い赤色に染まっていてどうにも薄気味悪い。まるで腐肉が詰め込まれているかのような不気味さを伴う空間の中央には、ピンク色に輝く円柱が鎮座している。
周囲を見渡すと部屋の構造も見えてきた。
全体を見れば三角錐の形を成す部屋なのだろう。三つの辺で結ばれる天井の頂点からは杭が生えており、その先端は中央の円柱とぴったり合う位置で止まっている。
(あれ? これ、どこかで……)
その様子を見て、圭介は奇妙な既視感を覚えた。
少し考えてから壁と天井を支える三つの柱を見て答えを得る。
(シーカーだ。ルンディアで地質調査する時に使ってた)
想起するのはエリカと一緒に行った遠方訪問。ルンディア特異湖沼地帯で地質調査をする際に用いた三脚つきの器具。
それがどうしてこんなところに、と思いつつ中央の円柱に近づく。
発光するそれはしかしよく見ることで内部を覗ける程度には透けていた。一体何が、と薄い好奇心で目を凝らす。
「うわっ」
その中身を見た途端、圭介が一瞬疲れも忘れて後退した。
円柱の中央には全裸の少女が直立した状態で浮いている。
髪や睫毛も光と同じくピンク色で、年齢は圭介より年下くらいだろうか。やや痩せている体躯は彫像のような美しさを持ち、すらりと伸びる四肢は人体の一部でありながら人工物めいた完成度を有していた。
「なんじゃこりゃ。あれか、母さんが言ってた南極うんたらってやつか?」
性的な不祥事を起こした女性アイドルのニュースに向けた母親のコメントを思い出し、圭介は微妙な面持ちになる。
「そのなんきょく何たらが何を意味するのかは知らないが」
と、その円柱の向こう側にある空間からコツコツと足音を鳴らして誰かが近づいてくるのがわかった。
位置的には扉と真逆、圭介の体が向く先にある部屋の角から足音が聴こえてくる。
「その御方は我が国の初代王妃、リリィ・アガルタ様さ。よくわからないもので例えるといくら君でも不敬罪で裁かれるぞ」
輝く円柱を避けて現れたのは、圭介も見覚えのある巨躯と長髪。
そして、額から伸びる一本の角。
「あれ、マシュー都知事?」
「やあケースケ君。ユビラトリックスでのお仕事、頑張ってくれたようだね。お疲れ様」
王都メティスの都知事。
マシュー・モーガンズが微笑みながら圭介を労ってきた。




